真夏の夜

歌舞伎座のチケットが自在に買える伝手を得てから、毎月娘が歌舞伎を観に仙台からやってくる。しかも、一回目にかぶりつきの席の醍醐味を味わっていたので、二度目の二等席はなんだか物足らないらしい。

今月はやはりかぶりつきの席を手配した。久しぶりに夜の舞台を観た。悪太郎・修善寺物語、それと天守物語。泉鏡花の天守物語は玉三郎の独壇場なのだろう。シネマ歌舞伎でも自らの演出だった。今回もシネマ歌舞伎と同じ玉三郎と海老蔵の珠玉のコンビ。二人のカーテンコールが一度ならず行われた。まさに歌舞伎は芝居ではなく役者を観にゆくものなのだ。

それから夜の銀座で、娘夫婦と終電までの食事時間を過ごしたが、このときの話題があまりに面白くて歌舞伎を忘れてしまうほどだった。何故か我が家のトイレに毎年カレンダーが貼られる。そのカレンダーに予定を入れるのは夫だった。予定のすべては夫が自分のために書き込んでいるのである。当然トイレに入るたびに、誰もがカレンダーの予定表に目がゆくかもしれない。

我が家を訪れる娘夫婦も孫たちも、トイレに入るたびに、そのカレンダーへ自ずと視線がいったようだ。そこには夫の予定、病院だとかゴルフだとか書いてあるわけだが、そこに一つだけ異質の記入として、7月22日に丸が付けられ(ちなつ)と書き込んである。我が家の娘の誕生日なのである。

それは何年も続いていたのだ。たぶん娘の連れ合いは娘の実家で予定表に唯一誕生日が加えられていることに、義父の娘への想いを感じていたかもしれない。孫たちはじーちゃんが予定表に祖母でもなく孫でもなく娘すなわち自分たちの母親の誕生日だけを書き込む気持ちを思いやっていたらしい。

毎年毎年、もしかしたら今年は自分たちの誕生日にも丸が付くかもしれないという期待をしたかもしれない。まして娘の長女は結婚して子供を産んだ時には、じーちゃんが曾孫の誕生日に○が付けるのではないかという期待をしたのではないだろうか。

ある日、そのことが娘の家で話題になったようだ。一斉に「見てる」という風な頷き方をしたらしい。そうして、孫たちがやはりママはじいちゃんにとって別格なんだね、としみじみ結論付けたそうである。その直後にそのママ、すなわち娘が「あら、わたしが付けているのよ」と言ったとか。

その途端に唖然として、爆笑になったのを想像して、わたしも笑いが止まらなかった。わたしは娘が自分で○をつけているとはじめから思っていたので、何も感じなかったが、毎年毎年、我が家に来るたびにまた書いてあると意識を寄せれば、夫の娘への想いを想像してしまうだろう。カレンダーには、ゴルフ場で配られる小さな鉛筆が「書き込め」とばかりに挟んであるのだ。

コメント / トラックバック2件

  1. 谷 雅子 より:

    ちなつさん最高!!
    他の人が書きこまないというのも、すごく面白いですねー。
    あ、ほかの方々は書いちゃいけないと思ってらっしゃるんですかね。

  2. こんなことも人生の誤解の発端になるかもしれませんねー。(笑)

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