‘喜代子の折々’ カテゴリーのアーカイブ

浮野

2014年11月9日 日曜日

正確には巨大な鯉幟を上げる加須市の「浮野」地域なのだが、面白い名前である。大昔は東京湾はかなりえぐれていて、その一番奥が加須市の現在の浮野のあたりだったらしい。そして東京湾の波打ち際だったこともあって、利根川も荒川も加須市を通過している。

案内をしてくれた落合さんは四本もの川が流れているんですよ、とおっしゃったがあとの二本の川は聞きそびれてしまった。このことからも、浮野という地名が想像されてくるのである。野が浮くなんて全国でもここだけかもしれないが、実際、何十年だか前の大水のときには浮野のあたりがぽっこり浮き上がって、水が引いたらまた元の高さに戻ったという。

加須市は真っ平らな土地のせいが、坂東太郎の異名をもつ利根川がまるで沼のようだった。名物は饂飩だそうで、天皇陛下も寄ったといううどん屋さんで昼食をとった。しこしことした美味しい饂飩だった。

さて午後は「私の好きな俳句」のテーマで講演をした。ここ加須市の毎年恒例の市民俳句大会は同じテーマで講演をしてきているらしい。たしかにこのテーマならそれぞれ中身は違ってくる。私はどんな俳句が好きなのかを原石鼎の句の変化の中で選び出し、その石鼎句と並ぶ人たちの句を紹介するという流れをとった。

ハロウィン

2014年10月31日 金曜日

141031_1205~01 いつもの吟行のメンバーと『二冊の鹿火屋』の出版祝の食事会をして貰ったが思いがけないおまけがついた。レストランの外を通る子供たちはそれぞれお姫様の衣装だったり、魔法使いのようなマントを羽織ったり、明らかにハリーボッターに扮している子もいた。それぞれの南瓜を模った袋を下げており、たぶんお菓子の入れ物なのだろう。今日はハロウィンなのだ。

毎年10月31日に行われるハロウインは、古代ケルト人が起源のお祭りである。秋の収穫を祝いだが、現代では子どもたちが魔女やお化けに仮装して近くの家々を訪れてお菓子をもらったりすることが踏襲されているみたいだ。港が見える丘公園や外人墓地のあるあたり、という土地柄だろう。

周囲の外国人住居でも、みんなそれぞれのハロウインの飾りつけがなされていて、あちらこちらの箒にリボンが施されていた。行事をよく調べると収穫祭と年末と、お盆とを一緒にしたようなお祭りなのだ。家族の霊が蘇って訪れるが、それと同時に悪霊も訪れるというのだから、今日は地獄の釜が開けらるような日なのだ。

榠樝

2014年10月26日 日曜日

141027_0113~01  休日の黒目川の河原には必ず一つ二つのグループのバーべキュウの集いが行われている。家族連れのときもあるし、町内会のような大きな集まりだったり、学生のグループだったり・・・。この土手はいつも和やかな空気に溢れているのに、唯一気にいらないのは、頻繁に草刈をしてしまうので、秋草の乱れた風情を楽しめないことだ。

土手のある部分が毎年刈萱の群生するところがあるのだが、穂が出たなーと思う頃にすっかり刈られてしまう。河原をそんなに隅から隅まで頻繁に刈る必要があるのだろうか。たとえばバーべキュウーなどの場所は草が無い方がいいが、土手の斜面などはいくら草茫々でもいいのではないだろうか。

刈り残されて花をつけた枹杞が実をつけていた。それから帰り道で、ブロック塀の上に榠樝が並べられ「欲しい方はどうぞ」と書いてあったので一つ頂いてきた。しばらく机の端に置いておくことにした。

拙書『二冊の鹿火屋 -- 原石鼎の憧憬』がようやくそれぞれの手元に送られたようである。面白くもない本で、貰った人は困っているかもしれないが、『頂上の石鼎』とセットになるべき本だとは思っている。この本のカバーはににんの仲間の尾崎淳子さんの画を使わせていただいた。とても重厚なカバーになった。

