岩淵喜代子第五句集『白雁』 2012年4月

2012年5月13日

burogunoMG

句集が出来上がって一ヶ月余になった。いつもそうだが本を出すと言うのは疲れるものである。心が空っぽになったような虚脱感も加わって何も手に着かなかった。出版社から個々への発送は済んでいたのだが、まだ漏れがたくさんあるのを承知しながらなかなか片付かないでいる。もう今から送ったら、余ったから送っているようにも思われてしまいそうだ。

でもでも、やらねばならいと思っていたら上記のような記事が朝日新聞五月六日の文芸欄にありましたと教えてくれる人がいた。検索してみると他にもあった。お礼を込めて、ここに紹介させて頂く。
栗林浩さんののブログ
百瀬七生子さんブログの「海辺の歳時記」
藍生会員五十嵐秀彦氏
角川出版
ブログ「spica」評者江度華子氏

ipad その5

2012年5月10日

貰い受けたり買ったりした古い「鹿火屋」が300冊くらいある。連続していないのもあるが、大正12、3年のもある。それらを見終わったら図書館にでも寄付しようかと思っていたが、まだまだ全部は読み切っていない。というのは、あまりに紙の劣化が凄くて頁を開くたびにぼろぼろ綴じ目が開いてしまうので、読む時には心しなければいけないからだ。まるで落葉のように頁を開くたびに傷んでいくような気がする。ipadはこれらをスキャンしてどこででも見られるようにしたいと思ったからである。基本的には断裁してしまって跡形もなくなるわけで迷ったのだが、初期の50冊だけスキャンしてipad に入れた。

このデーターをクラウドにでも預ければ誰でも閲覧できることになる。今に仮想図書館が出来るだろう。すべての本を自宅で閲覧することが出来れば、大きな図書館も要らなくなる。初期の鹿火屋をデーター化したので、あとは迷うことなくスキャンして貰おうと思っている。しかし、このデーター化も冊数があると馬鹿にならない金額になる。それで、スキャンして貰う会社をいろいろ見渡したが、今までの利用した三箇所の会社よりも安い所もある。また、いくつかお試しで発中してみようと思う。

スキャンしたデーターの便利さは、文字検索が出来ること。情報を入れるとその箇所を提示してくれること。パソコンで行う検索機能と同じであるが、優れているのは頁を全部表示してくれることだ。確かにどこかに書いてあった思うようなことも、文字検索で探し出すことが出来る。石鼎全句集はすでにipad に入れてある。必要な句を探しだすのは簡単になった。

原発稼働ゼロとなる

2012年5月6日

現在日本には原子力発電機は50機あるようだ。そのすべてが現在稼働中止になっている。休止の理由は個々の場所でちがうのだが、全体に共通している理由は、福島原発事故から起因している。とにかく、原発を使わなくても生きていけるのである。とにかく、ここで、原発禁止にするという国の方針が欲しい。

なぜ禁止にできないのか。必要だから、という答えになるのだが、必要なら危険でもいいという論理は成り立たない。国が禁止を決めてくれれば、それなりに電気事業が別の方法で始まる筈だ。現在その政府の方針が原発ゼロを掲げないために本来なら活発に起こる筈の電力開発が低迷なのだと思う。今日の原発稼働ゼロ日を記念日に電力を得る方法を根底から考え直して欲しい。取りあえず、原発禁止を掲げる政治家にこれからは一票を入れることにする。今の日本のもっとも大きな問題である原発について触れない、主張しない政治家などは、政治家の資格無しである。

今思えば東海原子力発電所のことだったと思うが、電力会社が見学会を行ったことがある。東海原発までいったのかどうかは定かではない。当時、原子力発電というものについての認識が余りにも無知であった。ただ、そこで、使いきった原発廃棄物をどこかに保管していることを説明していた。そこだけが妙に心に残っていたのは、年月の蓄積で、その原発廃棄物もどんどん増えてくということが気になっていた。電力会社は多分安全に保管されているからと言いたかったのだと思うが、安全である保管場所もひょっとして安全ではなくなる事態もあることである。

廃棄物といえば、毎日出る燃えないゴミ、というのも気になるのである。その量の半端でないのも気になるのである。市はその燃えないゴミを業者に委託しているが、それをどんな風に処理しているのだろうか。

