‘他誌からの転載’ カテゴリーのアーカイブ

『雉』 2012年7月号 主宰・田島和生

2012年7月6日 金曜日

現代俳句月評    筆者 神田美穂子

夕凪や悪魔呼ぶには闇淡し      岩淵喜代子
                (「俳壇」6月号「葦舟」より)

 この句を読んで「逢魔が時」という言葉がすぐに思い出された。
 夕凪とは夏の夕方、海風から陸風に変る時、風が止む状態をいう。かって香川県に住んだことがあるが、瀬戸内海の夕凪がおいたりと止み蒸し暑く、汗を流しつつ夕飯の支度をしたものだった。
 掲句、そんな風もなく暑苦しい時間帯、空は少しずつ暮れてくるが、悪魔を呼ぶほどにはまだ闇が迫っていないと。「逢魔が時」と重ね合わせて考えてみるつなるほどと納得させられた句である。

『春月』2012年7月号・主宰戸恒東人

2012年6月22日 金曜日

現代俳句の風景  筆者 戸恒東人

神棚は板一枚や法師蝉 岩淵喜代子
下萌えや雀の奪ふ象の餌   同

 岩淵喜代子弟五句集『自雁』(はくがん)より。三〇八句を収録。岩淵氏は昭和十一年東京生まれ。同人誌「ににん」代表、朝霞市往往。総じて独特の見立ての句が揃っていて、写生には違い句が多かった。その中でも掲出句は、写生も効いており、ペーソスもあって鑑賞に堪える作品だと思う。板子一枚下は地獄という漁師の言葉があるが、神棚も板一枚しかなくて、お寒い限りだという一句目。図体の大きな象の餌を狙って、小さな雀たちが集まってきて、餌を啄んでいる面白さがよく出ている二句目。
 若い頃は、厳しい師匠がいて、観察と写生をしないと駄目だと指導されるが、そのうち年を取ってくると、師も居なくなり、また観察するのにも疲れて、心象句や時事俳句、地名俳句に逃れたくなるのだろうかと、私自身自問しているところがある。そんなことを少し考えさせられた句集であった。

『山彦』2012年7・8月号 主宰河村正浩   

2012年6月18日 月曜日

愛贈誌紹介     筆者 河村正浩

○句集「白雁」(角川書店刊)  岩淵喜代子(「ににん」代表)の第五句集。
  
  今生の螢は声を持たざりし
  風呂吹を風の色ともおもひをり
  尾があれば尾も揺れをらむ半仙戯
  もの種の指にざらざら孫生まれ
  幻をかたちにすれば白魚に

 自由奔放に俳句を満喫している。それにしても沈潜としたこの抒情には不思議な感覚を覚える。それは洞察力の素晴しさでもあるが、季語が象徴的に扱われているだけに、読者にはそれらの何かを探り出すという愉しみがある。

  蟻地獄どこかで子供泣いてゐる
  天へ地へ道はつづきぬ葛の花
  山茶花や柩に釘を打だなくても
  鉄鍋の中の暗闇義士祭
  春の闇鬼は手の鳴るはうに来る

 切れの効果故か、その沈潜とした気息は平明ながら深みを帯びてくる。

  万の鳥帰り一羽の白雁も

 句集名となった句。万の鳥の中の一羽、それを詠む作者もまた一人。
  「あとがき」で。”書くことは「生きざま」を書き残すことだと錯覚してしまいそうですが、等身大の自分の後追いをしても仕方がありません。句集作りは、今の自分を抜け出すための手段のような気もしてきました”と。そして、”自分を変へる旅をしたいと切に思っています。言い換えれば「憧れ」を追う旅とも言えます”と。新しい旅立ちは始まる。

俳誌『十七音樹』24号  代表平沢陽子

2012年6月18日 月曜日

鑑賞 ――現代俳句月評     筆者 長井 寛

地獄とは柘榴の中のやうなもの  (俳句11月号より)  岩淵喜代子

あまたある地獄絵のなかでも丸木美術館の丸木俊・ひさ子夫妻が描いた絵は一際印象深い。原爆投下直後のその惨憺たるはさながら阿鼻叫喚の地獄絵の如、一度見た人の脳裏を離れない。火炙りになって逃げ惑う人の群れはあたかも熟れきった「柘榴の中のやうなもの」であると詠み放射能漏れの大惨事に強い警告を発している。

「轍」 2012年5・6月号発行人大関靖博 編集人大橋俊彦

2012年5月5日 土曜日

俳 誌 探 訪    筆者大塚隆右
      
「ににん」2012年冬号より
                          
  ほとぼりのやうに残りし冬の菊   岩淵喜代子
 「ににん」の代表である岩淵喜代子氏の作。歳時記の既述では冬菊と言えば、冬になっても残っている菊と、冬に咲く菊の二通りがあるようだが、ここはやはり前者であろう。なんと言っても「ほとぼり」という言葉遣いに惹かれた。花盛りの頃の印象が、いまなお余熱のように続いているさまを言っているのだが、措辞の巧みさに感心させられる句である。

