‘受贈著書’ カテゴリーのアーカイブ

『関西俳句なう』  2015年 本阿弥書店

2015年5月6日 水曜日

若手俳人26人の作品集、それも関西のメンバーと受けとめたが、さらに俳誌「船団」関西若手という括りになるのだろう。

ひっかかるのはこの本の帯文である。
ーー東京がなんぼのもんじゃーー
タイトルだけなら、関西のグループのアンソロジーとあっさりうけとめたのだが、この帯文でもう一つの意識をもって発刊しているようだ。

風鈴の中に金魚が二、三匹 加納綾子
神々が跳び箱を待つ立夏かな 黒岩徳将
漢和辞典ぴりぴりめくって行って、雪 二木千里
夕焼を回す遊具にしがみつく 三木基史
象+象それがおそらく晩夏である 山本たくや
吸って吐くほどのことさるとりの花咲く 手嶋まりや
君の手のブリキノのじょうろ初夏だった 山本晧平
こんこんと子を眠らせて雛の間 山澤香奈
150年前の振子や梅開く 藤田亜未
薔薇園の入口濡れてゐたりけり 涼野海音
迂回して残暑の海へバスが着く 久留島元
赤子やら冬瓜やらを抱き上げる 岡田一実
午後七時ゆみちゃんという守宮いて 舩井春奈
地図帳に白粉花を挟みけり 伊藤蕃果
卒業は信号待ちの多い日で 藤田俊
背の高さ耳のかたさを思う時 乘富あずさ
指先の蜘蛛の子にくすぐられている 河野祐子
たましひの器を月に曝しけり 羽田大祐
新入りのちいさないびき冬銀河 中谷仁美
炎帝へ口笛捧げやまぬ民 森川大和
さくらんぼ手とかつないでみませんか 工藤 惠
葉が揺れて葉影が揺れて風光る 杉田菜穂
春愁は蛍光灯の紐の下 塩見恵介
制服を濡らして虹の現れる 若狭昭宏
ペンギンに愁思わたくしは引越 朝倉晴美
いつだつてまひまひであるこれからも 新家月子

 

 

なめくぢの身の内灯る月夜かな    村上鞆彦

2015年5月5日 火曜日

掲出句はなめくぢの色を見つめることで、その本意を差し出している。なめくぢの色に目をとめ、その色の殊になめくじらしい一瞬をとらえたのが、この一句である。天空にある月、そうして地上にあるなめくぢ、それだけの構図が灯るの一語で結び付けられて魅力的。

あをぞらをしづかにながす冬木かな
牛ねむり馬のねむりに氷柱育つ
花の上に押し寄せてゐる夜空かな
水尾の端遅日の岸に届きけり
古書買うてわづかな雪を帰りけり
給料日桜に街の灯が映り
たんぽぽの絮をこはさず雨のふる

村上鞆彦第一句集『遅日の岸』  2015年  ふらんす堂  岩淵喜代子記

杜若水を余白としてゐたり   村上喜代子

2015年4月4日 土曜日

この句に立ち止まると、ほとほと俳句は描写力だと思うのである。杜若の周りは水面であることは当たり前のこと。その当たり前の風景が「余白」という一語によって独創的に立ち上がってくるのである。

人は意識したものしか見ていないものである。花を見にゆけば、花しか目に入らない。一句は花から離れて水を見て、再び杜若の姿を立ち上がらせている。

(かげろふにひとりひとりのふたりかな)・(しらうをの影はしらうをより濃かり)・(ゆきずりの茅の輪とみればくぐりけり)

現代俳句文庫『村上喜代子句集』  2015年 ふらんす堂

草刈の終り裸になりにけり   太田土男

2015年4月3日 金曜日

この句、裸になった経緯を草刈で大汗を掻いたのでシャワーでも浴びるから、としたなら身も蓋もなくなる。本当に俳句という文芸は、身も蓋もない話を身も蓋もあるように詠み、身も蓋もあることを身も蓋も無いように詠むことなのではないかと思うのである。

ほかに(雪晴れや生きてゐますと煙出し)・(蓮見舟ふはり濁世へ戻りけり)・(鬼やんま目玉になつて飛び来る)など。太田土男句集『花綵』 2015年 ふらんす堂

花は葉に置かれた椅子が動かない    山崎文子

2015年4月2日 木曜日

俳句は瞬間を言い留めることで読み手への浸透力がより強くなる。まさに写真のシャッターチャンスみたいな間合いが必要である。しかし、冒頭の句の(花は葉に)の季語は時間が内在している。花どきから葉桜どきへの空間が込められている季語である。その空間が(置かれた椅子が動かない)の内容を物語っていくのである。

