俳句は「存問」の詩と言われている。それを現代的に言えば「拝復」となるのだろう。この句集には,出会った対象、即ち湧き水でも自然薯でも雲雀でも、目に触れたものが、池田さんの身体を通って言い表されている。
湧く水は流石に飽いているらしく
引く鶴の気持ちになれば胃痛し
自然薯の永き我慢を摺りほぐす
気が済んだらしや雲雀の落ちきたる
もうひつ気がついたのはリフレインの多い事。口語で俳句を詠むことは韻律から離れやすい。それが無意識のうちにリフレインによって韻律を持たせようとしているようにも思える。
生々世々春は春菜を胡麻汚し
じゅうろくささげ昔しゅるしゅる焼夷弾
古今東西恋や未練や邪恋や芽
あかしあと偽あかしあとか老いながら
相模さみだれ笹叢の蜘蛛の囲さやか
墓立っている我立っている凍晴
池田さんの珍しくも唯美主義的な一句を見付けた。
指牢の蛍を覗かせてもらう
この「指牢」は造語だろうか。掌を軽く握って蛍を閉じ込めておく指の隙間から洩れる蛍の光が妖しい光に言い現わされている。ジャンケンに負けて生れたホタルの成れの果てのようにも思える。