寒卵年寄りはまた年をとる
入口から出口の牡丹雪を見る
お天道様が熊野大社の蛇に
水音にどこまでも沿う裘
八月の赤子はいつも宙を蹴る
百歳の話にまたも山桜
冬の雁ひととき羽を疊みけり
おのずから定員のあり花筵
今生の目玉をのこす雪兎
夏ぐれの鳳凰木の下に立つ
俳句の場合、年輪とは諧謔を加えていくことのように思える。そうして諧謔とは精神のゆとりではないだろうか。『記憶』にはそれをことに認識させられるような気がした。
寒卵年寄りはまた年をとる
入口から出口の牡丹雪を見る
お天道様が熊野大社の蛇に
水音にどこまでも沿う裘
八月の赤子はいつも宙を蹴る
百歳の話にまたも山桜
冬の雁ひととき羽を疊みけり
おのずから定員のあり花筵
今生の目玉をのこす雪兎
夏ぐれの鳳凰木の下に立つ
俳句の場合、年輪とは諧謔を加えていくことのように思える。そうして諧謔とは精神のゆとりではないだろうか。『記憶』にはそれをことに認識させられるような気がした。
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