先日アニミズムについての中沢新一氏の講演を聴いた。気が付いて見回してみれば、人は、ことに日本人は見えるものすべてに魂を感じ取っている国民である。冬瓜だって(ごろごろしてゐたり)と言い留めるのは、すでに冬瓜に魂のようなものを感じて呼びかけているのである。(木犀や子が出て昼の鐘をつく))(白雨てふひかりをながす樺林)など。現代俳句文庫『加古宗也句集』2015年 ふらんす堂。
(岩淵喜代子)
先日アニミズムについての中沢新一氏の講演を聴いた。気が付いて見回してみれば、人は、ことに日本人は見えるものすべてに魂を感じ取っている国民である。冬瓜だって(ごろごろしてゐたり)と言い留めるのは、すでに冬瓜に魂のようなものを感じて呼びかけているのである。(木犀や子が出て昼の鐘をつく))(白雨てふひかりをながす樺林)など。現代俳句文庫『加古宗也句集』2015年 ふらんす堂。
(岩淵喜代子)
誤植を見つけた時の驚きはこんな感じだろうと思う。もう取り返しがつかないだけでも顔面蒼白の事態なのだが、その誤植の文字がとんでもない無いように変転していたりして驚くのだ。この句のように述べられると、遠い火事は単なる視覚のものではなくなる。
句集の後半には何篇かの俳論があり、自作を語っている。ーーすべて嘱目である。俳句はなるべく嘱目性を踏まえるべきだと思っている。17音の短詩が世界の多様性との接触を保持するにはそれしかない。(随想より)ーー
井口時男句集『天來の独楽』 2015年 深夜叢書
花野に呼び出しの声が渡ってゆく光景は、八方へのびてゆく声とともに、軽やかなコスモスの花野も展開してゆく。それにも拘わらず、その余韻はいつか不安や不思議さへ展開してゆく。その花野の奥へ迷い込んだのは誰なのだろう。呼び出しを掛けられているのは幼子か、その子の母かも知れない。だが、そうした日常些事の出来事も言語として差し出されると、コスモスの野がきりもなく奥深くなる。ほかに(小鳥来る浮野の木々に水の辺に)(秋晴や青の押しあふ空の中)(日にも枯れ風にも枯れて枯れ尽す)( 囀りのひとかたまりのおくりもの)など。落合水尾第十句集『円心』 2015年 角川学芸出版
HTML convert time: 0.188 sec. Powered by WordPress ME