2018年3月号「鷹」  ~本の栞

2018年3月25日

筆者・植苗子葉

岩淵喜代子句集『穀象』〈ふらんす堂 2017年11月 2700円)

作者は1936年生まれ。「鹿火屋」にて原裕、「貂」にて川崎展宏に師事し、2000年「ににん」創刊代表。本作は第六句集となる。
表題の「穀象」はごく小さな虫で、体に比して長い吻部を持つことからこの名がある。作者は巻頭に、

穀象に或る日母船のやうな影

の一句を置き、さらに表題句に採用した。
その心を次のように明かす。

知らなければその名を聞いて、体長三ミリしかない虫とは思わないかもしれません。その音律からも、字面からも、音語   りに現れてきそうな生き物が想像されます。米の害虫だという小さな虫に、穀象と名付けたことこそが俳味であり、俳諧です。(「あとがき」より)

確かに、この句集には俳味が溢れている。それは私が思うに、自由闊達な発想であり、想像であり、諧謔である。

水母また骨を探してただよへり

水母が骨を探しているという見立ての発想もさりながら、「また」の二文字を加えて物語性まで帯びさせたのが尋常ではない。一瞬でも骨を見つけたと思ったのか。切ない。

半分は日陰る地球梅を千す

季語と取り合わされているのは必ずしも新奇な発見ではない。むしろ当たり前じゃないかとさえ言われそうな事柄である。にもかかわらず、巨大な天体の運行とミクロな人の営みの配合はお互いを愛おしむべきものとして引き立てている。配合の発想の勝利といえないだろうか。

発想といえば、本作では収録句の約一割に「やう(な)と「ごと(く)といった直喩が使われている。藤田湘子が戒めたように、直喩の安易な使用には月並みか独りよがりに陥って失敗する危険がある。しかし、新鮮でしかも納得できるような直喩が強い印象の句を生むことも事実である。以下、本作から数句挙げてみる。

緑蔭の続きのやうな書庫に入る
葛の根を獣のごとく提げて来し
くらやみのごとき猟夫とすれちがふ

ひんやりした空気、立ち並ぶ高い書架。本のページを「葉」と数えることを考えに入れずとも、卓抜な喩えではないか。二句目は「獣」の一字が葛の茂る山の冷たい空気や、葛を提げる節張った指をイメージさせる。三句目は下五が比喩の鋭さと重さを増幅している。
そうかと思うと次のような軽やかなユーモアも見せる。

筆者とは吾のことなり青瓢
呆れてはまた見に戻る大氷柱
山楯子の実を盗み来て本棚に

青瓢との取り合わせや少し大仰な言い方に、照れくさそうな、あるいはいたずらつぽい作者の姿が見えて愉快だ。
この他にも、

放たれて桶に添ひたる大鯰
踊手のいつか真顔となりにけり
足音を消し猪鍋の座に着けり
音もなく西日は壁に届きけり

といった句に好感を持った。最後に、八十一歳の作者の高らかな宣言を紹介しよう。

曼珠沙華八方破れに生きるべし

守りに入るなよ、という叱咤とも取れようか。

2018年1月号「絵硝子」  ~現代俳句鑑賞

2018年3月25日

筆者・高平嘉幸

新米に赤子の匂ひありにけり   岩淵喜代子
みどり児の瞳大きく雁わたし
うつむいて幡蜂の声拾ひけリ
(俳壇10月号)

一句目「赤子の匂ひ」とは意表をつく。確かに赤子の匂いは初々しく格別である。新米の匂いも青々しく 新鮮である。作者は恐らくお孫さんでも授かってその喜び を詠ったのかも知れない。

二句日、この句は正に「みどり児」の誕生を謳歌している。「雁渡し」の季語が適切で、 みどり児の将来が幸あれと願っていると見た。三句日、 「蟻蜂」の鳴き声は、いかにも淋しい。その声を「うつむ いて」拾ったという作者の心情が手に取る様だ。小動物に 対する愛情が伝わってくる。

2018年85号「八千草」 ~愛憎俳誌 

2018年3月24日

筆者・横川博行

『穀象』岩淵喜代子句集(ふらんす堂)

「ににん」代表第六句集。岩淵喜代子さんは2014年発行の『二冊の鹿火屋』で俳人協会評論賞を受賞されていて、八千草二十周年の祝賀会にもご出席頂き、祝辞を頂戴した。

しっかりと事象を見て、詩の世界を構築していて、それぞれの句に深みがあり、学ぶところが多い。栞には連句の浅沼璞さんが「人称の多様性から」と題してこの句集の鑑賞文を書かれていて興味深い。

読み終えて五句を選んだ後で帯の作者の自選句欄を見ると一句目に山椒魚の句がありわが選句との一致に、嬉しくなってしまった。狐火の句には脱帽。いまや狐火を見ることもなく、いわば架空の季語であるが、鏡を据えることにより、そこに青白い炎がゆらゆらと映ってくるから不思議である。名手の技とはこのようなものかと感じ入った。

