‘受贈著書’ カテゴリーのアーカイブ

冬麗のどうもどうもとゴリラ来る    今富節子

2016年10月28日 金曜日

(どうもどうもは)はゴリラの会話というよりは、ゴリラの姿がそのことばによって表現されている。たしかに、「どうもどうも」と頭を掻きつつ現れそうだ。そのゴリラの卑近さと冬麗という日和がゴリラに思惟的な品格を与えている。

「今富節子第二句集『目盛』  2016年  本阿弥書店」より。他に(梅咲くや一人と一人昼休み)(羊羹のやうな閂城の春)(ひとつかみ八百屋に田芹持たされし)など。

真実を追い越して行くかたつむり   前田霧人

2016年10月25日 火曜日

かたつむりが進む姿を想像しても、動いているのかいないのか解らないほどの遅々とした移動の姿しかない。それなのに、この句の蝸牛は意志を著わに、力強く突き進んでゆく。

真実を追い越した先にあるのは自由なのかもしれない。

他に(初蝶は海の底から生まれるんです)(水色の蝶空に舞い空になる実を追い越して行くかたつむり)(居酒屋の廊下に段差河童の忌)など。「前田霧人第二句集『レインボーズ エンド』 2016年 霧工房」より。

大学に育ちし零余子封筒に   森山いほこ

2016年10月19日 水曜日

句意を説明する必要もないほど、明快な世界が提示されている。誰もが一度くらいは、こんな経験をしているので、ことに懐かしい風景である。

そのなかでも、ころころとこぼれ易い零余子の幾粒かを封筒に入れる時の感触や音やらが懐かしく蘇る。

「森山いほこ第一句集『サラダバー』 2016年 朔出版」より。、

冬薔薇の束を抱きて九階へ
サラダバー横歩きして銀漢へ
秋茄子の皮を剥がせば渚色
春昼のバス待つやうに鱧を待つ

虫売の祖国も売つてしまいけり   瀬戸正洋

2016年10月19日 水曜日

虫売りから祖国へ続くところで、この祖国の存在、在り様が見えてくる。祖国は作者の故郷と同義なのではないかと思う。

目の前で売られている虫も同時に祖国を失ったかのように思えて、その声が哀れになる。極めて卑近な風景を詠んでいる句集のなかで、突然目の前に大海、あるいは高原といった視界のひろがりを感じる一句だった。

ほかに、「優曇華や朝昼晩と飯を食ひ」「雑炊に醤油垂らすや午前二時」など。「瀬戸正洋句集『へらへらと生まれ胃薬風邪薬』2016年 邑書林」より。

ピアノ鳴る耳の中まで大枯野    鈴木多江子

2016年10月15日 土曜日

ピアノと枯野の取り合わせは、どこかにあるかも知れない。しかし、ここではその大枯野を大きい上にもさらに拡大して、聴覚の世界にまで響かせて果てしない枯野を描いている。

他に(憂ひとは大きすぎたる山椒魚)(太陽の白くなびけり初あらし)(麦秋や溺るるごとく旅に寝て)(秒針もまた長針も囀れり)など。鈴木多江子第二句集『鳥船』 2016年 ふらんす堂

りんりんと冬の木立に腕拡げ   九里順子

2016年10月12日 水曜日

前書きに「高村光太郎」とある。
この句のある章は「続・近代詩漫歩」というタイトルが置かれ、一句ごとに文学者の名前が付されている。

三多磨の百合にとどまる七年の時  (北村透谷)
梅の闇姉妹の中を川流れ  (島崎藤村)
花蔭に男子も袖を濡らすべし  (田山花袋)

と、こんな感じであるが、どの句もその前書きが無くても、印象的な絵画として爽やかである。さらに前書きによって、一句のイメージが奥深くなっている。例えば冒頭の句が、高村光太郎であることによって、智惠子の青空が重なり、光太郎の彫刻のような木立が見えて来る。面白い試みである。
九里順子第二句集『風景』 2016年 邑書林

石鹸玉弾けて残る風の色   峰崎成規

2016年10月4日 火曜日

大方の人にとってしゃぼん玉は、夢の象徴のような存在として捉えられていると思う。そうしてそのシャボン玉の行方を追う詩や歌は多い。そのすべてがシャボン玉が弾けたところで終わりになる。しかし、この作者は、そのあとも見届けているのである。(風の色)が独創的である。

(峰崎成規句集『銀河の一滴』 2016年  鳰書房)より

躓くや涼しき尾つぽなきゆゑに   大木あまり

2016年10月4日 火曜日

原初人間には尾があったらしい。記紀には、吉野の井氷鹿(いひか)に棲むと名乗り挙げた話が出て来る。否、そんな事実が有っても無くても、作者は尾を涼しい存在として捉えているのだ。

「大木あまり第六句集『遊星』  2016年  ふらんす堂}より。他に(簾して野の匂ひする仏間かな)(パーティーや海の朧を見渡して)(たんぽぽの絮吹かれくる西日かな)など。どの句も遠近・日常と非日常の重なるあたりに視点を置いている。

なんとなく冬の怒涛を見に来たる  和田耕三郎 

2016年10月1日 土曜日

日常はいちいち理由を掲げないままの行動の積み重で成り立っているのかもしれない。冬の怒涛を見たいと思ったというのでもなく、冬の怒涛の切り岸に引き寄せられたというのとも違う。来てみれば、それで目的が達成したというのでもなく、またもとの道を引き返していく。

雑誌「蘭」を読んでいたことがあった。その中でも和田氏の叙情性は青春性を重ねて、不思議な密度があった。その叙情性が健在な今回の句集「『椿、椿』2016年 ふらんす堂」には懐かしさを感じた。

他に(すれ違ふ少女に蛇の匂ひせり)(五月雨の一夜に錆の湧きにけり)(玄海に椿一輪咲いてをり)(しんしんと空の奥より若葉冷え)(足で足洗ひて秋の澄みゐたり)
など。

暁の夢に入り来し深轍   齋藤愼爾

2016年9月27日 火曜日

句集『陸沈』は、すべて作者だけが入れる夢の世界で詠んでいると言ってもいい。
それだからこそ、(たはやすく身一つを移す雁列に)と、わが身を自在に移せるのである。夢の入り口に深々とある轍の跡こそ、齋藤愼爾氏の夢の象徴なのだと思う。
「齋藤愼爾句集『陸沈』 2016年  東京四季出版」より。
他に
雛の間の月の雫は花のごと
春満月面に毛毬撞きし跡
白妙の産衣は朧への橋懸り

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