‘他誌からの転載’ カテゴリーのアーカイブ

三日月に吊しておきぬ唐辛子   岩淵喜代子

2017年3月14日 火曜日

「遠矢」4月号
現代俳句月評  筆者・景山 薫

「俳句」12月号「子規忌」より。 夜窓のカーテンを閉めるときの景ではあるまいか。凡人なら乾かしている唐辛子の乾き具合にしか目がゆかず、それを確かめただけで窓を閉めたであろう。しかし作者は違った。目線を上げ、くっきりとした三日月を見つけた。

白い三日月と真っ赤な唐辛子。この二つをドッキングさせるため、三日月を鉤に見立てた作者の炯眼。童話の一シーンになるようなメルヘンチツクな一句。

一切皆空もくもくと毛虫ゆく    岩淵喜代子

2017年2月17日 金曜日

『ランブル』2月号

現代俳句鑑賞62   筆者 今野好江

『俳句』十二月号 「子規忌」より
上田五千石の『俳句塾』の中に季語に関する一文がある。「季語にはなるべくして季語になった事由がある。歌人、連歌師、俳諧師、俳人の審美眼によって汎く平俗の言葉の中から採取、且つ培養、育成、愛用されて日本の歴史の永く深い時の鍛冶(たんや)を経て結晶化した詩語であることの尊厳をこそ思うべきである。――――」

筆者自身、初学の頃、蚤、民、芋虫、軸蜒、ごきぶりに至るまで季語であることに驚愕した。やがて毒性もあり、人を刺す嫌われ者のたとえにもなる〈毛虫〉でさえ、愛情とまではいかないが普通に見ることが出来るようになった。〈一切皆空〉とは仏教語であり、あらゆる現象や存在
は実体をもたず空であるという言葉である。これは心の迷いを去って真理を会得ことなのかも知れない。悟りきれない人間には、〈もくもくと〉ゆく毛虫を少し羨ましいと思っている。同時掲載に
三日月に吊しておきぬ唐辛子

芋虫に手があり一心不乱なり   岩淵喜代子

2017年2月7日 火曜日

『饗宴』3月号    現代俳句の窓
筆者・中村克子

芋虫は蝶や蛾などの燐翅目の昆虫の幼虫類全般を指していう。キャベツなどを食い荒らす青虫も芋虫の一種だという。我が家の無農薬菜園にも芋虫がのさばている。ことに青虫が多く、毎日が青虫との闘いである。

芋虫に足が3対6本あるとは言われているが、手があることは知らなかった。イモの葉やキャベツなどを食い荒らす害虫も、自分の命を守るために一生懸命である。”一心不乱なり”にどこか憎めない面白さがある。
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『燎』2月号   現代俳句展望
筆者・蔵多得三郎

「俳句」12月号「特別作品21句 子規忌」より
掲句、何だか自分のことを言われているような気がする。よく見ると芋虫は芋虫なりに一生懸命に手足を動かして這っている姿があまりにも一心不乱でつい笑ってしまうのだが、よく考えてみるとひょっとしてこれは自分自身の姿そのものではないかと思えてくる。「一心不乱なり」の措辞に生真面目な可笑しさがある。

葛の根を獣のごとく提げて来し    岩淵喜代子

2017年2月2日 木曜日

『風土』2月号   現代俳句月評  ・筆者・中根美保

「俳句」12月号(子規忌)より
獣でもないものを獣のようだという作句例は多いが、掲句は「提げて来し」が眼目。山に入り、澱粉を蓄えて肥大した葛の根を掘り出して来た人物の様子を詠んでいる。葛の根もまた猪などの捕獲物と同様、山の恵みという背景にあろう。

繁茂し過ぎて他の植物を駆逐するほどの葛の生命力も思われる。葛の根を「獣のごとく提げ」て来たのは、ときには山から本当の獣も提げ返ることだってある山の男なのかもしれない。