神野紗希句集『光まみれの蜂』 2012年4月 角川書店

2012年5月5日

その句集名と、その装丁がまず魅力的に飛び込んでくる。

   冬の水流れて象の足元へ
 作者の16歳から12年間の現在までを纏めた第一句集。神野紗希の名前はこれまで数え切れないほど眼にも耳にもしていたが、その作品をじっくり読むのは今回がはじめてである。頁を繰っていくと、勉強をしていることがよくわかる。
 例えば「春愁」という季語の据え方、「光年や」の象徴的なことばにぶつける具象的な叙述に、生死感にと、大方の先達の方法論を駆使してきたと思える。

 考えて見れは、誰もが先達の方法論を真似ながら作りだす。だが、そのあと呆然と立ち尽くしてしまうのは、殆どのことは言いつくされていて、いったい何を詠めばいいのだろうと思うからだ。「まだまだあるよ」と言える人は幸せである。

 冒頭の一句には永遠性を感じる。水が飼育係が撒いたものか、あるいは水飲み場からあふれたものなのか、あるいは、アフリカの原野を貫く冬の水なのか、一筋の水流を象の足元に捉えたところで、意志のような存在感が生れた。

起立礼着席青葉風過ぎた
白玉や言わねばならぬことひとつ
寂しいと言い私を蔦にせよ
春愁や葉書もバスタブも四角
ライオンの子にはじめての雪降れり
光年や欅の傍の息白し
蝶ひとつ表と裏のように飛ぶ
ひとところ金魚巨眼となりて過ぐ
なぐさめのつもりか金魚ひるがえる
数えるのはやめて見ている石鹸玉
たばこ屋の奥のテレビが瀧映す
人類以後コインロッカーに降る雪
食べて寝ていつか死ぬ象冬青空
スカートの一人遅れて夏野ゆく

「轍」 2012年5・6月号発行人大関靖博 編集人大橋俊彦

2012年5月5日

俳 誌 探 訪    筆者大塚隆右
      
「ににん」2012年冬号より
                          
  ほとぼりのやうに残りし冬の菊   岩淵喜代子
 「ににん」の代表である岩淵喜代子氏の作。歳時記の既述では冬菊と言えば、冬になっても残っている菊と、冬に咲く菊の二通りがあるようだが、ここはやはり前者であろう。なんと言っても「ほとぼり」という言葉遣いに惹かれた。花盛りの頃の印象が、いまなお余熱のように続いているさまを言っているのだが、措辞の巧みさに感心させられる句である。

  燈火親し命ながらへ栗を食む   西田もとつぐ
 病が小康を得たころの句であろうか。燈火親しむといえば読書や音楽鑑賞などのイメージがあるが、作者は重い病の後とあって、まだそのようなゆとりの境地には至らないまでも、栗を食べてみようかという気持ちになれるところまでたどり着いた。控えめな表現であればこそ、安堵感や喜びというものが充分伝わってくる。

  打ち上げ大花火飽きる間もなく上がりけり  及川 希子
 打ち上が花火の種類というのも無数にあるわけではなく、幾通りかが交互に現れる仕組みになっている。とすればしばらく見ているうちに飽きがくるのでは、と思われるのだが、尺玉の大きなものが次々に打ち上げられ、大音響とともに作裂する迫力を楽しんでいると、時間のたつのを忘れてしまうようだという、臨場感が伝わってくる。

  ストーブのとろ火に溶けて眠る午後 木佐 梨乃
とろ火と聞けば即座に料理で使われるが、とろ火で三十分と煮込む、などの言葉が思い付されるが、ストーブに程よく暖められた部屋で、午後のひと時うつらうつらとまどろんでいる時の、なんともいえない心地よさを、自身がとろ火に溶けているようだと表現する、厨俳句ではないものの、男には及びもつかない発想の句である。

  火祭りのあとの鞍馬の星の数    武井 伸子
 昔から映画の時代劇などで鞍馬の火祭は、日本人にとってなじみの深い名前ではなかろうか。ここで作者は主役の火祭りには触れず、宴のあととも言える祭りのあとの闇の深さと、それゆえに一層際立つ無数の星の輝きのことを言っている。あかあかと燃え盛る炎の残像があってこその、星のまたたきの神秘さが、あざやかな対比として提示されている。

  背なの子のいつしか眠る遠花火   宮本 郁江
 飽きる間もない大花火と異なにり、ここでは遠花火である。高い階のマンションの部屋から見ていると、夏場の土日には遠くの花火がよく見える。おおむね間隔が長く音も聞こえないことが多い。作者もそのような花火を背中の子と一緒に見ていたが、とうとう眠ってしまったようだ。子供にとってはあまり刺激的でない遠花火の静かさ、間遠さをうまく表した句である。

