昨日の土筆

2017年3月25日

170325_0845~01  昨夜は、灯の下で土筆のハカマを取り除き、それを湯掻いて鮨酢で漬け込んでみた。
意外な鮮やかさを見せて、朝食の卓上を彩っていた。

雑誌もとどくかもしれないので、不足の封筒を買ってきて、また灯の下でラベル貼りをした。昨日の土筆のハカマ取りも今日の封筒の宛名貼りも、なんとなくオママゴトめいている。

ににんの封筒を透明な袋にしてからは、発送の手間が半減した。それよりなにより封筒の価格の安価なのが有難い。

雑誌を発行するにあたって、おのずと必要な最低費用というものがある。ににんも30人くらいになった時にようやく同人費ですべてをまかなうことが出来るようになった。現在は雑誌社への広告代金なども、その会費の中で賄われている。

土筆が一気に

2017年3月24日

170324_1949~01 郵便局へゆく道すがら土筆を見つけた。一本みつけると次々と見つかるものだ。 やっぱり春が来た。

足の親指を骨折したことをブログで公開してしまったので、あちらこちらへご心配をおかけしてしまったが、3回目のレントゲン検査で、ズレる心配もなくなったので、あとは骨の修復を待つだけになった。

さすが、吟行の予定はすべてキャンセルしたが、それ以外の予定はいつも通りのままにこなした。親指を庇って歩くのは、思わぬ疲れ方をするものだ。何度マッサージに通ったことか。

明日あたりは「ににん」66号が印刷から上がってくるらしい。今回から今までのクロネコをやめて佐川宅急便になるというお知らせも届いている。大和運輸が一箱千円ほどの値上げをするらしい。

三日月に吊しておきぬ唐辛子   岩淵喜代子

2017年3月14日

「遠矢」4月号
現代俳句月評  筆者・景山 薫

「俳句」12月号「子規忌」より。 夜窓のカーテンを閉めるときの景ではあるまいか。凡人なら乾かしている唐辛子の乾き具合にしか目がゆかず、それを確かめただけで窓を閉めたであろう。しかし作者は違った。目線を上げ、くっきりとした三日月を見つけた。

白い三日月と真っ赤な唐辛子。この二つをドッキングさせるため、三日月を鉤に見立てた作者の炯眼。童話の一シーンになるようなメルヘンチツクな一句。

ににん66号入稿

2017年3月9日

やっと本日無事に66号の入稿が済んだ。

その忙しさのためでもないのだが、一週間前の家の中で転倒して足の親指を骨折してしまった。別に急いだいたわけでもない。通り過ぎながら戸の開いているのに気がついて部屋に入ろうとしたら、ものすごい勢いで部屋の中に倒れこんでしまったのだ。

履いていたスリッパが脱げないで、敷居の段差を滑ったような気がする。そこで勢いがついたようだ。倒れこんだときも、「何なの、この衝撃は」、と思うほどだった。

病院で、ドクターの言うには結構複雑だよという。それで、ギブスで松葉杖をつくような成り行きになりそうだった。それを、頑強に断って隣の指を支えにしてテープで固定してもらうことになった。「来週必ずいらっしゃいよ」とドクター言った。さらに「ズレていたら手術だよ」という声が追いかけてきた。

さすが吟行は断ったが、それ以外の仕事は足を庇いながら一週間を過ごした。ズレていないように、と願いながら病院へ行った。またレントゲンを撮られた。その結果、少し亀裂の一部が薄くなっていて修復され始めていたらしい。なんといっても、ズレなかったのは良かった。

入稿も済んでいたので、晴れ晴れとした気分で病院を出た。66号と言えば季刊の「ににん」にとっては16年半が経ったことになる。20周年もあっという間に来そうである。

2017年受贈著

2017年3月9日

2017年受贈書籍

小川軽舟・『俳句と暮らす』          2016年     中公新書
島田牙城・『俳句の背骨』           2017年     邑書林
大崎紀夫・『nの方舟』ーー大人の童話     2017年     ウエップ

 