  燈火親し命ながらへ栗を食む   西田もとつぐ
 病が小康を得たころの句であろうか。燈火親しむといえば読書や音楽鑑賞などのイメージがあるが、作者は重い病の後とあって、まだそのようなゆとりの境地には至らないまでも、栗を食べてみようかという気持ちになれるところまでたどり着いた。控えめな表現であればこそ、安堵感や喜びというものが充分伝わってくる。

  打ち上げ大花火飽きる間もなく上がりけり  及川 希子
 打ち上が花火の種類というのも無数にあるわけではなく、幾通りかが交互に現れる仕組みになっている。とすればしばらく見ているうちに飽きがくるのでは、と思われるのだが、尺玉の大きなものが次々に打ち上げられ、大音響とともに作裂する迫力を楽しんでいると、時間のたつのを忘れてしまうようだという、臨場感が伝わってくる。

  ストーブのとろ火に溶けて眠る午後 木佐 梨乃
とろ火と聞けば即座に料理で使われるが、とろ火で三十分と煮込む、などの言葉が思い付されるが、ストーブに程よく暖められた部屋で、午後のひと時うつらうつらとまどろんでいる時の、なんともいえない心地よさを、自身がとろ火に溶けているようだと表現する、厨俳句ではないものの、男には及びもつかない発想の句である。

  火祭りのあとの鞍馬の星の数    武井 伸子
 昔から映画の時代劇などで鞍馬の火祭は、日本人にとってなじみの深い名前ではなかろうか。ここで作者は主役の火祭りには触れず、宴のあととも言える祭りのあとの闇の深さと、それゆえに一層際立つ無数の星の輝きのことを言っている。あかあかと燃え盛る炎の残像があってこその、星のまたたきの神秘さが、あざやかな対比として提示されている。

  背なの子のいつしか眠る遠花火   宮本 郁江
 飽きる間もない大花火と異なにり、ここでは遠花火である。高い階のマンションの部屋から見ていると、夏場の土日には遠くの花火がよく見える。おおむね間隔が長く音も聞こえないことが多い。作者もそのような花火を背中の子と一緒に見ていたが、とうとう眠ってしまったようだ。子供にとってはあまり刺激的でない遠花火の静かさ、間遠さをうまく表した句である。

  賤ケ岳鴨の陣敷く余呉の湖     宇陀 草子
 日本人にとって賎ヶ岳の名は、やはり秀占と柴田勝家の合戦や、いわゆる七本槍の逸話を伴って記憶されている。とすれば余呉の湖で鴨たちが、勝手に群れをなして泳いでいる様子を見ても、なにやら陣形を敷いての子細ありげな行動のように見えてしまう。想像力の働いた諧謔昧にあふれる句とかっている。

NHK学園「俳句」2012年春号

2012年4月12日 木曜日

◆四季の季題とその作品鑑賞◆   筆者 太田土男(「草笛」代表)

   悪行をつくして蝶となりにけり    岩淵喜代子
 
 第三句集『硝子の仲間』(平成15年刊)に収められています。不思議な句集名と思われるから知れませんが、〈空蝉を硝子の仲間に加へけり〉の一句から採っています。空蝉のあの感触を「硝子の仲間」と見る感覚はよく分かると思います。まさにここに岩淵喜代子のポエジーがあります。
 蝶の句も、彼女のポエジーです。「悪行をつくして」とは、人間の視点です。数ミリの蝶の卵は孵化すると脱皮を繰り返し、終齢にもなればその食欲は凄まじいものがあります。耳を澄ませば、咀喝音すら聞こえることがあります。もしその植物を栽培しているものなら、「悪行をつくして」といいたくもなるでしょう。しかし、一歩突き放してこの句を読んでみると、作者は案外拍手をしているようなところがあります。『堤中納言物語』には、「虫愛づる姫君」という話がありますが、その姫君のように、蝶の生態を肯定し、いのちを賛美しています。私は俳句の一つの課題として、あらゆる生きもののいのちを詠む。それが大切ではないかと思っています。東日本大震災を契機にいよいよその思いを深くしています。

