堂内に打ち水己が心にも
花とべら天の鳥船待つ浜辺
燕の子改札口を見下ろして
急磴はそのまま天へ木の芽風
一枚の鋼となりて鷹渡る
たぶたぶと船底たたく秋の水
昭和14年生れの「太陽」編集長である。作者は「太陽」の創刊の広島県三原で生れている。三原は尾道に近い瀬戸内海際のおだやかな土地である。句集『二重虹』はその空気を盛り込んだ作品集で、どの一句を取り出しても広々とした空を感じる。気が付いたら、屋内の句は見当たらなかった。
堂内に打ち水己が心にも
花とべら天の鳥船待つ浜辺
燕の子改札口を見下ろして
急磴はそのまま天へ木の芽風
一枚の鋼となりて鷹渡る
たぶたぶと船底たたく秋の水
昭和14年生れの「太陽」編集長である。作者は「太陽」の創刊の広島県三原で生れている。三原は尾道に近い瀬戸内海際のおだやかな土地である。句集『二重虹』はその空気を盛り込んだ作品集で、どの一句を取り出しても広々とした空を感じる。気が付いたら、屋内の句は見当たらなかった。
「太陽」主宰のエッセイ集。医学博士でもある務中氏が毎月「太陽」に発表していたエッセイ集である。文学者の視線に医学者としての視線を加えた内容は、いずれも精神衛生的なもの。それは務中氏の人生論でもあるのだろう。
「秋茄子夜話」では、癌予防の効果のあるものを挙げながら、「秋茄子は俳人に食わせろ」で終わる。ユーモアーに溢れた滋味ある中身である。読んでいくうちに肩のコリがほぐれていきそうだ。
「かだらは文化である」の中にはーーそもそもからだの「から」は「からっぽのから」、そうかんがえていくと気が楽になり、体そのものが癒されていくような気がするーーには思わず頷いている。
ときどき、自分に合う調合薬を探すように読めばいいのではないかと思う。
寒卵年寄りはまた年をとる
入口から出口の牡丹雪を見る
お天道様が熊野大社の蛇に
水音にどこまでも沿う裘
八月の赤子はいつも宙を蹴る
百歳の話にまたも山桜
冬の雁ひととき羽を疊みけり
おのずから定員のあり花筵
今生の目玉をのこす雪兎
夏ぐれの鳳凰木の下に立つ
俳句の場合、年輪とは諧謔を加えていくことのように思える。そうして諧謔とは精神のゆとりではないだろうか。『記憶』にはそれをことに認識させられるような気がした。
ころがつて小さくなりぬ毛糸玉
教壇の夢より覚めて冬ごもり
渦避けて渦に近づく渦見船
団栗を拾ひ集めて捨てておく
くべ足して煙の重くなる焚火
日の中に落ちてとどまる椿かな
昭和31年生れ・俳人協会新人賞受賞者。所属結社『浮野』創刊に参加したのが20歳ごろのようだから、純粋な落合水尾門下。一句目の(ころがつて)の省略の方法。(教壇)の生活感、(どんぐり)の周囲への機微。(くべ足して)の感覚。(日の中の)描写力。何れも写生方法が無理な言葉で力まない好句集である。
草餅やときどき今も兄妹
日傘にもかかるイルカの水しぶき
ねむたさの浜昼顔に船を待つ
ほのぬくき子供の頭小鳥来る
葉の裏に冬の虻ゐてまんまるに
風が吹く冬たんぽぽのあたりかな
序文を片山由美子氏、跋を岸本尚毅氏が書いているところをみると、句座にも恵まれているのかもしれない。日常のさりげない風景が作品化されると、不思議な空間を作り出す。
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