‘他誌からの転載’ カテゴリーのアーカイブ

2018年3月号「歯車」~句集の散歩道

2018年3月10日 土曜日

俳句の香りを楽しむ   筆者・門野ミキ子

岩淵喜代子さんの『穀象』は、『朝の椅子』、『蛍袋に灯をともす』、『硝子の仲間』、『嘘のやう影の やう』、『白雁』に続く第六句集である。岩淵さんの略歴をご紹介すると、 一九七八年原裕に、1979 年川崎展宏に師事、2二〇〇〇年より「ににん」代 表。エツセイや評論でもご活躍である。また、現俳 協研修部の通信俳句会では今期( 24期)の講師をご担 当くださっている。

「ににん」のwebサイトを覗いてみよう。
「俳句の俳とは、非日常です。日常の中で、もうひ とつの日常をつくることです。俳句を諧誰とか滑稽 など狭く解釈しないで、写実だとか切れ字だとか細 かいことに終わらせないで、もつと俳句の醸し出す 香りを楽しんでみませんか」とある。

句集『穀象』は九つの章から成っている。

〈穀象〉から
穀象に或る日母船のやうな影
青空の名残のやうな桐の花
椎匂ふ闇の中より間を見る
あとがきに「米の害虫だという小さな虫に、穀象 と名付けたことこそが俳味であり、俳諧です。それ にあやかつて句集名を穀象としました」とある。 穀象に母船とはなんだろう、そして或る日とは…。無限に想像の膨らむ奥の深い楽しい句である。

(水母〉から
水母また骨を探してただよへり
全身が余韻の水母透きとほる
天道虫見てゐるうちは飛ばぬなり
水母の句。骨のない水母が骨を探している滑稽、骨が見つからず余韻と断定された水母、透きとおるしかなかったのか。

〈西日〉から
夕焼けに染まりゐるとは知らざりし
人類の吾もひとりやシャワー浴ぶ
みしみしと夕顔の花ひらきけり
夕焼けの句。染まっているのは自分ではない。他 の人かモノだと思う。視点が新鮮。

〈盆〉から
赤子笑むたびにざわめく魂祭
踊の輸ときに解かれて海匂ふ
踊手の句。同じ動作を繰り返す盆踊り、そう言わ れればみな真顔である。鋭い観察、発見である。

(半日〉から
半日の椅子に過ぎけり竹の春
梨を剥くたびに砂漠の地平線
鶏頭へぶつかってゅく調律師
半日の句。半日何をしていたのか。そんな事はど うでもいい。各人各様の半日なのである。竹の春がいい。

〈冬桜〉から
狐火のために鏡を据ゑにけり
足音を消し猪鍋の座に着けり
冬桜遠くの方が明るかり
狐火の句。狐が口から火を吐くと言われている暗夜山野に見える怪しい火、それを鏡に映そうと言うのだろうか。鏡に映れば本物だ。

〈氷柱〉から
水仙を境界として棲みにけり
炬燵から行方不明となりにけり
呆れてはまた見に戻る大氷柱
炬燵の句。行方不明になったのは何だろう。考え るだけでも楽しい。そんなに深刻な行方不明ではな い。談笑の間こぇる愉快な句である。

(凡人〉から
凡人に真赤な椿落ちにけり
星暦のやうな物種もらひけり
麦踏みのつづきのやうに消えにけり
麦踏みの句。単に仕事を切り上げただけなのだろ うが、いつの間にか麦踏の人が消えてしまった。麦 畑の静寂さが伝わってくる。

〈巡礼)から
お遍路の踵に蟇のぶつかり来
貼り混ぜる切手とりどり巣立鳥
暗闇とつながる桜吹雪かな
お遍路の句。道連れは墓だったのだ。 ュニークな 取り合わせが楽しい。

どの句も自然な調べが心地よく、すんなりと心に 入って来る。そしてどの句にも余韻があって、それ がどんどん膨らんで、一句の世界が無限に広がって いく。決して答えを押し付けない自由さが、また心 地よい。「俳句の醸し出す香り」なのだろうか。発 見あり、共感あり、納得あり、 一句の世界の奥深さ を実感した。得難いお勉強をさせて頂いた。

水母また骨を探してただよへり  岩淵喜代子

2018年2月20日 火曜日

骨のないことを楽しんでいるかのような水母の漂うさまを「骨を探して」とは言い得て妙で面白い。水母をこのように捉えることが出来る作者はきっと骨のある人にちがいない。骨のない私などは、常々水母のように浮遊したいと思っている。が、この句にふれて、水母の見方が変わるかもしれない。

『穀象』は事物へ対しての岩淵さんの鋭利な視線の切り取り方が実に豊潤。「穀象に或る日母船のやうな影」「炬燵から行方不明となりにけり」「てのひらの雹は芯まで曇りゐる」(句集『穀象』より)

2018年2月号『門』   玲玲抄 筆者・鳥居真理子

炬燵から行方不明になりにけり    岩淵喜代子

2018年1月12日 金曜日

1月12日「日本農業新聞」  鑑賞・宮坂静生

可笑しくも哀しくも読むことができる。
炬燵での円居は心温める。それなのに不意に居なくなってしまったとは、炬燵一つが人生の縮図を思わせる。好きな人ができてあの人がここから消えてしまった。どこかへ行ったやら。あの風来坊は。