『麻』2012年2月号 ・主宰嶋田麻紀

2012年3月1日 木曜日

俳誌展望  ――ににん――   筆者井口あやこ

◎『ににん』(二〇一二年、冬号)
 平成十二年十月、朝霞市にて岩淵喜代子氏が創刊代表。方針に、「『ににん』は同人誌である。それは、自分の発揮したいものを思いっきり発揮することが可能な場でもあるのだ。
そこが結社誌と違うのである。」とある。今号は四十五号。表記は歴史的仮名遣い。季刊。
 先ずは、二〇〇〇年秋号の岩淵喜代子代表の「創刊にあたって」の文章を紹介しておく。
「俳句の俳とは、非日常です。/日常の中で、もうひとつの日常をつくることです。/俳句を諧謔とか滑稽など狭く解釈しないで、写実だとか切れ字だとか細かいことに終わらないで、もっと俳句の醸し出す香りを楽しんでいきたいとおもいます。/そして、『ににん』は誌上サロンです。そのサロンには美人の母娘がいると思ってください。サロンに立ち寄ればおいしい珈琲がいつも用意されていると思ってください。そして、珈琲を飲みながら俳句の深いところで語り合えることを願っています。」とある。
 代表の喜代子氏は、昭和十一年、東京生まれ。昭和五十一年『鹿火屋』入会。原裕氏に師事。昭和五十六年『貂』創刊より八年在籍。川崎展宏氏に師事。著書は、句集に『朝の椅子』(昭和六〇)、『蛍袋に灯をともす』(平成十二)、『硝子の仲間』(平成十六)、『嘘のやう影のやう』(平成二十)他、俳詩集に『淡彩望』(平成十二)、連句集『鼎』、評伝『頂上の石鼎』等、多数。
 俳句文学館にて、句集と俳詩集『淡彩望』を読ませていただいた。『淡彩望』は俳句の延長線上にある文章を集めたエッセイ集で、静かな語り口の中に、日々の心情を深く書き留められていてとても感動した。

 句集より感銘句をひく。
  朝の椅子欅の冬を迎へけり(『朝の椅子』)
  まんさくは鬼の振りむいてゆきし花(〃)
  月山の木の葉かぞへて寝ねむとす(〃)
  人影を得ては濃くなる蛇苺(『蛍袋に灯をともす』)
  逢ひたいくて蛍袋に灯をともす(〃)
  座りても立ちても秋の水平線(〃)
  空蝉を硝子の仲間に加へけり(『硝子の仲間』)
  青空のひらと舞ひ込む雛祭(〃)
  暖炉からみんなI緒にゐなくなる(〃)
  嘘のやう影のやうなる黒揚羽(『嘘のやう影のやう』)
  草餅をたべるひそけさ生まれけり(〃)
  椎子の匂ふ方向音痴かな(〃)
  湯たんぽを儀式のごとく抱へくる(〃)

 それでは、『ににん』冬号を開く。
 初めに俳句からご紹介する。

 「ににん集」より。(「今号から兼題は、「灯・火」の歳時記とします。」とある。三十五名出向、ひとり五句掲載)
 
喜代子代表作品「行火」より。
  狐火や体重計に乗りながら
  火の中に大の渦濃くて神迎
  炉にかざすワインの透けて神無月
  霜除けの残りの藁を焚きにけり
  河東碧梧桐とは行火とは

短日の灯に珈琲の濃きかをり    浜岡 紀子
炭青く炎ゆる一点芭蕉の忌     木津 直人
秋深み甘き火を焚く風呂五右衛門 栗原良子
遠火事や人くろぐろと去りゆける  長嶺千晶
信号に赤灯りたり菊咲月       四宮 暁子
 
「さざん集」より。(三十二名出句、ひとり五句掲載)
 
喜代子代表作品「鷹渡る」より。

  矢印を担いでゆくや刈田道
  足元に波伸びてくる神迎へ
  ほとぼりのやうに残りし冬の菊
  葦原も枯れてしまへばみな温み
  青空の真ん中は濃し鷹渡る

乾びたる鬼灯丸く風を待つ      中村 善枝
鳥籠に留り木二本日脚伸ぶ     宮本 郁江
秋灯を消せば画の中昇る月     尾崎じゅん木
新蕎麦のわんこ重ねて百余杯   木佐 梨乃
雪原に梢の揺らぐしじまあり    兄部 千達
蓮の実の飛んでかめ虫転がれり  武井 伸子
 
 伊丹竹野子氏の「『ロンリー・ウーマン』を詠む」(二十四句出句)より。
  年の火のつるりと青き空なりし

 『ににん』は読み物が充実している。 大変面白く読んだのが、清水哲男氏の巻頭言「下連雀からの眺め 八-過ぎにし我が家」である。
 田中庸介氏の「わたしの茂吉ノート」、正津勉氏の「歩く人・碧梧桐」、長嶺千晶氏の「預言者草田男」と、連載評論が三本もあるのも素晴らしいと思う。各氏、詳細な研究をされて健筆を揮っておられる。田中氏は、茂吉歌集『白き山』から「最上川の増水」の連作を取り上げ、自然詠を残した茂吉の喜びを個性的に説く。正津氏は、碧梧桐二六歳から三三歳までを、子規逝去を絡めながら纏めている。
長嶺氏は、草山男の第一句集『長子』を二〇回にわたり追ってきて、今号では『長子』の持つ意味を記す。俳句における伝統と革新を個性的に論じているのが印象的である。
 