  賤ケ岳鴨の陣敷く余呉の湖     宇陀 草子
 日本人にとって賎ヶ岳の名は、やはり秀占と柴田勝家の合戦や、いわゆる七本槍の逸話を伴って記憶されている。とすれば余呉の湖で鴨たちが、勝手に群れをなして泳いでいる様子を見ても、なにやら陣形を敷いての子細ありげな行動のように見えてしまう。想像力の働いた諧謔昧にあふれる句とかっている。

鳴戸奈菜句集『永遠が咲いて』2012年 現代俳句コレクション

2012年4月28日

俳句のみならず文学表現は、日常を非日常にしたところ、あるいは非日常を日常に近づけたところで切り取るものだと思っている。鳴戸さんの俳句にはそれが顕著で楽しい句集だ。

  亀鳴くを待てばいつしか亀となる
  筍の茹で上がるまでひと眠り

一句目は、見方によっては虚構の上に虚構を積み上げたような句である。それにも関わらず納得してしまうのは、語り継がれた「亀鳴く」という季語が輪郭を持っているからである。二句目の「筍の」は、さいごの「ひと眠り」の措辞が「一炊の夢」のような物語性を醸し出して、日常を非日常へ置き換えるからである。

 桐は花明日は伐られて船の上
 女役降ろされ蛇を撫でてをり
 いとけなき蛇をおもちゃの女の子 
 水溜り冬のはじめは春に似る
 冬野より帰れぬ母よさようなら
 老斑の二つ三つが花あやめ
 また春で我家に我に飽きにけり

河野邦子第三句集『急須』 2012年4月  ふらんす堂

2012年4月27日

結社『浮野』の編集に携わってからでも30年と、あとがきにある。その年月の重みが河野氏の俳句の骨法になっている。もう俳句という形もゆるがない。そう思えるのが

ひよどりをあいつと呼んでみたりする
雪渓を母に説明してきたる
朱鷺草のあるはず浮野うかぶはず

「ひよどり」の句の座語の据え方、「雪渓」の叙述の方法、そうして「朱鷺草」の句の把握の間の取り方、すべてに年月の積み重ねを感じる。以下の句にある平常心も見事。改めてその句集名『急須』を想った。

学校のプールに蛇の泳ぎけり
冬帽子役場の門を過ぎて海
白芙蓉この世に未練なきごとく
瀬戸の島買いたきほどの島の数

佐藤郁良第二句集『星の呼吸』  2012年4月 角川書店

2012年4月27日

黒板は濃き森の色十二月
冒頭にトンネルを置く旅始
寒稽古空気の皺をのばりけり
すぐ先の未来を手繰る平泳ぎ
蒲団叩く団地に谷間ありにけり
朧夜の汐入川の匂ひかな
春眠の髯を育ててをりにけり
山々に神のあらそふ青嵐
音もなく日暮を運ぶ蟻の列
ゆきずりの真水のやうな藍浴衣
つまらない街閉じ込めよ石鹸玉
花冷の楽屋出てゆく楽屋口

昭和43年生れの佐藤氏は俳句甲子園育ち、ということも含めて初めから俳壇の話題性を攫っていた。そうして第一句集で俳人協会新人賞も受賞。そういう意味では、才能を十二分に認めて貰えた幸運な作家でもある。俳句生活の最初から俳壇の中に居た、という感じがする。佐藤氏の俳句の上手さの一つは比喩、二番目は感覚のよろしさだろう。

増殖する俳句歳時記

2012年4月22日

 このところ「喜代子の折々」をサボっているのではないの、と言うひとがいた。たしかに更新の頻度が減っていたかもしれない。ほんとうをいうとあまり下らないことを書いてもしかたがない、という自省の思いがあったからである。でも今日は嬉しいことがあったので書きとめておく。

 今日の「増殖する俳句歳時記」に、「にににん」の木津直人さんの句が採用されている。いまさら紹介するまでもない「増殖する俳句歳時記」だが、七人の評者のひとりが交替した。その新しい書き手の小笠原高志が「ににん」春号から見付けだしてくれたのが「雁帰る沖にしづめる剣いくつ  木津直人」である。

評者小笠原さんについては、もうすでにどこかに紹介されたとはおもうのだが、正津勉さんを中心に行われている万愚句会のひとりで爽やかな青年である。すでに俳句評を読んでもわかるように彼の持っている真摯な文学教養を十二分に発揮した文章で楽しみである。

本阿弥書店『俳壇』5月号

2012年4月20日

IMG

トップページ

ににんブログメニュー

HTML convert time: 0.755 sec. Powered by WordPress ME