石榴から硝子の粒のあふれだす  岩淵喜代子

2017年2月1日 水曜日

「空」2017年2・3月号
俳句展望  筆者・天谷 翔子

(『俳旬』十二月号より)柘榴のあの赤い美しい粒を詠みたくて何度か考えたことがあるが、ルビーのようなという平几な言葉しか浮かばなかった。硝子の粒、そう、あれはまさに硝子の粒。しかも〈あふれだす〉という措辞の上手さ。

同時掲載の〈道祖神今日は団栗山盛りに〉にも惹かれた。道祖神の前に団栗が置いてあるという平几な景が、〈今日は)という措辞で一気に佳句になる不思議。毎日道祖神を訪れる子供たちがいるのだろう、昨日、一昨日は何がおいてあったのだろう、と想像させる。〈山盛りに〉も映像が鮮明で、道祖神への愛情の溢れた表現だ。

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「火星」2月号 俳壇月評より
筆者・坂口 夫佐子

『俳句』十二月号「子規忌」より).割れた柘稽の実はその色、形から凡そ美しいものの代名詞からはかけ離れたもの、寧ろグロテクスなものとして扱われることの方が多いように思う。

それがあの割れた赤い実の粒粒を「硝子の粒」と捉えたことによつて、日の光を返す宝石のように見えてくるのだから、言葉の持つ力は大きい。俳句は詩。固定観念を捨て去り、素の心で対象に向き合うとき、思いがけない発見があり、詩情豊かな句が生まれる。
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『麻』1月号       現代俳句月評
筆者・川島一紀

『俳句』十二月号「子規忌」より。柘溜の実は、熟れてくると、堅く厚い皮が割れて中にぎつしりと詰まった淡紅色透明の液体を周囲に含む種が見えてくる。この淡い赤色の透明な粒は非常に美しい。ますます割れ目が広がってくると、その粒がこぼれそうになる。その透明な淡赤色の粒を硝子の粒と称した表現に詩情が溢れる。石榴の粒を硝子の粒に喩えた感性に感服。

一切皆空もくもくと毛虫ゆく   岩淵喜代子

2017年1月27日 金曜日

『郭公』二月号 俳壇の今    筆者・山上薫

(「俳句」12月号『子規忌』より)
一切皆空。あらゅる現象や存在は実体がなく空である。むずかしい仏教用語も這い進む毛虫には関係のないこと。国際政治とも、金融政策とも、テロリズムとも、難民とも、そして、我が家の買い物リストとも、何の係わりもなく毛虫はゆく。

この融通無碍さはどうだ。毛虫よ、何をどうすればお前のようにもくもくできるのかね。毛虫が答える。わからないよ、おれはただもくもくしているだけだから。もくもくと働くもくもくじゃない。もくもくと煙の立ち昇るもくもくじゃない。ただ、もくもく。俳諧味。ああ、それを言っちゃおしまいだ。もくもくすることだけがもくもくなんだから。もくもくと。ゅく。ゆく。ね。

ににん 秋号 通巻六四号 季刊

2017年1月24日 火曜日

『好日』 2月号より、俳誌月評  筆者・須田眞里子

代表 岩淵喜代子。平成一二年岩淵喜代子が埼玉県で創刊。発行所朝霞市。「同人誌の気概」ということを追求している。

岩淵喜代子作品「余韻の水母」より
一碗の重湯水母のおもさあり
生涯は水母のごとく無口なり

ににん集
我が書架の有限なるや春の塵    木佐梨乃
星の夜の書架万物に見透かされ   木津直人
こほろぎの潜みし書架や方丈記   栗原良子
秘の文書しまふ地下書庫冷まじや  西方来人
書架奥のチャタレイ夫人火取虫   鈴木まさゑ

さざん集
抽斗に釦いつぱい盆の月      尾崎淳子
3Dメロンの網の小宇宙      鬼武孝江
くすり飲む時間となりぬ酔芙蓉   川村研治
揺れ戻す揺れ戻しては吾亦紅    兄部千達
輪郭の鯰となつて泥動く      高橋寛治
遠雷や古木の卓の台湾茶      谷原恵理子
先へ先へ影飛んでいく秋の蝶    浜田はるみ

