筍は春の季語のように思いがちであるが、夏なのである。二月から五月ごろまでと、収穫の時期がながいのが春だと思わせてしまうのかもしれない。
地中に潜っている根のあたりを鍬で掘り出すのである。そのときの根の辺りの鍬の跡に焦点を当てて、掘り出したばかりの筍を鮮烈に描いている。
他に(塩味のかくれてゐたる豆御飯)(ホームから線路におりる冬雀)(日溜りに出てくる冬のきりんかな)など、(天野美登里第一句集『ぽっぺん』2016年 ウエップ)より。
筍は春の季語のように思いがちであるが、夏なのである。二月から五月ごろまでと、収穫の時期がながいのが春だと思わせてしまうのかもしれない。
地中に潜っている根のあたりを鍬で掘り出すのである。そのときの根の辺りの鍬の跡に焦点を当てて、掘り出したばかりの筍を鮮烈に描いている。
他に(塩味のかくれてゐたる豆御飯)(ホームから線路におりる冬雀)(日溜りに出てくる冬のきりんかな)など、(天野美登里第一句集『ぽっぺん』2016年 ウエップ)より。
「嶺」2016年8月 主宰・布川直幸
俳句月評ー俳句総合誌よりー 筆者・上原重一
(『俳壇』六月号「鳥の恋」から)・ 綾取りは、輪にした糸を手首や指にかけて琴、鼓、川などの形を作って遊ぶ女児の遊戯。私も幼い頃、男女の区別なく遊んだ。幼児を回想しての句であろう。遊びの綾取りからふと目の前の鳥の恋が目に入ったのではなかろうか。
タイトルが刺戟的、表紙も刺戟的、そして帯文で坪内稔典氏が――分ろうとしない。前から順に読まない。退屈なとき、とても贅沢な気分のとき、なんだか泣きたいとき、ぱらっと何ページ目かを開く。すると、そこにある言葉が話しかけてくるだろう。---と書くのも刺戟的である。
だか一句ごとを追っていくと、わりあい身近に共感できそうな句が並ぶ。掲出句も泉へ手を差し入れる感触を他者を通して感じているのである。他に(天井のはるかに遠き夏蒲団)(南からをとこ来たれり夜のプール)など。岡野泰輔第一句集『なめらかな世界の肉』2016年 ふらんす堂 岩淵喜代子記
主婦なら誰でも頷いてしまう一句。掲句は、もしや青蜥蜴がすっぴん?、と思い込みしそうなアクションを感じて、午前中の眠気を払拭してくれる若々しい一句。他に「袋から袋取り出し冬の雨」「草青むベンチコートを脱いでゴー」「読み上げ算にがてだってね辛夷咲く」など。船団会員・1941年生れ
平きみえ句集『父の手』 2016年 象の森書房より 岩淵喜代子記
( かなかな)とはひぐらしの鳴き声で、(ひぐらし)(ひぐらし蟬)とも呼ぶ蟬の一種。夕暮れになると金属音のひぐらしの声が森の中を貫き始めると、あたりはそのかなかなという声の他には聞こえなくなる。(他を黙らせて)はそうしたひぐらしの音に耳を傾けている作者に行き着く。他に(頬杖や生きのびてきし冬日向)(二手二足たがひちがひに秋の道)など。松山足羽第七句集『究むべく』2016年 東京四季出版。
実のなり初めは,木の葉の色に紛れていて見ようとしないものには姿を現さない。それがひとたび実が成っていることを認識すると、個々の青い実がみんな形を表わしてくる。さらによく見ようと後ろに下がって、一木を視野におさめてみれば隅から隅まで青梅が青い実を丸々と付けていた。思わず(あるわあるわ)と感嘆の声が出てしまったのだろう。日常雑記的な風景を詩情濃く俳句に置き換えた。(能村研三第七句集『催花の蕾』 2015年 (株)KADOKAWA)
むくむくが眼目だろう。雲のむくむくと育っている遠景がいつか眼前の桑の実の形状に繋がって夏のさかりの真昼を描いている。(烏瓜ぶらりと山の晴れわたる)(沖くらし暗しと猛るどんどの火)など、村の風景が随所に詠まれている。この一冊の中に『春の村』が
詰まっているという感じがする。(黛執第七句集『春の村』 2016年 角川書店より)
カバより大きな動物はたくさんいるのだが、なぜか、この世のカバの大きさには無駄を感じるのである。なぜか、象の大きさは納得できるのにカバの大きさに納得できない。
それほど大きく感じるということでもあるのだが、やはり形状のためかもしれない。
水の塊、と言われるとなるほどと頷いてしまう。だぶだぶとしたその体が自在に変化するような気がする。
『坪内稔典100句』 2016年 創風社出版
(己が音)を纏うというのは、大きな滝のようには辺りに音を響かせることもなく、ひっそりと流れている滝なのだろう。こんなところにも滝があったと、近寄ってみれば、微かに滝の流れから発している音も聞こえた。
作者にとって音は滝の命のようにも感じられたのではないだろうか。
小山徳夫第三句集『春港』 2016年 本阿弥書店
撓うことがないような鶏頭の花も、さらなる強い風が吹けば風の行方に流されてしまうのである。作者は貂の主宰者だった川崎展宏の匂いを句集の随所から届けてくれる作家である。
俳句という文芸は何でもない風景を詠むものなのだと改めて知る。風が鶏頭の花を傾かせたことを言うだけなのだが、それが作者の視点を通して鶏頭花を浮き立たせてくれるのである。
水が水追うて麓へ蕗の薹
木槿か明くる木曽路となりにけり
あたたかし戸袋へ戸を押しながら
揺れ戻す首のちからや白牡丹
いつのまに二百十日めの御飯
つまんだる指が映りぬ柿羊羹
『五風十雨』 2016年 ふらんす堂
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