矢島渚男句集『冬青集』 2015年9月 ふらんす堂より
古代から火はさまざまなシーンを物語る中心にあった。怖いものであると同時に、片時も無しでは人間の生活は成り立たない。(ねぎらう)には、そうしたもろもろの思いが重なっているのだろう。普段は何気なく見過ごしているものに立ち止まらせるのも、季節の節目というものなのだろう。ほかに、(蜥蜴らにジュラ紀の眼麦の秋)(毛の国は雷神の領出会いたし)(犬は犬呼びとめてをり春の暮れ)。(筆者・岩淵喜代子)
矢島渚男句集『冬青集』 2015年9月 ふらんす堂より
古代から火はさまざまなシーンを物語る中心にあった。怖いものであると同時に、片時も無しでは人間の生活は成り立たない。(ねぎらう)には、そうしたもろもろの思いが重なっているのだろう。普段は何気なく見過ごしているものに立ち止まらせるのも、季節の節目というものなのだろう。ほかに、(蜥蜴らにジュラ紀の眼麦の秋)(毛の国は雷神の領出会いたし)(犬は犬呼びとめてをり春の暮れ)。(筆者・岩淵喜代子)
「太陽」10月号 【秀句の窓】 筆者・高下なおこ
(夕顔のひらきかかりて襞ふかく 杉田久女)の句に見えるように、夕顔のつぼみは細かい襞が固くたたまれている。その襞が解けていくときには「みしみしと」音がするという。ここにも作者の想像力の豊かさが覗える。俳句は詩であるということをまざまざと見せられた。
「太陽」10月号 【秀句の窓】 筆者・高下なおこ
夜の波間に漂って青白い光を放つ夜光虫。昏い海面にゆらゆらと揺れている様は幻想的である。正体不明の夜光虫をズームアップして見つめる作者と夜光虫とのやりとりが微笑ましい。「水をのばして見せにけり」に作者の感性がひかる。
「いには」10月号現代俳句散歩より
評者 岡崎 寅雄
鹿の歩みは淑やかである。野生の鹿は知らないが神苑等にいる鹿は馬のように首を振ることも無いし、身体の上下も柔らかい。しずしずといつの間にか傍に来ている。その行き来の中に角のない牝鹿が立派な角を持つ雄鹿と同じような雰囲気で歩いている。その光景は一幅の絵のようで読み手の目前に彷彿たるものがある。
それを自身の持つ詩魂の中に取り込んだ素晴らしい写生句である。作者はこの句を「生きとし生けるものの在り様を真っ直ぐに切り取ることの出来た一句として大事にしたいと思った」「俳句」2015年3月号〈50俳人の代表句ととコメントしている。正に写生の醍醐味であり、共感することしきりである。
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