‘受贈著書’ カテゴリーのアーカイブ

サッカーの帰りに花の蔭通る  林 桂

2015年3月6日 金曜日

「御岳山公園のひらひら」と題された8句中の一句である。極めて温厚な自然諷詠である。あえてそういうのは、作者が林 桂だからである。ところが、この句を抽出した句集『ことのはひらひら』は四〇近い章から成り立つ作品集。そのすべてのタイトルに「ひらひら」が使われている。たとえば「さよならのひらひら」「ライト感覚のひらひら」「はつなつへのひらひら」というように。この「ひらひら」の使い初めは1985年から始まって現在まで続いていたのである。

当然、後書きは「ひらひら」について書き込んである。しかし、わたしには「ひらひら」はある種の音頭であると同時にオマージュに思える。掲出のタイトルは「御岳山公園のひらひら」は御岳山公園へのオマージュ、「山梨のひらひら」なら山梨のオマージュと解することで、28年の歳月の持続を納得した。
林 桂句集『ことのはひらひら』 2015年  ふらんす堂

幽閉の日々はるけしや春の雁   泰夕美

2015年3月5日 木曜日

(幽閉の日々)とは自らを振りかえってのことばではない。この言葉そのものが歴史を感じさせる措辞なのである。渡り鳥の中でも伝説を生みやすい雁、それも帰ってゆく雁との取り合わせによって、(幽閉の日々)の内容が物語めくのである。

秦夕美第十六句集『五情』 2015年  ふらんす堂

ぶつかつて音の生まるる春の水   嶌田岳人

2015年3月5日 木曜日

春は季節の気配にことさら耳を傾けるときかもしれない。寒さに凍えていた体が訪れてくる春への気配を自ずと探っているからだ。(ぶつかつて音の生るる)は、ともすれば見過ごしてしまいそうな、さりげない措辞である。しかし、次の(春)の季題によって俄かに雪解水などの活気ある水音が蘇る。

嶌田岳人第一句集『メランジュ』2015年 東京四季出版   序  河内静魚  跋 深沢暁子

火の記憶鉄の記憶や蜥蜴生る   畠 梅乃

2015年3月4日 水曜日

原初、火を使うという事は何にも勝る文明だったに違いない。そうして、この後に鉄の記憶と繋がることで一気に古代へ読み手を誘う。蜥蜴はまさに古生代の生き物として目の前に差し出された。この骨太の知的な構成とは別に(立春やからだの中の海の音)のような繊細な世界も詠んでいる。どちらの世界も歯切れのいい文体で纏められている。

畠 梅乃第一句集『血脈』 2014年 文学の森  序文。長嶋衣伊子

サーファーの忘れ物めく浜焚火   能村研三

2015年1月10日 土曜日

焚火は人が伴ってはじめて完結するのかもしれない。浜辺に焚火の炎が揺らめいているのに人の気配がない。炎の揺らめきが、人気の無さをより強く感じさせてしまうのだ。

(忘れ物めく)という措辞によって、焚火に個性が与えられた。そうして、視線がきりもなく沖へ誘われる。   自註現代俳句シリーズ・11期63『能村研三集』 昭和58年作

あらたまの年のはじめの海鼠かな   松尾隆信

2015年1月9日 金曜日

俳句はリズムだと主張したのは藤田湘子。それが、散文と詩の大きな違いになるだろう。「あらたまの年のはじめの)とどこか見知りの、見知っているというだけではなく、一度や二度は口ずさんだこともあるかもしれない章節である。

それにも拘わらず、座語の「海鼠」によって思わぬ展開をするのである。単なる海ではなく、海底を内包する海が広がって、その芯のよう海鼠によって、そのめでたさが重厚になるから不思議だ。自註現代俳句シリーズ・11期62『松尾隆信集』 平成7年作

抽斗の奥で混み合う枯れ木立   対馬康子

2014年12月27日 土曜日

同じ作者の作品に(暗室に枯木の山の濡れている)という句がある。枯木は作者の心象風景なのかもしれない。暗室の中で濡れている枯木山には、句になる過程が見えそうなのだが、掲出の(抽斗の奥で)は極めてシュールな映像である。それでもなぜか、抽斗の混み合い方や薄暗さの奥に枯木立の映像が立ちあがってくるのである。

