はるかより夜の汐にほふ吊忍
水鳴るは笛鳴るごとき良夜かな
ぼうたんに起居憚りゐたりけり
椋の木に椋のきてゐる春隣
端正な姿の立ち上がる句集。それは自然諷詠が自然の気配を掴み取ろうとする詠みかたにあるのではないだろうか。結社「萌」を主宰する昭和6年生れの作家である。
はるかより夜の汐にほふ吊忍
水鳴るは笛鳴るごとき良夜かな
ぼうたんに起居憚りゐたりけり
椋の木に椋のきてゐる春隣
端正な姿の立ち上がる句集。それは自然諷詠が自然の気配を掴み取ろうとする詠みかたにあるのではないだろうか。結社「萌」を主宰する昭和6年生れの作家である。
俳誌「草笛」と「百鳥」に連載していたものを一書にまとまたもの。まえがきで、「俳句との関わりを考えながら綴ったものであり・・」と書き記している。
作者は農林水産業に入り、農業環境の研究に従事してきた人のエッセイである。「自然折々」は、出会った自然風景の視点が研究者らしい筆致で書かれているので、教えられることが多い。「俳句折々」も百鳥に執筆していた俳句鑑賞でやはり研究者の自然生態を視座におきながらの鑑賞となっている。
鮎の国行く先々を雨打ちて
佃煮の包み平たし都鳥
遠き人鏡に映り日短か
蟇無々といふ顔していたり
寄りかかる何もなけれど夏座敷
浮いてゐる紙が値札ぞ海鼠桶
伊勢海老の二藍の色誉めにけり
熊の胆を切り分けてゐる雪祭
雪見舟蘆のほとりを通りけり
春燈のわづかを使ふ画廊かな
胸元に押し付けてくる林檎かな
掌にのこる畳の跡も雁の頃
写生をひとたび自分の内側で咀嚼して表現に置き換える、ということの殊に意識を寄せている作家ではないかと思う。だからと言って誇張した表現で無理をしていない。それが読み手にはありがたい。一句目の鮎の獲れる時期、その里が雨の中だったという風景。それを行く先々を雨が打つていたという切り取り方にするのが作者流ということだ。
ジャズ流れ新樹に影の生れくる
心太足遊ばせて食べにけり
さくらんぼ一つ食べては目を見張り
風景への作者の視線のなぞれる句。ジャズと新樹、それだけでも取り合わせの妙があるが、それに加える「影が生れくる」の時間の推移が心地良い空間を作っている。
春の鴨水面引つぱりつつ泳ぐ
音もなく賑はってをり蝌蚪の国
同窓会のやうや日当る蜜柑山
視線がさらに感覚を加えて、一句目の「水面引つぱり」、二句目の蝌蚪の国が賑わっているという見立て、三句目の「同窓会のよう」だという比喩が風景を膨らませる。
思ひ出のところどころに雛あられ
鰤一本貰ひうろうろして日暮
以上の時間の現わし方をいい。
日本語からの500句という言葉が付け加えられているのは、世界俳句協会を立ち上げ、国際的な交流をし、自らが年に幾度も海外へ出る生活が背景にあるからであろう。そうした夏石氏の俳句表現は、例えれば何というべきなのか。
老婆と鳩と風と噂が集まる広場
父と子のあいだの山・川・火の港
こうした俳句は中では分かる俳句、というべきだろう。だが分かる俳句と言うのは予定調和的な範囲にとどまることになる。
水仙や怒涛の国は死者の国
巨人のため息ときどき届く空飛ぶ法王
この飛躍、あるいは断定をシュールリアリズムと片付けるには理が勝ち過ぎているように思えるのだが、とにかく意欲的である。ここでは気分とか詩情とか情緒とかを廃棄して、これから向かう世界を先取りしているように思える。
大勢の寒がつてゐる磯遊び
ことにこの感覚は早春の海辺の寒さの中にいる人々を網羅して諧謔へ繋げている。
そここに布団を踏んで山の家
ふらふらと点く街燈や雪の昼
灯台を涼しき棒につばくらめ
満月や船はとつくに着いてゐし
どこからも見ゆる火の見の寒さうな
このごろの涼しさに置く眼鏡かな
地図に在る泉はみどり誰もゆかず
にほどりにたのしき水の隙間かな
水鳥のしづかに混んできたるなり
ひとことで言えば、誠実さと精密さを感じる句集である。切り取られた風景は決して特異な場面ではない。誰もが共有している場面で、誰もが感じている景なのである。それが作者の手にかかると、きちんと輪郭が築構されて完成するのである。
創刊十一周年記念号は永田耕衣を特集した分厚い一冊である。何故永田耕衣なのかは、頁を繰ってすぐに解った。『澤』主宰の特別親交のあった作家だったのだ。グラビアとして無数の耕衣のハガキが転載されている。多分表紙のデザインとして「澤」という文字が置かれているが、それも永田耕衣の筆になるものなのだろう。とにかく貴重な一冊である。それと、さまざな内外の論者による耕衣論。それは愉しさも加わりながら読み進んだ。最後に鹿火屋に収録されていた俳句一覧が付されている。
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