句集祝賀会

2014年10月12日 日曜日

台風の予報ばかり繰り返すのを聞きながら、前橋で行われる宮本郁江さんと牧野洋子さんの句集祝賀会に出かけた。たった10人の会員で全部の式次第の準備をするのは大変だっただろうと思いながら、しかし、20年の歳月の集積によいけじめになると思った。

さいわい東京から「文学の森」と「東京四季出版」の方も馳せ参じてくださったので、句集のお祝いにふさわしい集いが行われた。

IMG_20141014_0002        IMG_20141014_0001

今回は、どちらの絵もお仲間の尾崎淳子さんの画を使わせていただいた。わたしは、本作りは表紙にも拘りたいたいとかねがね思っている。そういう意味でも出版社さんにも頑張っていただいた。

同じテーブルに煥乎堂書店の社長代理で専務さんがお見えになったが、「今日は芭蕉忌ですよね。俳人なのであえて選んだのかと思いました」と発言なさって吃驚。なんだか芭蕉忌・時雨忌・冬という順序で覚え込んでいたので、全然芭蕉にまでは意識が及ばなかったが、旧暦の10月12日が忌日なのだ。さすが書店に従事している方だ。この場にご家族の方たちも参加して頂いて、今までにないアットホームな祝賀会だった。

会のあとは、かねて予定していた前橋文学館に立ち寄った。文学館の前を流れる広瀬川の水の青さにびっくり。この日は祭りが行われていて、文学館の窓から山車が見えた。

月蝕

2014年10月9日 木曜日

torino昨夜は居ながらにして、真正面に月の欠けてゆくのが良く見えた。それでも、窓よりは直に外気の中で月を見ようと思ってぶらついてみた。カメラ、と言っても携帯のそれに納めてみたが、肉眼では半分しかないのに、カメラの月は丸いのだ。ぼけているのだろう。

以前のガラ系の携帯カメラではしっかり月の輪郭が映ったのにアイホーンのカメラ性能は良くない。ここでも、以前の携帯性能を越えないので、高い電話料を払っている意味がない。それにしても、今年もあと二か月半ということになる。

今日の夕方、買い物帰りの朝霞台駅でバスを待っていたら、至る所の電線に椋鳥がいっぱい。あのまま夜も電線で眠るつもりなのか、ときどき一斉に電線を離れては、また元の位置に落ち着くのだった。今夜も月がまんまるだ。

曼珠沙華が満開

2014年9月18日 木曜日

梅が一か月遅れで咲いた記憶はあるが、曼珠沙華は毎年お彼岸に合わせて咲くから不思議だ。

曼珠沙華(20)  今年もやはり彼岸に間に合うように咲いた。鎌倉の路地の塀際で、ことに満開の曼珠沙華に出会った。真黒な揚羽蝶が曼珠沙華の花から花へ移って蜜を吸っていたが、その吸うときの力み方が目を引く。花に顔を埋めるたびに後羽が激しく振れるので、「そんなに大げさに吸うの」と思わず声をかけたら別の花に移っていった。

『蝶の舌』という映画をみたことがある。1936年、スペイン内戦が背景にある映画で、転校生の少年と担任の教師の信頼を深めていく過程に魅せられた。子供はいつも愛してくれる人を好きになるのだ。

蝶の口は管状になっていて蜜を吸うときはそれをのばして花の中へ差し込むというのはその映画で知った。だから、揚羽蝶が顔を花に埋めるたびにその管を花の奥深く差し込んでいるんだなーとおもうのだが、それだけではない。蜜を吸いこむたびに後羽を激しく振る。というより、後羽を風車のように回しているように見えた。