事はときに深刻。赤紙が来て戦地に連れて行かれた。どこに果てたのやら。あの人はついに帰って来なかった。こんな戦争体験は二度としたくない。炬燵詠の秀作。
(「句集『穀象』ふらんす堂」より)

鬼灯を鳴らせば愚かな音なりし   岩淵喜代子

2018年1月9日 火曜日

「濃美」2018年1月号
現代俳句月評    筆者・後藤ひさし

俳壇十月号「水柱」より
う―む、よくぞ言ってくれました。草笛やひょんの笛など草や実を使って音を出せばそれぞれに音色というものがありその巧拙を楽しむことが出来ますが、鬼灯を鳴らすという言葉と、その実際の音とには埋められない溝があります。空気を狭い穴から出すだけというこの不細工な音を「愚かな音」と切って捨てた作者も、実際に鳴らすのには苦労された方なのでしょう。

鬼灯を鳴らせば愚かな音なりし  岩淵喜代子

2017年12月23日 土曜日

「饗宴」2018年1月号
現代俳句の窓   筆者・渡辺 澄

(「俳壇」10月号より)

まばらに自生した鬼灯の一角があり、好んでその場所で女の子たちは遊んだ。種を出し、空気を吹き込む、唇にのせてしずかに押す、たったこれだけのこと、すぐ失敗するようなはかない遊びであった。音程は同じで、一音ずつしか出せず曲を奏でることはできない。古楽器の類の音色だ。

子どもの頃感じた音色とは明らかに違う、それは哀しみと寂しさを超えた哀歌であった。正直に生きてきた人々にとって、愚直な音であり、愛しい音色でもある。

脚二本顕にしたる羽抜鶏    岩淵喜代子

2017年12月1日 金曜日

「春嶺」12月号
現代俳句瞥見   筆者・縣 恒則

「脚二本」に焦点をあてて羽抜鶏を捉えた。しかも「顕にしたる」と、毛が
抜けて脚が殊更目立った羽抜鶏の特徴が見事に詠まれている。句を詠む場合、
その対象の何に絞って詠むかはとても大切なことだが、焦点の絞り方に
ヒントがあるようで、貴重な参考作品だ。
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「回廊」12月号秀句をたずねて
筆者・小谷一夫

「俳壇」十月号より。ずばり羽抜鶏の本質を掴み取って詠まれた句である。
羽抜鶏だとどうしても、羽が抜けたことを詠もうとするが、
この句は「脚二本顕にしたる」と詠まれると、
眼前に羽抜鶏が出現するのである。
象徴により具象が詠まれた句。
正に名人芸としか言いようがない句。

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「松の花」12月号 現代俳句管見
筆者・平田雄公子

みすぼらしい換羽期の「羽抜鶏」であるが、特に、
羽毛の薄い「脚」では猶更である。しかし、
がっちりした「二本」の「脚」が「顕に」
精悍な肢体を見せている、次第。

天山へ首振りながら馬肥ゆる   岩淵喜代子

2017年10月30日 月曜日

「春耕」11月号 鑑賞「現代の俳句」  筆者・蟇目良雨

中国の西域に天山山脈が横たわっている。万年雪が地下に染みとおりカレーズとなり一帯の砂漠地帯に農業を齎している。秋の取り入れの喉に首を振りながら荷車を引いている馬なのであろうか、天山へ挨拶を交わしているように見えると想像できる。(ににん2017年秋号より)

避暑の宿椅子の形に身を添はせ   岩淵喜代子

2017年10月21日 土曜日

「ランブル」10月号・現代俳句鑑賞 筆者今野好江

『俳句四季』八月号 「かくれ里」より
夏に都会の暑さを避けて海山に涼を求める〈避暑〉。このたびは貴人の住みそうな山里の館であろうか。宿の椅子は籐製のものかも知れない。

籐椅子あリタベはひとを想ふべし  安住  敦
籐椅子に沈みてうすき母の膝    古賀まり子

宿の椅子は磨かれてはいるものの自然の窪みはいかにもと諾う代物である。〈椅子の形に身を添はせ〉という起居の静けさに惹かれた一句である。同時掲載に(空蝉として遺るなら透けるなら)。

 

「太陽」10月号 「秀句の窓」 筆者・吉原文音

リラックスした体が椅子と同化している。心地よさや安堵感が滲んでいる。

青梅のなか暗闇と思ひけり   岩淵喜代子

2017年10月20日 金曜日

「天為」10月号 現代俳句鑑賞  筆者米田清文

「俳句四季」8月号 かくれ里
梅雨に入る頃になると、梅の若葉がこんもり茂りその陰で実が丸々と太り、遠くからはわかりにくいが木の下に行くと葉がくれに累々と青い実が生っています。葉の色も梅の実も青く、一見すると区別がつかないときもあります。
掲句は青梅のなる茂った葉の中を「暗闇」といい、若葉の中の青梅の実の瑞々しさとその生命力を引き立ています。

春雷の次を待つごと立ち尽くす   岩淵喜代子

2017年8月25日 金曜日

「春嶺」8月号  現代俳句瞥見   筆者 縣 恒則

「春雷」は夏の雷と異なり、一つ二つで鳴りやむ事が多い。作者は、ゴロゴロと鳴った春雷を耳にし、次の雷鳴を待ってたちどまってしまったというのである。通常なら、次の雷は避けたいものだが、俳人の春雷への関心や好奇心が受け止められて興味深い。

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