生きてゐるかぎりの手足山椒魚
みしみしと夕顔の花ひらきけり
狐火のために鏡を据ゑにけり
奥山の青い氷柱を遺品とす
春遅々と伽藍を繋ぐ石畳

2018年3月号『森』 ~愛贈句集拝見

2018年3月23日

筆者・森野 稔
『穀象』岩淵喜代子(朝霞市)

同人誌「ににん」代表の第六句集。「ににん」には個性的な作家が集い、毎号実験的な取り組みがなされていることで注目を集めているが、この句集も極めてユニークである。句集は概ね暦年により編集されることが多いが、この句集はテーマ別に配列されている。しかもそのテーマ自体も曖昧模糊としており、最後まで作者の意図がはっきりしないようになっている。もしかしたらそれが作者の意図かも知れぬ。そうなれば、それにこだわっていても仕方がない。

良い句を選び鑑賞していくしかないと心に決めたが、感銘句がたくさんある。原裕に師事、其の後、川崎展宏に師事という経歴が多彩の顔をもつ作者を見せてくれる。

順番に泉の水を握りたる

中村草田男が幻住庵の芭蕉が使ったという泉に両手を差し入れ、芭蕉の面影を追ったという次の句が想起される。

(諸手さし入れ泉にうなづき水握る  草田男)

恐らく作者も大勢の人とそこを訪れて、草田男を思い、芭蕉を思ったのに違いない。

天道虫見ているうちは飛ばぬなり

(羽わつててんとう虫の飛びいづる 高野素十)

の句があるが、あの表面に見える赤い特徴的な翅は飛ぶ時には役に立たず、その下にある薄い羽根で飛ぶ。作者はそのことは承知しているが、天道虫を見た時にその様子をぜひ確認したくてじっと眺めているがいっこうに飛び立つ気配はない。

しまいには棒でつついたりして驚かせたりする。作者の短慮をあざ笑うようにそのままだ。半ばあきらめてちょっと目を離したすきにいつの間にかいなくなる。自然界の現象は人間の思い通りにはならないものだ。

水母また骨を探してただよへり

水母が漂っているのは、自らの骨を探しているのだという発想はそれ自体大変面白いのだが、決してそればかりではない。深い人生が見えてくる。己の骨を代表とする肉体を離れて浮遊する「たましひ」を水母に作者は見てとっているのではないだろうか。日前の実写風景から幽玄の世界までに遊ぶ喜代子俳句の本質を見る思いがする。

空青く氷柱に節のなかりけり

寒冷地帯の氷柱は途方もなく大きくなる。そして青空の下、芯まで透き通る。そんななかでふと心に止めた理知的な観察。夜ごとに太さと長さを大にする氷柱に樹の年輪と同じように節があってもいい筈だが、それがない。当たり前と思わずに懐疑的にとらえるのは人間のもつ豊富な知識が邪魔をしているのかもしれぬ。

本来の氷柱の持つ美さえまっすぐに捉えきれない人間の哀しさというべきか。

その他触れたかった佳句を抄出しておく。

穀象にある日母船のやうな影
人はみな闇の底方にお水取り

2018年3月号『雲』 ~句集を歩く

2018年3月21日

岩淵喜代子句集『句集』評  筆者・関矢紀静

穀象とはまったく不思議な名である。本来は米につく害虫をさす、これを句集の名としたところから、もう作者の世界がはじまっている。

穀象に或る日母船のやうな影

小さな虫と、母船の対比がみごと、思わず納得させられてしまう。そして作者の目は水中の水母へと向いてゆく、この生き物も不思議な生き物だ。

水母また骨を探してただよへり
水母死して硝子のやうな水を吐く
生涯は水母のごとく無口なり

一句日、水母は骨を得て、人間に近づくのだろうか。二句目の水母は生の証として、体内の水を硝子に変えてゆく。三句目の無口な水母、無口だが、存在感がある。

みしみしと夕顔の花ひらきけり
雨乞の龍を崩せば藁ばかり
さざなみのやうに集まり螢狩

夕顔の大きな花の咲く時は、音が聞こえて来るようだ。人は雨ごいに藁の龍を作り、役目が終えれば元の藁に一戻ってゆく。螢の夜は誘い合わせたように人が集まり、話すこともなく螢を見る。日本の美しい景がある。

極楽も地獄も称へ盆踊

日本の民謡は、口頭で祭りや農作の手順を伝え、踊りも所作で伝えてきた。この盆踊りも古くから伝わったものだろう。

菱の実をたぐり寄せれば水も寄る
曼珠沙華八方破れに生きるべし

菱の実と共に寄って来たものは、水だけではなくもろもろの思い。最後の句、あの赤い花を見ると、気持ちが高ぶってくる、八方破れもまた然り。句集を通読すると作者の自在な心が見えてくる。花や動物、虫までも作者の分身なのだ。

