1月12日「日本農業新聞」 鑑賞・宮坂静生
可笑しくも哀しくも読むことができる。
炬燵での円居は心温める。それなのに不意に居なくなってしまったとは、炬燵一つが人生の縮図を思わせる。好きな人ができてあの人がここから消えてしまった。どこかへ行ったやら。あの風来坊は。
事はときに深刻。赤紙が来て戦地に連れて行かれた。どこに果てたのやら。あの人はついに帰って来なかった。こんな戦争体験は二度としたくない。炬燵詠の秀作。
(「句集『穀象』ふらんす堂」より)
1月12日「日本農業新聞」 鑑賞・宮坂静生
可笑しくも哀しくも読むことができる。
炬燵での円居は心温める。それなのに不意に居なくなってしまったとは、炬燵一つが人生の縮図を思わせる。好きな人ができてあの人がここから消えてしまった。どこかへ行ったやら。あの風来坊は。
事はときに深刻。赤紙が来て戦地に連れて行かれた。どこに果てたのやら。あの人はついに帰って来なかった。こんな戦争体験は二度としたくない。炬燵詠の秀作。
(「句集『穀象』ふらんす堂」より)
このところ、明け方の4時ころ目覚める癖がついている。9日の日も同じ時刻に目ざめて、ふと外を見ると何やら空で燃えているようだった。乱視があるので、片目でもう一度東のそらを見上げた。雲がかかっているせいもあるのだが、きちんと三日月にならない。なんだか今にも燃えながら落下してきそうに焔立っていた。
翌日もやはり同じ時刻に目が覚めて、気になっていた月を眺めた。今日も金色に焔だっていた。それより、なんでこの東側の窓から、明け方の月が見えるのか不思議だったが、あまり深追いしていると眠れなくなるので、寝室に戻った。
今朝、暦を繰ってみると、9日は下弦の月だった。月の出の時間をみると、10日が0:33分、11日が1:30分、だからこれを書いている10時はまだ月が出ていないのだ。朝方に東向きの窓から月が見えるのをようやく納得した。
ついでに書いておくと、今月末は皆既月食だそうである。
「濃美」2018年1月号
現代俳句月評 筆者・後藤ひさし
俳壇十月号「水柱」より
う―む、よくぞ言ってくれました。草笛やひょんの笛など草や実を使って音を出せばそれぞれに音色というものがありその巧拙を楽しむことが出来ますが、鬼灯を鳴らすという言葉と、その実際の音とには埋められない溝があります。空気を狭い穴から出すだけというこの不細工な音を「愚かな音」と切って捨てた作者も、実際に鳴らすのには苦労された方なのでしょう。
「饗宴」2018年1月号
現代俳句の窓 筆者・渡辺 澄
(「俳壇」10月号より)
まばらに自生した鬼灯の一角があり、好んでその場所で女の子たちは遊んだ。種を出し、空気を吹き込む、唇にのせてしずかに押す、たったこれだけのこと、すぐ失敗するようなはかない遊びであった。音程は同じで、一音ずつしか出せず曲を奏でることはできない。古楽器の類の音色だ。
子どもの頃感じた音色とは明らかに違う、それは哀しみと寂しさを超えた哀歌であった。正直に生きてきた人々にとって、愚直な音であり、愛しい音色でもある。
バス停の広場の隅の道祖神の周りに、10日ほど前まで毎日零余子がぼろぼろ落ちていた。
見上げても芋の蔓も葉も見当たらないので、立ち木の相当高いところを這っているのだろう。その実も、このごろは落ちつくしたのか、まったく見当たらない。
ちょっと残念な気もしたが、到底手の延ばせないところの零余子なの仕方がない。
ところが、その零余子がたくさん送られてきた。一升枡にいっぱいになるほどある。
バス停で幾度も物欲しそうに梢を眺めていた私の心を、神様は汲み取ったみたいだ。吃驚である。
とりあえずは塩茹でで食べてみた。味は里芋とまったく同じである。あとは何にしたらいいのか。火曜日にはカルチャーがある。みんなに神様のお裾分けしようと思う。
69号ににんの再校も済んで、今日は印刷所に送ったので、あとは出来上がりを待つばかり。