 感心したのが、今号の特集、「原石鼎俳句鑑賞ブログより転載」だ。十四名の方は、石鼎の句を、独白の言葉で確かな鑑賞をされている。中でも、〈風呂の戸にせまりて谷の朧かな〉を取り上げた菊田一平氏は、句に奥行きを与えている「せまりて」は、二次元の世界を三次元の世界に変える3D効果と同じであると、現代的な視点で読んでいる。
 栗林浩氏と坂本登氏は、長嶺千晶句集『白い崖』を丁寧に鑑賞している。
 他にも、「英語版『奥の細道を読む』」の木佐梨乃氏、「俳句の風景」の浜岡紀子氏、「復興の記録」の四宮暁子氏、ミニエッセイの五十嵐孝子氏、伊丹竹野子氏、川村研治氏、それぞれの方が自由にのびのびと、読む者の心を捉えるような文章を書かれていて、一気に読んでしまった。
 
 前述の「原石鼎俳句鑑賞ブログより転載」が気になり、俳誌から離れるが、「『ににん』のWEBサイト」に寄り道をした。開けてみると、新年に入ってからも「原石鼎」の鑑賞文がどんどん追加されている。他にも代表の「喜代子の折々」など、『ににん』の世界に浸れるものが盛り沢山あり、結構な時間を過ごしてしまった。「創刊にあたって」の喜代子代表の、「『ににん』は誌句サロンです。立ち寄ればおいし珈琲がいつも用意されている」というお言葉が改めて蘇ったのである。
 
 同人誌『ににん』は、二〇一一年冬号を「創刊十周年記念号」として発行され、一月には記念祝賀会を催された。記念号には、自分で選んだ小説の舞台を机上で彷徨しながら作句するという、独創的な「物語を詠む」のアンソロジーを掲載している。また、兼題句の「ににん集」は、十五周年まで「火・灯の季語」を集める企画という。その掲示に「(略)追々、その季語を掲載してゆきますが、各人が季節ごとの火・灯がテーマになっている季語を探したり、その行事を追う旅を試みてはいかがでしょうか。」とあった。十周年を超えて、『ににん』はまた新しい挑戦を始めている。ますます楽しみな俳誌である。
 喜代子代表のご健康と『ににん』の更なるご発展をお祈りいたします。

『雲取』2012年2月号 主宰・鈴木太郎

2012年1月19日 木曜日

現代俳句管見       
           筆者  下條杜志子

八月の柱一つが拠り所  「ににん」秋号     岩淵喜代子

ことのほか暑かった昨年の夏だ。この句の八月はそんな極暑を思い出させる。そして、 柱は実物の柱とともに、乗りきるための精神的支えだといえようか。八月という月は年配者には遠いしかし忘れがたい月として記憶されていよう。従ってこの句の柱はさまざまに読める。ある者には信念だったり、ある者には思い出であったり。柱は頑丈な方が良い。    

子規新報第2巻32号  

2012年1月6日 金曜日

俳句雑誌評   筆者 三好万美

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『遊牧』2011年12月号・主宰塩野谷 仁

2012年1月5日 木曜日

俳誌探訪    筆者 高野礼子
 「ににん」  夏号   通巻43号 代表/岩淵喜代子  発行所/埼玉県朝霞市

今号の巻頭頁は、清水哲男氏が「震災詩歌」を執筆。続いて、一誌の特徴である「物語を詠む」のコーナーは、石原慎太郎氏の『人陽の季節』を詠んで二十四句。その作品より。
  
  一撃のボディフックや目雷      伊丹竹野子
  太陽の季節遠のく秋の空

「ににん集」 「(独)一字を詠み込んでの作品)より。

  ジャズピアノ独身行族といふ日焼け   長嶺 千晶
  独活大本鬼も独りになるときか      岩淵喜代子
  なゐ去りて寡独の増えし夏港       辻村 麻乃
  
「さざん集」より
  夏立ちぬ南蛮潰の酢が効いて      平林 恵子
  しゅわしゅわのグラスを透かす夏景色 木佐 梨乃
 
連載評論は、『預言者草田男』を長嶺手品氏、「この世にいなかった俳人』を岩淵代表、『わたしの茂吉ノート』を田中庸介氏、『歩く人・碧梧桐』を正津勉氏と、共に丹念に書かれていて、それぞれの作家の人問的魅力が伝わってくる。その他に、ミニェッセイの「月下独酌」、「吟行燦燦」、「俳句の風最」、「奥の細道を読む」など、中味の濃い充実した内容である。

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