2018年3月号「歯車」~句集の散歩道

2018年3月10日

俳句の香りを楽しむ   筆者・門野ミキ子

岩淵喜代子さんの『穀象』は、『朝の椅子』、『蛍袋に灯をともす』、『硝子の仲間』、『嘘のやう影の やう』、『白雁』に続く第六句集である。岩淵さんの略歴をご紹介すると、 一九七八年原裕に、1979 年川崎展宏に師事、2二〇〇〇年より「ににん」代 表。エツセイや評論でもご活躍である。また、現俳 協研修部の通信俳句会では今期( 24期)の講師をご担 当くださっている。

「ににん」のwebサイトを覗いてみよう。
「俳句の俳とは、非日常です。日常の中で、もうひ とつの日常をつくることです。俳句を諧誰とか滑稽 など狭く解釈しないで、写実だとか切れ字だとか細 かいことに終わらせないで、もつと俳句の醸し出す 香りを楽しんでみませんか」とある。

句集『穀象』は九つの章から成っている。

〈穀象〉から
穀象に或る日母船のやうな影
青空の名残のやうな桐の花
椎匂ふ闇の中より間を見る
あとがきに「米の害虫だという小さな虫に、穀象 と名付けたことこそが俳味であり、俳諧です。それ にあやかつて句集名を穀象としました」とある。 穀象に母船とはなんだろう、そして或る日とは…。無限に想像の膨らむ奥の深い楽しい句である。

(水母〉から
水母また骨を探してただよへり
全身が余韻の水母透きとほる
天道虫見てゐるうちは飛ばぬなり
水母の句。骨のない水母が骨を探している滑稽、骨が見つからず余韻と断定された水母、透きとおるしかなかったのか。

〈西日〉から
夕焼けに染まりゐるとは知らざりし
人類の吾もひとりやシャワー浴ぶ
みしみしと夕顔の花ひらきけり
夕焼けの句。染まっているのは自分ではない。他 の人かモノだと思う。視点が新鮮。

〈盆〉から
赤子笑むたびにざわめく魂祭
踊の輸ときに解かれて海匂ふ
踊手の句。同じ動作を繰り返す盆踊り、そう言わ れればみな真顔である。鋭い観察、発見である。

(半日〉から
半日の椅子に過ぎけり竹の春
梨を剥くたびに砂漠の地平線
鶏頭へぶつかってゅく調律師
半日の句。半日何をしていたのか。そんな事はど うでもいい。各人各様の半日なのである。竹の春がいい。

〈冬桜〉から
狐火のために鏡を据ゑにけり
足音を消し猪鍋の座に着けり
冬桜遠くの方が明るかり
狐火の句。狐が口から火を吐くと言われている暗夜山野に見える怪しい火、それを鏡に映そうと言うのだろうか。鏡に映れば本物だ。

〈氷柱〉から
水仙を境界として棲みにけり
炬燵から行方不明となりにけり
呆れてはまた見に戻る大氷柱
炬燵の句。行方不明になったのは何だろう。考え るだけでも楽しい。そんなに深刻な行方不明ではな い。談笑の間こぇる愉快な句である。

(凡人〉から
凡人に真赤な椿落ちにけり
星暦のやうな物種もらひけり
麦踏みのつづきのやうに消えにけり
麦踏みの句。単に仕事を切り上げただけなのだろ うが、いつの間にか麦踏の人が消えてしまった。麦 畑の静寂さが伝わってくる。

〈巡礼)から
お遍路の踵に蟇のぶつかり来
貼り混ぜる切手とりどり巣立鳥
暗闇とつながる桜吹雪かな
お遍路の句。道連れは墓だったのだ。 ュニークな 取り合わせが楽しい。

どの句も自然な調べが心地よく、すんなりと心に 入って来る。そしてどの句にも余韻があって、それ がどんどん膨らんで、一句の世界が無限に広がって いく。決して答えを押し付けない自由さが、また心 地よい。「俳句の醸し出す香り」なのだろうか。発 見あり、共感あり、納得あり、 一句の世界の奥深さ を実感した。得難いお勉強をさせて頂いた。

水母また骨を探してただよへり  岩淵喜代子

2018年2月20日

骨のないことを楽しんでいるかのような水母の漂うさまを「骨を探して」とは言い得て妙で面白い。水母をこのように捉えることが出来る作者はきっと骨のある人にちがいない。骨のない私などは、常々水母のように浮遊したいと思っている。が、この句にふれて、水母の見方が変わるかもしれない。

