見過ごしてしまいそうな何でもない景ともいえる。
それまで薔薇に捉われていた心にふと隙間風が入ったように、椎の匂いが入ってきた。この推移が薔薇園の鮮やかさから、椎の緑樹へと繋がる視覚的な景の裏打ちしていている。他に(蝌蚪に足出て笑いたき日なりけり)(鹿啼くや水にひろがる空のいろ)(母すでに綿虫ならむ暮ゆける)など。
〈現代俳句文庫ーー82『長嶺千晶句集』 2017年 ふらんす堂〉より
見過ごしてしまいそうな何でもない景ともいえる。
それまで薔薇に捉われていた心にふと隙間風が入ったように、椎の匂いが入ってきた。この推移が薔薇園の鮮やかさから、椎の緑樹へと繋がる視覚的な景の裏打ちしていている。他に(蝌蚪に足出て笑いたき日なりけり)(鹿啼くや水にひろがる空のいろ)(母すでに綿虫ならむ暮ゆける)など。
〈現代俳句文庫ーー82『長嶺千晶句集』 2017年 ふらんす堂〉より
蛇の衣とは脱皮して残していった蛇の皮なのだが、時に梢などに風に揺れていることがある。どこで出会っても、蛇というだけで不気味さが先立ってしまう。しかし、草原という果てしない背景にしたことで、蛇のぬけがらが淡々と透明感が生まれてくる。生き物の儚さが漂ってくるからだろう。 「句集『万華鏡』2017年 雙峰書房」より
(空へ駆けだす)は特異な表現にも見えながら、たしかに突然飛び立つ小鳥の飛翔を言い得た措辞である。自分の感覚を信じなければ詠めない叙法である。 川村研治第二句集『ぴあにしも』 現代俳句の展開Ⅲ-5 現代俳句協会刊より。
句集は昭和61年から平成25年平成25年まで、約27年分の俳句である。一集にするにはずいぶん割愛した句もあっただろうと思った。一読して、川村研治さんの茫洋とした人柄、そのものがすべて俳句に現れた、という思いを強くした。
ふゆざくらふゆのさなかにちりをへぬ
たんぽぽの絮とぶ中やピアノ来る
青鳩を待つ明るさとなりにけり
事実を淡々と受け止める句というのは、その切り取り方こそが生命である。当たり前なような、このさりげなさが、川村研治さんの茫洋俳句の底辺である。
火星接近おしろい花の種をとる
冬支度せねば駱駝の瘤ふたつ
前述の三句に詩的意識をさらに加えたときに、こうした句になるような気がする。芭蕉の言う取り合わせである。一句目は(おしろいの種をとる)によって、火星が地球にぶつかってくるような緊迫感を持たせる。それでいて採っているのは花の種である。その可笑しみこそが川村さんの茫洋さなのである。二句目も非常に面白い。冬支度から駱駝の瘤へゆくまでの見えるか見えないような繋がりこそが俳諧なのである。
鳴りいづる鈴を泉に浸すかな
みんみん蝉のみんみんが見えてくる
一句目はまるで鳴り止まない鈴を泉に浸して鎮まらせようとしているようにも思えてくる。虚実皮膜とは、こういう作り方を言うのではないだろうか。それは二句目に言える。みんみん蝉の啼き声が見えてくる、と言われると、さらに存在感をもつ啼き声になる。
金子 敦句集『音符』 2017年 ふらんす堂より。
盆踊りの踊り手として踊り尽くしたあとの手足の疲れを言いとめている。まだ気分の中では踊りの音楽に合わせて手足が浮遊しているのであろう。それを、「手足がただよへる」とする措辞にしたのは上手い。他に、(本ひらくやうに牡丹の崩れけり)(冴ゆる風まとひて星を売りに来る)(白餡の匂ひのしたる桃の花)など。
青木青三郎句集『青』2017年 現代俳句協会より。
日焼け子の骨格を想像しながら、その骨格に肉がついている、とは本来の叙述とは反対の方向からせめている観方である。それが新鮮に聞こええ、日焼け子のますます筋肉質な肢体を感じさせる。他に(おぼろからおぼろ楽屋の非常口)(昭和へは歩いて帰る花みかん)など。
曼殊沙華の地上から噴き出たような茎の立ち上がりの印象がことばに置き換えられたんの。言われてみれば、あの赤さは慟哭のそれだ。比喩ではあるが、ときにわれわれは、おもいっきり大声を張り上げて、泣いてみたり、怒ってみたいものである。
註現代俳句シリーズ12期19・句集『川口 襄集』2017年 俳人協会
花野ゆく師とともがらと浮雲と
蒼空を砕氷船の戻り来る
「船団」に連載していた鷹女の評伝が上梓された。
第一章、二章は鷹女の生い立ち、俳句遍歴について語っていたが、三章からは句集の一冊ずつを紐解きながら、俳句を辿り、鷹女の背景、鷹女の俳句への取り組み方が語られている。
三章は第一句集『向日葵』を読み解くもの。ここで、鷹女の有名な句、(夏痩せて嫌いなものは嫌いなり)を取り上げながら、鷹女がやりたかったのは自我の主張より従来の俳句表現を破る文体の模索をしていたと洞察している。
さらに『白骨』では、俳人なら誰でも関わる句会の情景を背景におき、『羊歯地獄』では、鷹女が何を表現したかったのかを探っている。句集の作品鑑賞とともにかたる鷹女の背景は三章目から俄かに濃密になる。
そうして『橅(ぶな)』へと続くのだが、新しく参加した同人誌「羊歯」も脱会して、句会も持たない環境の中の句作りの経緯を読みながら、そうした環境の変化も句集ごとの作風の変化に繋がったのかもしれないと思わせる。
この『鷹女への旅』の著者三宅やよいさんは、自己を主張することなく、淡々とさまざまな情報を拾い集めて、作品を様々な角度から紹介している。そうして、それまでの句以上に表現に拘っている鷹女を見極めようとしている。
松田ひろむ句集『一日十句』 2017年 第三書館より
説明し難い内容だ。これが、縦横にいるのが烏や友人というなら少しは映像がつくれるのだが、ひとりが、縦横にいるとなると混乱してしまいそうだ。しかし、夏野にたくさんの桂信子が整列でもしている図は、それはそれで何んだかおもしろいではないか。
桂信子はきっと松田氏の憧憬の俳人なのだろう。その思いを映像的にすると、何処にでも桂信子が立っているのである。ほかに鑑賞したい句に以下のような句がある。(空蝉のこわれやすくてこわれゆく)(雪起し墓のなかにも白き壺)
「武藤紀子句集『冬干潟』 2017年 角川書店」より
森羅万象の中の揺れに身を任せているような、緩やかな詠みぶりが心地いい。ほかに(虫聴くや手足大きな西行が)(綿虫をしづかな鳥と思ひけり)(木枯に匂ひありとせば松の)(ゆうぐれに目を瞠けば花あふち)など。
(櫛部天思句集『天心』 2016年 角川書店)
虚子に(初蝶来何色と問ふ黄と答う)というのがある。虚子は黄色で初春を印象付けているが、櫛部氏は囁くという措辞にによって、蛍の本位へ近づかせようとしている。
蛍の夜の景が髣髴としてくるのが、感じられた。
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