映画の中では、少年の住む片田舎にもファシストの勢力が及んできて、共和党の先生が捕えられていく。村人は保身のために知らないふりを子供にも強いていた。少年が最後のシーンで叫ぶのが「蝶の舌」なのだ。先生にはそれだけで伝わるのだ。

校了

2014年9月17日 水曜日

今日は「ににん」と拙書「二冊の鹿火屋」の校了だ。両方を同時に郵便局に預けてきた。しばらく、旅行のことなど考えたい。とりあえずは10月初めは二泊三日の法事をかねた旅がある。心置きなく出かけられるのは下旬かな。

と、なんとなく体を緩めていたら、出版社で書斎拝見の企画を、と言ってきた。えっと吃驚。有難いお話だが、何たって私の書斎は小さいだけではない。大きめの机の上がパソコンを残してすぐに山になるのだ。パソコンが勝手に撮った私の顔の後ろの窓には、一応レースのカーテンなどが掛かっているが、そこには、締め切りだの、行かなければならない予定の案内などが、あるいは支払書が洗濯ばさみで止めてあるのだ。そうして横には、整理の仕様のない本が雑然と並んでいる。

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過ってこの横の書架には、石鼎の資料が上から下まで全部詰まっていた。その資料のすべてをデーター化して今は、アイパットの中で見ている。なのになぜか、やはり以前と同じ様に上から下まで雑然と本が詰まってしまった。ほとんどの本を別の部屋におくので、ここは、ちょっと調べるときの資料的なものしかないのだが・・・。
一度、この雑然としたものを片付けたことがあるのだが、片づけるというのは捨てることみたいになってしまって、困ったことがあった。まー、今回は「すぐには・・」と保留にしていただいた。

 

満月

2014年9月9日 火曜日

先週のににん句会を見学しに来たフランスの女性が、帰りに一人でドトールによって、俳句を作ってみたというメールを頂いた。なんだか、非常に恥ずかしがっているような感じだ。当日の句会の場でも、会話は少しも滞らないし、受け取ったメールも日本人と変わらない文章である。

それでも、馴染のない句会の場で緊張していたのかもしれない。俳句は外国でもハイクと言うので、日本独特の文化なのである。私たちには何でもない句会の場は見知らぬ世界だったに違いない。

確かに、私もカルチャーで俳句講座を受け、一年後くらいに鹿火屋の句会に参加した時には、緊張してしまって何だか金縛りにあったように体が動かなかった。目の前に置かれたお茶を飲もうとして茶碗を口に近付けるのだが、口まで茶碗が運べないのだ。首が硬直して茶碗に近付かないような感じだった。手の茶碗をさり気なく下に置いては、また茶碗を手に取ってみるのだった。

そんな緊張感が何か月も続いた。他所の国、そして自国にはない文化の世界、という複数のハードルを越えるのはきっと大変なのだ。今夜は満月。窓から真正面に月が出ていた。

真夏の夜

2014年7月21日 月曜日

歌舞伎座のチケットが自在に買える伝手を得てから、毎月娘が歌舞伎を観に仙台からやってくる。しかも、一回目にかぶりつきの席の醍醐味を味わっていたので、二度目の二等席はなんだか物足らないらしい。

今月はやはりかぶりつきの席を手配した。久しぶりに夜の舞台を観た。悪太郎・修善寺物語、それと天守物語。泉鏡花の天守物語は玉三郎の独壇場なのだろう。シネマ歌舞伎でも自らの演出だった。今回もシネマ歌舞伎と同じ玉三郎と海老蔵の珠玉のコンビ。二人のカーテンコールが一度ならず行われた。まさに歌舞伎は芝居ではなく役者を観にゆくものなのだ。

それから夜の銀座で、娘夫婦と終電までの食事時間を過ごしたが、このときの話題があまりに面白くて歌舞伎を忘れてしまうほどだった。何故か我が家のトイレに毎年カレンダーが貼られる。そのカレンダーに予定を入れるのは夫だった。予定のすべては夫が自分のために書き込んでいるのである。当然トイレに入るたびに、誰もがカレンダーの予定表に目がゆくかもしれない。

