宇多喜代子第六句集『記憶』 2011年 角川学芸出版

  寒卵年寄りはまた年をとる
  入口から出口の牡丹雪を見る
  お天道様が熊野大社の蛇に
  水音にどこまでも沿う裘
  八月の赤子はいつも宙を蹴る
  百歳の話にまたも山桜
  冬の雁ひととき羽を疊みけり
  おのずから定員のあり花筵
  今生の目玉をのこす雪兎
  夏ぐれの鳳凰木の下に立つ

俳句の場合、年輪とは諧謔を加えていくことのように思える。そうして諧謔とは精神のゆとりではないだろうか。『記憶』にはそれをことに認識させられるような気がした。

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