猛暑

2017年7月20日

どうしても返さなければならない本を抱えているので荷物が重かった。炎天下を5、6分かかる図書館への道中、何故かいつにない疲れを感じて、大丈夫かな、と思ったほどだ。この疲れが続いたら、病院に行ってみなければ、と思いつつ講演を聴きに行った。

しかし、そこで冷房に冷やされているうちに、そのだるさも消えていったので、やはり暑さが影響していたのだと安心したものだ。それから句会があったり、カルチャー講座があったり、吟行があったりして、読書はバスや電車の中でしかできない。前回のブログが6月26日なので、もう一か月近く書かなかったことになる。

やっと落ち着いた、というわけではないが、外出の時間に一時間ほどの余裕があったので、書けるだけ書いて置こうと思い立った。この書くという仕事は、無限に時間を奪っていくものなのである。

小説ではないが、そのプロットに悩んでいる最中だったので、昨日はバスを何回も降り損なってしまう。降りるべきところで降りなかったので、次で降りようと意識したが、また頭の中で、プロローグは違う方がいいかも、なんて一瞬おもったら、もう停留場が過ぎていた。仕方がない、駅の一つ手前で降りて銀行の用事を済ませて帰ろうなどと思っているうちに終点まで乗ってしまった。この暑さのせいもあるかもしれない。

緑蔭

2017年6月29日

朝霞     駅前広場にこんもりと緑蔭を作っている樹はなんの木なのか。暑くなったこのごろは、緑を見るだけで涼しくなる。それなのに、なんとやっと緑蔭が整った木の枝をばさばさと落としてゆく。写真の右側も同じ樹木であるが、多分今日中に緑を刈り取ってしまうのだろう。

その意図がよくわからない。ここだけではない。なぜか丁度緑蔭を作り始めた街路樹も、みんな棒のようになっていく。これじゃー街路樹を植えた意味もないと思うのだが。

今年の紫陽花

2017年6月20日

20170619_122600今年は青ばかり、それも極めて濃い藍色。
私の身丈くらいの高さに咲いているので、剪ってきて部屋で楽しむことにした。
このところ、筑摩書房の『高校生のための批評入門』を読んでいる。以前は単行本だったが文庫本になったものを手にした。エッセイだったり小説だったり対話だったり、著者も必ずしも文学者ではないが面白い。後書きを読むとこの本が生まれたエピソードが書いてあって、それが殊に面白いドラマになっていた。

編集したのは、詩人梅田卓夫・プルーストの研究者服部左右一・『海賊の唄がきこえる』の著書を持つ松川由博・文芸評論家清水良典の四人である。こう書くと偉い編集人たちによって編まれたものと思われがちだが、この『高校生のために批評入門』は四半世紀前に発刊されたもの。しかも、その編者たちは、愛知県小牧工業高校に勤務する同僚としての四人だった。筑摩書房の熊沢敏之氏はこの四人がその地域に集まっていたのは奇跡だった、と書いている。

これには、同じ編者の『高校生のための文章読本』『高校生のための小説案内』があって三部作となっているらしい。

大空へ駆けだしてゆく小鳥かな   川村研治

2017年6月14日

(空へ駆けだす)は特異な表現にも見えながら、たしかに突然飛び立つ小鳥の飛翔を言い得た措辞である。自分の感覚を信じなければ詠めない叙法である。 川村研治第二句集『ぴあにしも』 現代俳句の展開Ⅲ-5 現代俳句協会刊より。

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句集は昭和61年から平成25年平成25年まで、約27年分の俳句である。一集にするにはずいぶん割愛した句もあっただろうと思った。一読して、川村研治さんの茫洋とした人柄、そのものがすべて俳句に現れた、という思いを強くした。

ふゆざくらふゆのさなかにちりをへぬ
たんぽぽの絮とぶ中やピアノ来る
青鳩を待つ明るさとなりにけり

事実を淡々と受け止める句というのは、その切り取り方こそが生命である。当たり前なような、このさりげなさが、川村研治さんの茫洋俳句の底辺である。

火星接近おしろい花の種をとる
冬支度せねば駱駝の瘤ふたつ

前述の三句に詩的意識をさらに加えたときに、こうした句になるような気がする。芭蕉の言う取り合わせである。一句目は(おしろいの種をとる)によって、火星が地球にぶつかってくるような緊迫感を持たせる。それでいて採っているのは花の種である。その可笑しみこそが川村さんの茫洋さなのである。二句目も非常に面白い。冬支度から駱駝の瘤へゆくまでの見えるか見えないような繋がりこそが俳諧なのである。