枯木立といえば、真冬の寒々しい風景を伴うように見えながら、まんべんなく陽を浴びているそれには、安らぎと憧憬が感じられてくる。たぶんその造形美が、人々の心象風景とそて懐かしさを呼び出すのではないだろうか。対馬氏の取り合わせは、思いがけない遥かなものと繋がって魅力的である。

赤いバス来る北限の栗の花
花マルメロ沼に沈んでゆくは斧
毛糸編む黒き海岸線延べて
天高し野を船底のごとく置き

(『竟鳴』 2014年12月 角川学芸出版)より

(岩淵喜代子)

霜柱踏まば崩るる人柱   武藤雅治

2014年12月18日 木曜日

一見目立たないのだが、ひとたびそれと気が付くと、気になって次々と踏み倒してみたくなるのが霜柱である。毛細管現象で地中から地表へ昇る水蒸気が凍ることで生まれる霜柱は、たかだか五、六センチである。しかし、それが人柱ということばに出会うことで、小さな柱がきわめて鮮明な存在感を放つのである。

歌人である作者は、句集『かみうさぎ』を「気ままに書きとめておいた句を六つの句篇に構成し、本句集とした。と述べている。

いちまいにめくれる春のわだのはら
あらくさのみな倒れふす御国かな
昏れのこる眼に晩夏(おそなつ)の走り水
すこしづつチカラをしぼる捩花
猫となり猫の後ろをついてゆく
行く秋や足が覚えて歩きだす
思ひ出のランチを食べる三姉妹
霜柱踏まば崩るる人柱
掌のなかに螢は罪のにほひせり

三句目までの句には短歌のみやびの匂がある。そうして、四句目から六句目までが、俳人からみた一番俳句らしい捉え方になるのだろう。また冒頭の(霜柱)の句も含んだ七句目から九句目までにある物語性も魅力的だ。要するに17文字形式にたいする枠のすべてを外して、180度の方向性を持った句集と言えるだろう。   武藤雅治句集『かみうさぎ』 2014年12月  六花書林

老いてゆくところどころを青簾     酒井和子

2014年12月13日 土曜日

老いという言葉を詠むのは基本的には避けている。それはそのことばの中には人生のすべてが込められていて、結局は老いを解説する領域を出られないからである。それほど、老いは周知の認識なので、それを越えた世界で詠むのは、ある種の志が必要なのである。

掲出の句は長い人生をたった十七文字で言えたことにまず驚くのである。その長い人生の折々に青簾をオーバーラップさせて、流れ去る時間と静止する時間とが、爽やかに織りなされている。(老年も吊玉葱もにぎやかな)(座り直してあといくたびの雛納)など、句集にはこれまでになく老いを意識した句が散見できる。

しかし、それは諦念というより直視という潔い切り取り方である。他に(昨日より今日直に見て牡丹の芽)(次ぎの世の青空の見え桐の花)などにもこの世とかの世の境を見据えているのが伝わってくる。(第三句集『花樹』 2014年 角川学芸出版)

雪吊りの仕上がらぬまま昼休み   高田正子

2014年12月9日 火曜日

即物的な詠み方の句が多いのは山口青邨から黒田杏子につながる句風が浸透しているようだ。どの句も曖昧さや観念的な句はない。
冒頭の句は昼休みというものに焦点をあてているのだ。雪吊りの作業は朝から始まっていたのであろう。かなり技術と時間を要する作業である。松に立てかけた梯子も、途中になった荒縄もそのままにして、職人たちはひとところに寄り合って昼食をしている。

その食事の場から雪吊りが途中のままの松も見えて、季節に向かう人々の営みが淡々と詠まれていることに好感を抱いた。(剪定の一枝がとんできて弾む)(さみだれの小やみの金の雫かな)(あをぞらの届かぬところ凍りけり)など、端正な一集である。
「高田正子第三句集『青麗』 2014年 角川学芸出版」

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