このごろは落葉焚きの出来るところが少なくなった。
いくら掃きよせてもそれ程大きな嵩にはならない落葉の山を燃やすのは穏やかな風の無い日を選らぶ。火をつけても、ゆっくりと燃え上がる落葉焚火は煙が先に空を目指して昇ってゆく。その煙の柱に日ざしが当たる。それが、なぜか心の平安の象徴のようである。
ほかに(散紅葉その真中より立てる幹)(寒林の人声やがてすぎにけり)(蕗の葉のそよぎおくれぬ草の中)など、作者の視線に共感する作品が並ぶ。本郷大地句集『天鼓』 2015年 文学の森
このごろは落葉焚きの出来るところが少なくなった。
いくら掃きよせてもそれ程大きな嵩にはならない落葉の山を燃やすのは穏やかな風の無い日を選らぶ。火をつけても、ゆっくりと燃え上がる落葉焚火は煙が先に空を目指して昇ってゆく。その煙の柱に日ざしが当たる。それが、なぜか心の平安の象徴のようである。
ほかに(散紅葉その真中より立てる幹)(寒林の人声やがてすぎにけり)(蕗の葉のそよぎおくれぬ草の中)など、作者の視線に共感する作品が並ぶ。本郷大地句集『天鼓』 2015年 文学の森
冬芽というとき、すでに寒さを感じる季語なのだが、(固し)によってまだまだ春には遠い季節も提示されている。しかし、この句はその春遠いことを述べているのではない。思い通りにならない子供の反抗する姿、それに空の中に凛と在る冬芽の存在、それが、命の躍動する光景として繰り広げられているのだ。
他に(銀杏散る皿割る音も混ざりけり)(胎動のごとき水音朝桜)(少年の手足が余り泳ぐかな)などにも、生き生きとした命が描かれている。(岩淵喜代子) 市村栄理句集『冬銀河』 2015年9月 本阿弥書店より
先日アニミズムについての中沢新一氏の講演を聴いた。気が付いて見回してみれば、人は、ことに日本人は見えるものすべてに魂を感じ取っている国民である。冬瓜だって(ごろごろしてゐたり)と言い留めるのは、すでに冬瓜に魂のようなものを感じて呼びかけているのである。(木犀や子が出て昼の鐘をつく))(白雨てふひかりをながす樺林)など。現代俳句文庫『加古宗也句集』2015年 ふらんす堂。
(岩淵喜代子)
誤植を見つけた時の驚きはこんな感じだろうと思う。もう取り返しがつかないだけでも顔面蒼白の事態なのだが、その誤植の文字がとんでもない無いように変転していたりして驚くのだ。この句のように述べられると、遠い火事は単なる視覚のものではなくなる。
句集の後半には何篇かの俳論があり、自作を語っている。ーーすべて嘱目である。俳句はなるべく嘱目性を踏まえるべきだと思っている。17音の短詩が世界の多様性との接触を保持するにはそれしかない。(随想より)ーー
井口時男句集『天來の独楽』 2015年 深夜叢書
花野に呼び出しの声が渡ってゆく光景は、八方へのびてゆく声とともに、軽やかなコスモスの花野も展開してゆく。それにも拘わらず、その余韻はいつか不安や不思議さへ展開してゆく。その花野の奥へ迷い込んだのは誰なのだろう。呼び出しを掛けられているのは幼子か、その子の母かも知れない。だが、そうした日常些事の出来事も言語として差し出されると、コスモスの野がきりもなく奥深くなる。ほかに(小鳥来る浮野の木々に水の辺に)(秋晴や青の押しあふ空の中)(日にも枯れ風にも枯れて枯れ尽す)( 囀りのひとかたまりのおくりもの)など。落合水尾第十句集『円心』 2015年 角川学芸出版
毎日の生活は、それほど変わったことが起こるわけでもない。掲出句、鬼になった子供が顔を隠しながらひとつふたつと数えているのだ。十になれば、隠れた子供たちを見付け出すことが出来るのも決まりだ。
それなのに(十数へたら鬼となる)の措辞が非日常へ誘うのは単に鬼の言葉だけではない。風景の把握の掴み方の冴えとも言える。ほかに、(恋ひとつ海に透きたる海月かな)(黒揚羽大日如来より来たり)(ページ繰るやうに特急電車冬)などがある。
柏柳明子句集『発揮』 2015年 現代俳句協会新鋭シリーズより
からすうりの花を目にしたことのない人は多いのではないだろうか。もともと烏瓜そのものが鑑賞用に植えられることなどないからである。雑草として山中に、あるいは打ち捨てられた野原にはびこって咲く花だ。人の目に触れにくい上に開花するのは闇のなかなのである。
花を見たことのある人は、烏瓜の花が夜でなければ咲けない花であることを納得するだろう。四弁の花びらの先が繊細なレース模様となって四方に広がっているのである。この花を知らなければ、掲出句の(息づかひ伝はる)の措辞は感受出来ないかもしれない。
作者には他に(拠り所うしなひさうな麦の秋)(無花果は微熱の端に置かれあり)など、心象風景を季語に重ねた作品に、冴えが見られる。
橋本良子第二句集『樹心』 2015年 文学の森刊より
中田みなみ第四句集『桜鯛』 2015年9月 空俳句会より
鮭はかならずかっての故郷へ戻ってくる。小指の先ほどもない稚魚、それが北洋を回遊しながら2~6年で成長したのちに、産卵のために元の川に帰ってくるのだ。そうして産卵を果たすと死んでしまう。言い換えれば死ぬためにもとの川へ上ってくるのである。思えば不思議で健気な行動である。
その死んだ鮭を鴉がつついている光景が一句を成している。近景のその景に、鴉のねぐらになりそうな遥かなる森を引き寄せることで奥行のある風景になった。他に(気まぐれな雨に日の射す青山椒)(人待ちの顔を実梅に移しけり)(梅雨長し見るともなしに街眺め)(配膳車鳴りて西日が眼裏に)など。(岩淵喜代子)
鈴木しげを句集『初時雨』 2015年9月 角川書店より
きわめて鮮明な切り取り方である。そうして単純明快な切り取り方である。そうでなければ、曼珠沙華の赤さは伝えられないのだ。繊細で鮮烈な曼珠沙華という花は、語れば語るほどその輪郭が薄れていってしまうからだ。ほかに(十夜寺海に星出てゐたりけり)(打座といひ即刻といひ梅眞白)(春霰はねて木賊のまはりかな)など。
増成栗人句集『遍歴』 2015年9月 本阿弥書店より
作者は芭蕉の(鷹ひとつ見つけてうれし伊良虞埼)を念頭におきながら鷹をうち眺めていたのだろう。そうして、その芭蕉は(巣鷹渡る伊良湖が崎を疑ひてなほ木に帰る山帰りかな 『山家集』)(ひき据ゑよいらごの鷹の山がへりまだ日は高し心そらなり『壬二集』)などの歌を念頭におきながら鷹の句を詠んだのであろう。他に(米原で大勢が降り入り彼岸)(人と座し仏と座して日の短)(傘寿とは夕かなかなの十重二十重)など。(筆者・岩淵喜代子)
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