鳴りいづる鈴を泉に浸すかな
みんみん蝉のみんみんが見えてくる

一句目はまるで鳴り止まない鈴を泉に浸して鎮まらせようとしているようにも思えてくる。虚実皮膜とは、こういう作り方を言うのではないだろうか。それは二句目に言える。みんみん蝉の啼き声が見えてくる、と言われると、さらに存在感をもつ啼き声になる。

花菖蒲 

2017年6月8日

20170608_114656_Burst03  何処へ行っても菖蒲の花盛り。
ことに明治神宮の菖蒲は咲き揃った、という感じで美しかった。
今日まで毎日予定が詰まっていて、そこに「ににん」の編集時期が重なってしまってどうなることかと思った。昨日で、やっと一段落。「ににん」67号のデーターも紙焼き原稿も印刷所に送ってやれやれという感じ。

盆踊果てて手足のただよへる    金子 敦

2017年5月9日

金子 敦句集『音符』 2017年 ふらんす堂より。

盆踊りの踊り手として踊り尽くしたあとの手足の疲れを言いとめている。まだ気分の中では踊りの音楽に合わせて手足が浮遊しているのであろう。それを、「手足がただよへる」とする措辞にしたのは上手い。他に、(本ひらくやうに牡丹の崩れけり)(冴ゆる風まとひて星を売りに来る)(白餡の匂ひのしたる桃の花)など。

日焼けの子骨の形に肉がつく   青木青三郎

2017年5月9日

青木青三郎句集『青』2017年 現代俳句協会より。

日焼け子の骨格を想像しながら、その骨格に肉がついている、とは本来の叙述とは反対の方向からせめている観方である。それが新鮮に聞こええ、日焼け子のますます筋肉質な肢体を感じさせる。他に(おぼろからおぼろ楽屋の非常口)(昭和へは歩いて帰る花みかん)など。

我にも哭けと総立ちの曼珠沙華   川口 襄

2017年5月9日

曼殊沙華の地上から噴き出たような茎の立ち上がりの印象がことばに置き換えられたんの。言われてみれば、あの赤さは慟哭のそれだ。比喩ではあるが、ときにわれわれは、おもいっきり大声を張り上げて、泣いてみたり、怒ってみたいものである。

註現代俳句シリーズ12期19・句集『川口 襄集』2017年 俳人協会
花野ゆく師とともがらと浮雲と
蒼空を砕氷船の戻り来る

 

三宅やよい『鷹女への旅』 2017年  創風社出版

2017年5月4日

「船団」に連載していた鷹女の評伝が上梓された。

第一章、二章は鷹女の生い立ち、俳句遍歴について語っていたが、三章からは句集の一冊ずつを紐解きながら、俳句を辿り、鷹女の背景、鷹女の俳句への取り組み方が語られている。

三章は第一句集『向日葵』を読み解くもの。ここで、鷹女の有名な句、(夏痩せて嫌いなものは嫌いなり)を取り上げながら、鷹女がやりたかったのは自我の主張より従来の俳句表現を破る文体の模索をしていたと洞察している。

さらに『白骨』では、俳人なら誰でも関わる句会の情景を背景におき、『羊歯地獄』では、鷹女が何を表現したかったのかを探っている。句集の作品鑑賞とともにかたる鷹女の背景は三章目から俄かに濃密になる。

そうして『橅(ぶな)』へと続くのだが、新しく参加した同人誌「羊歯」も脱会して、句会も持たない環境の中の句作りの経緯を読みながら、そうした環境の変化も句集ごとの作風の変化に繋がったのかもしれないと思わせる。

この『鷹女への旅』の著者三宅やよいさんは、自己を主張することなく、淡々とさまざまな情報を拾い集めて、作品を様々な角度から紹介している。そうして、それまでの句以上に表現に拘っている鷹女を見極めようとしている。

たてよこに桂信子がいて夏野    松田ひろむ

2017年4月25日

松田ひろむ句集『一日十句』 2017年  第三書館より

説明し難い内容だ。これが、縦横にいるのが烏や友人というなら少しは映像がつくれるのだが、ひとりが、縦横にいるとなると混乱してしまいそうだ。しかし、夏野にたくさんの桂信子が整列でもしている図は、それはそれで何んだかおもしろいではないか。

桂信子はきっと松田氏の憧憬の俳人なのだろう。その思いを映像的にすると、何処にでも桂信子が立っているのである。ほかに鑑賞したい句に以下のような句がある。(空蝉のこわれやすくてこわれゆく)(雪起し墓のなかにも白き壺)

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