義仲寺の前通りゆく蜆売  浅井陽子

2017年2月27日

「自註現代俳句シリーズ・12期11  『浅井陽子集』より   2017年  俳人協会」より

滋賀県大津にある義仲寺といえば、木曽義仲の葬られている寺である。そのうえ芭蕉の墓もある。そう聞くと立派な寺を想像してしまうが、まことに小さな墓所である。

蜆売りの声がまともに寺社を筒抜けに通り過ぎていくのが想像される。ほかに(卒業歌聞こゆる島の港かな)(サングラス外して鳥を見失ふ)(新涼の机に貝の砂こぼす)など、風土の匂いのする一集である。

まるまるとゆさゆさとゐて毛虫かな  ふけとしこ

2017年2月27日

ふけとしこ著「俳句とエッセイ『ヨットと横顔』」2017年  創風社出版より

植物に詳しいというより植物や小さな生き物に、ことに興味を持っている俳人として印象を持っている。(まるまると)に続く(ゆさゆさと)で、毛虫と等身大になった作者が見えてくる。

ふけとしこ氏は「ほたる通信」というはがきの通信紙を発行して、俳句とエッセイを発表している。ここには、必ず手に取って、必ず読んでしまうという仕掛けがある。ほかに、(言い忘れすことばのやうに幹の花)(霜解けの始まつてゐる朝ごはんおとうとをタマト畑に忘れきし)(遠く見るものにヨットと横顔と)などの作品がある。

一切皆空もくもくと毛虫ゆく    岩淵喜代子

2017年2月17日

『ランブル』2月号

現代俳句鑑賞62   筆者 今野好江

『俳句』十二月号 「子規忌」より
上田五千石の『俳句塾』の中に季語に関する一文がある。「季語にはなるべくして季語になった事由がある。歌人、連歌師、俳諧師、俳人の審美眼によって汎く平俗の言葉の中から採取、且つ培養、育成、愛用されて日本の歴史の永く深い時の鍛冶(たんや)を経て結晶化した詩語であることの尊厳をこそ思うべきである。――――」

筆者自身、初学の頃、蚤、民、芋虫、軸蜒、ごきぶりに至るまで季語であることに驚愕した。やがて毒性もあり、人を刺す嫌われ者のたとえにもなる〈毛虫〉でさえ、愛情とまではいかないが普通に見ることが出来るようになった。〈一切皆空〉とは仏教語であり、あらゆる現象や存在
は実体をもたず空であるという言葉である。これは心の迷いを去って真理を会得ことなのかも知れない。悟りきれない人間には、〈もくもくと〉ゆく毛虫を少し羨ましいと思っている。同時掲載に
三日月に吊しておきぬ唐辛子

正面にイエス小さし卒業歌    黒澤あき緒

2017年2月9日

「句集『5コース』2017年 邑書林」より  帯文・小川軽舟 非常にシンプルな切り取り方をした作品である。シンプルではあるが、イエスの像か絵画かが正面にあるのだとすれば、カトリック系の学校なのだろう。讃美歌も歌い慣れていて、荘厳な空気が伝わってくる。 他に(宝石に小さき値札春霙)(風花の音とも覚ゆ炭手前)(薯食うて鼻が大きくなりにけり)など。繊細な切り取り方と大胆な切り取り方がある。岩淵喜代子

芋虫に手があり一心不乱なり   岩淵喜代子

2017年2月7日

『饗宴』3月号    現代俳句の窓
筆者・中村克子

芋虫は蝶や蛾などの燐翅目の昆虫の幼虫類全般を指していう。キャベツなどを食い荒らす青虫も芋虫の一種だという。我が家の無農薬菜園にも芋虫がのさばている。ことに青虫が多く、毎日が青虫との闘いである。

芋虫に足が3対6本あるとは言われているが、手があることは知らなかった。イモの葉やキャベツなどを食い荒らす害虫も、自分の命を守るために一生懸命である。”一心不乱なり”にどこか憎めない面白さがある。
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『燎』2月号   現代俳句展望
筆者・蔵多得三郎

「俳句」12月号「特別作品21句 子規忌」より
掲句、何だか自分のことを言われているような気がする。よく見ると芋虫は芋虫なりに一生懸命に手足を動かして這っている姿があまりにも一心不乱でつい笑ってしまうのだが、よく考えてみるとひょっとしてこれは自分自身の姿そのものではないかと思えてくる。「一心不乱なり」の措辞に生真面目な可笑しさがある。

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