木佐梨乃氏「英語版奥の細道を読む」、
高橋寛治氏「定型詩の不思議」、
正津勉氏「落丁愚伝」。
秀句鑑賞は岩淵喜代子代表
「ににん反芻」、浜田はるみ氏「十七音の宇宙」。

巻末の「雁の玉章」は、岩淵喜代子代表を含む四氏の個性豊かなエツセイ集である。

一日ただ子規忌に凭れゐたりけり    岩淵喜代子

2017年1月24日 火曜日

『天衣』2月号 現代俳句鑑賞
筆者・古田雅通

『俳句』十二月号(子規忌より)子規の忌日は九月十九日。子規は俳諧革新運動の中心となり、江戸期までの俳諧の発句を明治期に俳句として独立させた。日本の文学史上画期的な革新であった。それだけに子規忌は俳人にとって特別な日である。

「子規忌に凭れゐたりけり」との比喩表現により、子規忌があたかも堅固な柱のような存在として立ち現れる。作者はこの日、俳句の礎を築いた子規への思いを深め、俳句の原点を見つめたのであろう。「一日ただ」「ゐたりけり」との措辞からは、子規への敬意の深さが伝わってくる。
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『松の花』2月号 現代俳句管見
総合俳誌より    筆者・平田雄公子

白露の候、今年は敬老の日でもあった9月19日の、「子規忌」。没後百十余年の大先達に、「凭れ」る許り。

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『俳壇』2月号 俳句月評・12月号の作品  筆者・高橋博夫

(「俳句」12月号子規忌」21句より
正岡子規が三十四歳で亡くなったのは明治三十五年九月十九日。ときに病床での痛みに耐えかねて「号泣」した、その亡骸の傾きをなおすために肩に手をかけた母・八重は「サア、も一遍痛いというてお見」と強い調子で語りかけ、落涙したという。

彼の多方面の文芸上の業績は、若き日の喀血以降に短命を意識したことときりはなせない。「凭れる」には、そうした子規に寄せる親身な追慕がかよう。

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『獅林』2017年2月号 総合誌の秀句鑑賞   筆者・森 一心

『俳句』12月号 特別作品21句「子規忌」より
「子規忌」は、正岡子規の期日、9月19日。獺祭気、糸瓜気ともいう。子規は今更いうまでもないが、名は正岡常規。俳人・歌人で、我々が今日俳句を学べるのは、すべて子規が作り上げた道を歩けるからである。

別号は獺祭書屋主人、竹の里人。伊予(愛媛県)生まれ。日本新聞社に入り記者となる。俳諧を研究、雑誌「ホトトギス」に拠って写生俳句を首唱した。作者は、この日、一日中、子規のことのみ思い続け「凭れ」切ったのである。

海月また骨を探してただよへり   岩淵喜代子

2017年1月24日 火曜日

『岳』2016年12月 展望現代俳句』より  筆者・佐藤映二

「ににん」秋号より。「余韻の水母」と題して、23句すべて水母の季語を配した意欲に惹かれる。〈骨を探して〉から、どうしても東日本大震災の大津波に遭難した幾多の人を想起する。

5年半経った今でも、行方不明者の捜索が節目ごとに実行されている。無力感に幾度も押しつぶされながら、その片鱗もとの願いに寄り添う気持ちが(また)の措辞によって表されている。同時作「忘れよと水母の海に手を濡らす」も、今は何事もなかったかのような海に手を浸すことで、却って忘れ得ない現実に引きもどされる哀しさを表しているのである。

「澤」主宰・小澤實 2016年10月号より 

2016年10月5日 水曜日

窓 俳句結社誌を読む    筆者・馬場尚美

「ににん」2016年 夏号 vol 63号
「ににん」は平成十二年秋、埼玉県朝霞市にて岩淵喜代子が創刊。「同人誌の気概」ということを追求していきたいとある。師系は原裕。季刊。

まひまひやおのが輪脱げぬまひまひや   正津 勉
なめくじは負う家も無しなめくじは

正津勉氏の書き下ろし「一切合財煙也」二十句より。見開きに並ぶ二十句は五句一束の構成。一束ごとに世界が創られており、七五調の音数律を抜け出した自由律の言葉が、すとんすとんと降りてきて、五七五に収まっているような風情。言葉たちにお帰りなさいと声をかけたくなる。