『穀象』は事物へ対しての岩淵さんの鋭利な視線の切り取り方が実に豊潤。「穀象に或る日母船のやうな影」「炬燵から行方不明となりにけり」「てのひらの雹は芯まで曇りゐる」(句集『穀象』より)

2018年2月号『門』   玲玲抄 筆者・鳥居真理子

ににん集の兼題

2018年2月8日

ににん創刊十周年を機に「火と灯」を兼題にして、ににんの旅も火や灯を追いかける旅が始まった。 もともと、火と灯を追う旅は創刊初期から浮上していたのである。当時は、やがてくる創刊五周年の記念号企画にするつもりだった。

火と灯に関わる歳時記になれば、身近に置いて何度も紐解く機会があるだろうと思った。千葉の海の日に行われる行事を何と言ったのだったか。誰がそんな行事を見つけてきたのか、今になると曖昧になってしまった。北海道のイヨマンテにも出かけた。十二月の北海道はどこもかしこも真っ白だった。ことに、その熊祭り行事の会場は山間の広場で、雪の起伏があるばかりだった。

海の日や火を持つ海女の勢揃ひ    岩淵喜代子
星を打つ矢を何本も熊祭

その現場に立てば、確かに作品が得られるものであることを実感した。この二句は角川俳句大歳時記に採用されている。

その後も、埼玉の北川﨑の虫追い、山焼きや野焼き、大磯のどんど焼き、牡丹焚火、などなど数えきれない吟行をしてきた。そのうちに、不思議な火や灯にも触手を延ばしはじめた。例えば不知火、夜光虫、蛍烏賊、螢、蜃気楼、ブロッケンなど、きりもなく追いかけたいものが出てきた。その「火と灯」の作品は、別ブログで全員の作品を保存してある。

そんなわけで、いまだに歳時記は出来上がらない。結局創刊五周年のときには会員全員が「同人誌」というテーマで、文章を寄せて貰った。十周年のときには、小説をテーマにした作品のアンソロジーとなった。

十五周年は、自分の代表句と呼応する詩を探し出してきて、「詩と俳句と」というテーマで作品を揃えた。数年すれば二十周年になるが、「火と灯」の歳時記は出来上がりそうにもない。三年ちかく続いた「火と灯」の兼題を一度中止すことにした。

あまり長く続くのも、だれてしまうものである。兼題も、もとの言葉に戻すことにしたが、せめて二文字の漢字にすることで、後戻りの形にはしない、というのが周囲の会員の意地があった。

明日は節分

2018年2月2日

DSC_0131

一週間前の雪が消えないうちにまた雪予報。埼玉文学館に応募俳句の選考に行く日なのだが、もしかしたら中止のお報せが来るかな、と心待ちにしたが、出かける時間になっても、電話はかかってこなかった。覚悟を決めて雨靴を履いて桶川まで出かけた。丁度雪が降っている最中であった。

それでも、埼玉文学館に着くころには雪が止んで、俳句選考部門の三階の部屋に行くためのエレベーターの中に日差しが入ってきた。明日は節分である。

纏めて一月

2018年1月26日

一月もあっという間で、ここに書き込むことがいっぱいあり過ぎて、時間が流れていく。

12日は俳人協会の新年会、そこで、昨年選考委員を受け持った評論新人賞の授賞式が行われた。選考の場ですんなり決まったのが鈴木光影さん「合掌部落」の時間・「吹田操車場」の時間 - 登四郎と六林男の交叉点」だった。

会場で津高さんからものすごく背の高い青年を紹介された。それが鈴木光影さんだった。津高さんは「Sさんの会で会っているのよ」と言ったので思い出した。あの時も飛び切り背の高い青年だった。

そのあと新年会が二つほどあって、今年初めての吟行、それがなんと四年ぶりという大雪の日だった。前日からしきりに大雪の騒ぎをしていたので、どうしたものかとおもったが出かけて行った。3時ごろには帰ろうという相談もしての吟行だった。

この頃の気象庁の予報は本当に正確だ。前日の予想を聞いているときには全く信じられなかった。小春日和と言ってもいい日和だったからである。

DSC_0124 翌日は雪掻き、と言っても私にそんな力もなく、お隣の人がみんな片づけてくれた。それから毎日毎日雪のためのトラブルがあちらこちらから入ってきた。

そのせいか、23日の角川新年会は少なかったような気がする。 それと同時に50句応募の授賞式も行われた。やはり短歌は20代だった。

俳句では月野ぽぽなさん。目立つ名前なので憶えていた。アメリカ在住の50歳代。俳句では若手と言える。

首都高速も今日あたりからすべて通れるようになったかもしれない。日本全国氷点下の温度が続いている。この気温は昭和40年前に一度あったということだ。

まー、なんだかんだと言いながらも無事に1月が終わりそうだ。 30日だったか、31日だったかに、皆既月蝕があるはずである。

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