我が家を訪れる娘夫婦も孫たちも、トイレに入るたびに、そのカレンダーへ自ずと視線がいったようだ。そこには夫の予定、病院だとかゴルフだとか書いてあるわけだが、そこに一つだけ異質の記入として、7月22日に丸が付けられ(ちなつ)と書き込んである。我が家の娘の誕生日なのである。

それは何年も続いていたのだ。たぶん娘の連れ合いは娘の実家で予定表に唯一誕生日が加えられていることに、義父の娘への想いを感じていたかもしれない。孫たちはじーちゃんが予定表に祖母でもなく孫でもなく娘すなわち自分たちの母親の誕生日だけを書き込む気持ちを思いやっていたらしい。

毎年毎年、もしかしたら今年は自分たちの誕生日にも丸が付くかもしれないという期待をしたかもしれない。まして娘の長女は結婚して子供を産んだ時には、じーちゃんが曾孫の誕生日に○が付けるのではないかという期待をしたのではないだろうか。

ある日、そのことが娘の家で話題になったようだ。一斉に「見てる」という風な頷き方をしたらしい。そうして、孫たちがやはりママはじいちゃんにとって別格なんだね、としみじみ結論付けたそうである。その直後にそのママ、すなわち娘が「あら、わたしが付けているのよ」と言ったとか。

その途端に唖然として、爆笑になったのを想像して、わたしも笑いが止まらなかった。わたしは娘が自分で○をつけているとはじめから思っていたので、何も感じなかったが、毎年毎年、我が家に来るたびにまた書いてあると意識を寄せれば、夫の娘への想いを想像してしまうだろう。カレンダーには、ゴルフ場で配られる小さな鉛筆が「書き込め」とばかりに挟んであるのだ。

台風一過

2014年7月11日 金曜日

台風8号は鹿児島・和歌山と爪痕を残しながら東京周辺はあっさりやり過ごしてくれた。朝から気温が高く、この夏一番の暑さに感じられたが、それでも今日の予定には支障が起きないでよかった。

恩師が聴講せよというので日本出版クラブに出かけた。明治書院の方たちが事務局を受け持っているのは、教師だったころ国語参考書、あるいは国語の指導書などが手掛けていたときの繋がりなのだろう。それに、古い友人たちが世話人となっていた。勿論、そうした人たちも米寿を迎える師に近い年齢ではないかと思う。

そのなかの一人の家が日曜日の7チャンネル夜八時に放映されるという。明日の番組表をみると、「 日曜ビッグバラエティ「自慢の我が家へようこそ」とある。「日本のスゴイ家」としてーー豪邸&珍邸&狭小9軒(1)都内7坪三角ハウス(2)電車で暮らす家族・豪華ホテル風洋館VS露天風呂付き和風御殿 ほかーーとあるから、この中の豪邸の類のようだ。それに、以前某新聞の時評を受け持っていた人など多彩だ。

「さきもりを守る会」という団体の方も来ていた。「さきもり」って「防人」のこと。集まればいろんな人がいる。先生のお話は、今日も終戦前後のご自分の戦争体験、呉の海軍兵学校の学舎から眺めた原子爆弾の閃光のことから始まった。その茸雲をみたときも、どこかにマグネシュウムの工場があって、そこに爆弾が落されたのだろう、と思ったという。たしかに、それまで原子爆弾などというものの認識は世に無かったのだ。

開戦の意見は陸軍と海軍では一致していなかったという。海軍は二年以上の戦争が続いたときには自信が持てない、という予想だったが陸軍はそれを退けたらしい。それにしても、昭和の初めころに生れた人は、何故かお元気だ。この恩師同様、石鼎の麻布の家探索にお付き合いして下さった荒潤三さん、それから吉行淳之介文学館で出会った宮城まり子さん、みな同じ年代である。

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