まひまひの句はなんと詠嘆の「や」が上五と下五に置かれており、俳句の定型としては驚きであるが、中七の「輪」を中心にぐるぐる回っているのだと合点した。終わりのないぐるぐる。なめくじの方は、のったりと進んで「は」の後はどこへ進むのかなめくじにもわからないのだ。

負うた殻を脱げない哀しみと身ひとつのやるせなさ、と私は人間の視点で読みつつ、かたつむりやなめくじから見た人間はどれほどの生き物なのだろう、と想像していた。そうか、視点遊びのおもしろさ。視点を変えれば「一切合財煙也」か、と考えさせるところが詩人の力である。

凡人のあとさきに降る桜蕊      川村研治
十薬を煎じ凡人生き延ぶや      栗原良子
凡人や手持無沙汰の金魚飼ふ     浅見 百

兼題「凡人」である。難しい題だと思った。日々を凡々と暮らしている私に、「これぞ凡人」という句を作れるものだろうかと思いつつ、五十名近い俳人の「凡人」の句を読んだ。それよりまず三句。

一句日、「あとさき」が巧い。天は凡人の上にも奇人の上にも桜蕊を降らす、とちょっと聖旬めいた慈しみを感じさせる「あとさき」だ。花吹雪ではなく桜蕊であるところがつつましい。
二句目の十薬を煎じるというのも、健康に気遣う凡人の行為として実にまっとうで、愛すべきではないか。人様の迷惑にならないようにぴんぴんころりを願う。

三句日、この金魚は夜店で釣ってしまったにちがいない。凡人が手持無沙汰に飼うわけだから、高級な銘柄金魚ではないと想像がつく。「凡人や」という詠嘆もなんというか、知らず知らずに息を漏らしてしまったような滑稽味がある。と、アイロニーを微かに漂わせる三句三様の愛しき凡人に、いたく親近感が湧いたのであった。

凡人に数へきれない落椿       岩淵喜代子

とても凡人とは思えないシーンに佇む凡人だが、そう感じることこそ凡である、ということか。数えきれない落椿が敷き詰められた舞台に立たせることで、作者はひとりの凡人の中のうかがい知れない非凡を浮かび上がらせているのだ。畢寛、人はひとりぞ、という普遍的な寂しさも感じさせる。

葱嶺の頂自麓青清水汲む      木佐梨乃

パミールはベルシャ語で「世界の屋根」という意味。そして中国語では葱嶺と呼ばれている中央アジアの高原。葱嶺とは、実際にこの地方に何百種という野生の葱が存在していることから名づけられたらしい。

仏教を葱嶺教というのは、釈迦が修行を行った地であるからという。そしてシルクロードの重要なルートでもあった。なんとも時空を超えて雄大な句だ。湧き流れる清水を汲む隊商のさざめきが聞こえてきそうだ。

ボート遊び中々岸に着かぬなり    兄部千達

溌刺と漕ぎ出したはいいけれど、ボートは慣れない人にとってはしんどい。そして倦みはじめてからが長いものだ。カップルで楽しんでいても漕ぐのに疲れて、だんだん無口に。とにかく岸に早く着きたいと願うが岸は遠い。「中々」に川か池の中ほどで、往生している心持がよくわかる。

くらげ生む地球と月の回転で     浜岡紀子

江の島水族館で大きな水槽に漂うくらげを見たときは、その神々しさに圧倒された。くらげは宇宙を感じさせるのだ。作者はその感覚を地球と月の回転が生む、というファンタジーにして見せてくれた。

アトリエを覗いてをりぬ羽抜鶏    宮本郁江
早熟の毛深き桃の手いれ時      伊丹竹野子

レトロな洋風建築のアトリエを、羽抜鶏が首を伸ばして覗いている。句自体が画材になりそうで楽しい一句目。そして毛深い桃とは、と一瞬とまどわせる二句目。どういう手入れをするのだろうと毛深い桃の映像があとを引く。

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