他に(柿の種あり暗闇も少しあり)なども鑑賞したい句。 山崎文子第一句集『冬桜』 2015年 東京四季出版

春ショール靡かせ鳥になる途中    山元志津香

2015年4月1日 水曜日

風の中の春ショールのはためく場面はなんとなく物語めく。そういえばこの句集の題名『木綿の女』も句集と言うより小説の題名のようである。

掲出句は風の中の春ショールのはためく場面を(鳥になる途中)ということばに置いた。ショールが風になびいて鳥のようだ、というならごく常套的な場面のまま終わってしまうが、鳥になる途中と言ったことで、一句の奥行は無限に広がってゆく。

句集に(成行きにまかす残年新樹晴)のような老いを読むこともあるが、総じて暗さよりは華やかさを感じさせる句集である。

秋彼岸帰路の双手のさみしくて
泡立草はしやぎ過ぎしと思ふ帰路
螺旋階段がんがん行くは寒九郎
水ごくごく飲んで月下の氷柱となる

山元志津香句集『木綿の女』  2015年 文学の森

電柱の影一本の暑さかな   森川光郎

2015年4月1日 水曜日

掲出句は(影一本)という措辞がすべての中心を成している。電柱などの存在を普段はあまり意識はしていないが、その影には目を止めやすい。目に停めるほど影は濃く横たわっていたのだろう。ふと(花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月  原石鼎)が思い出された。そういえばこの作者森川光郎氏は鹿火屋に属している。

揺れることもなく立つ電柱は、その影もまた微塵のさゆらぎもなく地上に横たわっているのだろう。その光景が暑さの象徴となって、夏を増幅させてますます一本の電柱の影を濃くしていくのである。

耕すと阿武隈川を渡りけり
かじりたるトマトの蔕は海に放る
高き木に高く雲とび七月行く
おぶさつてすすきぶつぶつ芒にいふ
夕芒ならびてどれも影持たず

森川光郎句集『遊水地』 2015年

『桂信子文集』  2014年 宇多喜代子編  ふらんす堂

2015年3月20日 金曜日

端から律儀に読んだわけではなく興味のあるところを開いては読んでゐいるうちに殆ど読み尽した。桂信子の文章は読みやすいのである。それは、文章を書くという意識より、自分の納得したことを言葉にしているからだろう。

聖書から吹き飛ばされし夜の蟻   西池冬扇

2015年3月8日 日曜日

聖書にはーー怠け者よ、蟻のところに行って見よ。その道を見て知恵を得よ。ーーという箇所がある。作者もこの話を下敷きにしているだろう。だが、作者の目の前にいるのは、家の中を単独でさまよっている蟻であろう。夜の屋外などでは蟻は目に入ってこないからである。ただただ一匹の蟻を見つけただけなのに、(聖書から)の一語によって果てしない荒野にも思える空間が生まれた。

こうした思惟的な句の他に(冬に入る石を転がす象の鼻)のような作為のない句まで、幅の広い作風が詰まっている。西池冬扇第四句集『碇星』2015年 ウエップ

花の下からまつさをの眼の馬を曳く  田吉 明

2015年3月7日 土曜日

ーー1つの《組曲》は1頁乃至見開き2頁に収められる。一主題としての情景は、一句数句それぞれの一つにあって、語であり句(行)であることの相関に、展開の構造をもつ。ーーと作者自ら後書きに書き記している。

私のブログの形式上一句だけを抽出してあるが、それでは本当の鑑賞にならないのだ。要するにこの一書は句集というより詩集というほうがいいのだろう。
花の下から真っ青な眼の馬が曳き出されたとする一句だけでも十分不思議な世界を提示している。

忘れこしものの眼がある春の闇
  この馬に乗れば輪廻を駆けるのか

しかし、この二行が加わることで、もう一度真っ青な馬の眼がさらに印象的になる。

それは、「洋燈」と題された次の作品を読むことでも理解すると思う。

冬木立の似合ふランプを買つておいで    田吉 明 
  遠き日のかなたに青き灯を入れる
  失くした天に似合ふランプを買つておいで

田吉 明『憂愁平野』2014年  霧工房

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