火事というのは本当のところ現実感がない。たいがいは遠くから眺めるだけだからである。実際に火事の現場に出会ったらどうなのだろうか。
火事なのか、もしかしたら地獄が見えているのだろうか、という戸惑いの中に置かれることこそが、火事との距離感となっている。
『カムイ』2017年 ふらんす堂より
信濃町駅から明治記念館までの銀杏並木、ことに球場側の道が落葉の絨毯になっていた。写真は日曜日に撮ったもの。何がというわけでもないが、ずっと眺めていたいような風景である。
絵画館前でなくても、見事な銀杏の落葉道になった。 そうして今日は「ににん」の例会、三日間連続の外出だった。明日からのんびりできると思ったが、届いていた荷物を見たら埼玉文学館からのもの。中身は見なくても分った。俳句応募作品の山である。
そうしてパソコンを開けたら、三原プリントさんから「ににん」の校正を送りました、というメールが入っていた。来週までに佐藤大志の『海炭市叙景』を読まなければならないし、贈呈された書籍は封したまま、積み上げられているし、どうなるのだろう。
今月も三分の一が過ぎた。まだ吟行が二回、読書会とそれに続く忘年会、カルチャーが三か所、そうして、年末は恒例の「ににん」発送が控えている。 もともと、忙しくてこのブログを書くのも間遠くなっているし、映画を観る時間も諦めざるを得ないと思っているのだが、これ以上省くものがあるだろうか。
「春嶺」12月号
現代俳句瞥見 筆者・縣 恒則
「脚二本」に焦点をあてて羽抜鶏を捉えた。しかも「顕にしたる」と、毛が
抜けて脚が殊更目立った羽抜鶏の特徴が見事に詠まれている。句を詠む場合、
その対象の何に絞って詠むかはとても大切なことだが、焦点の絞り方に
ヒントがあるようで、貴重な参考作品だ。
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「回廊」12月号秀句をたずねて
筆者・小谷一夫
「俳壇」十月号より。ずばり羽抜鶏の本質を掴み取って詠まれた句である。
羽抜鶏だとどうしても、羽が抜けたことを詠もうとするが、
この句は「脚二本顕にしたる」と詠まれると、
眼前に羽抜鶏が出現するのである。
象徴により具象が詠まれた句。
正に名人芸としか言いようがない句。
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「松の花」12月号 現代俳句管見
筆者・平田雄公子
みすぼらしい換羽期の「羽抜鶏」であるが、特に、
羽毛の薄い「脚」では猶更である。しかし、
がっちりした「二本」の「脚」が「顕に」
精悍な肢体を見せている、次第。
2017年受贈書籍
筑紫磐井・『季語は生きてゐる
ーー季題、季語の研究と戦略ーー』2017年 実業広報社
小川軽舟・『俳句と暮らす』 2016年 中公新書
島田牙城・『俳句の背骨』 2017年 邑書林
大崎紀夫・『nの方舟』ーー大人の童話 2017年 ウエップ
小島良子・『続・自習室』--現代の俳句を詠む 2017年 文学の森
小川軽舟著『俳句と暮らす』 2017年 中公新書
井上弘美著 『季語になった「京都千年の歳時」』2017年 角川書店
秋尾敏 ・『俳句の底力』 2017年 東京四季出版
鍵和田柚子・私の愛誦句鑑賞『中村草田男』 2017年 春秋社
齋藤眞爾・続『寂聴伝』拈華微笑 2017年 白水社
浅沼 璞・新書で入門『西鶴という鬼才』 2008年 新潮新書
須藤常央・『虚子探訪』 2017年 神奈川新聞社
栗林 浩・『昭和・平成を詠んで』 2017年 書肆アルス
かねさきまさの・『おもいでのとびら』 2017年 馬場隆吉デザイン
大久保白村エッセイ集・『俳句のある日々――』 2017年 北冥社
「京大俳句」を読む会 会報第4号 2017年(執筆者 堀本吟・西田もとつぐ・梶谷忠太・樽見博他)
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