直会の取りはづしたる春障子    榎本とし

2017年8月25日

神酒や神饌が供えられて、家の中ではあるがいつもとは違う世界がくりひろげられている。この句は春障子が季語ではあるが、その肝心な障子はみんな取り外されて、宴の隅に重ねられているのだろう。作者は榎本好宏氏の母堂である。

榎本とし句集『筍飯』  2017年    航出版

薇園のはづれは椎の匂ふなり   長嶺千晶

2017年8月24日

見過ごしてしまいそうな何でもない景ともいえる。
それまで薔薇に捉われていた心にふと隙間風が入ったように、椎の匂いが入ってきた。この推移が薔薇園の鮮やかさから、椎の緑樹へと繋がる視覚的な景の裏打ちしていている。他に(蝌蚪に足出て笑いたき日なりけり)(鹿啼くや水にひろがる空のいろ)(母すでに綿虫ならむ暮ゆける)など。

〈現代俳句文庫ーー82『長嶺千晶句集』 2017年 ふらんす堂〉より

極暑

2017年8月8日

20170808_183549_Burst01  一日中、極暑という感じだった。買い物にバスを使うのは、近くのスーパーにいくよりも時間はがかかるのだが、炎天下に荷物を持って歩くのを免れる。

雨粒が顔に当たっていたが帰りのバスに乗り込むと、近くの一棟のビルだけに日が当たっていた。変な天気と思いながら、バスの外を眺めていると今度は虹が見えた。

かなり局部的に、晴れだったり曇りだったり雨だったりしているようだ。今年は豪雨のために幾つもの川が氾濫した。

地震などとは違って規模が小さいのであまり大騒ぎもしていない。しかし、大騒ぎをする暇もなく次の災害が起こっている。今年は何か所の川が氾濫したのだろう。

さてそろそろ「ににん」の原稿が入り始める時期。8月はお盆と重なって、なんだか煩雑になる。受けた原稿は速処理して、収めるところに収める。出すべき返事は後でなどと思うと紛れてしまう。秘書の居る人が羨ましい。

立秋はまだ?

2017年8月2日

20170728_114208_Burst01写真は一週間ほど前の仙台駅で収めたもの。まだ街中には飾っていない。飾られるのは6日の夜あたりかららしい。

立秋は7日の筈だが、今朝の涼しさは秋そのもの。秋風ってどっちから吹くのだったか。毎年のことなのに覚えていない。今朝の風は南の窓から入り込んできた。確かに体が覚えている涼風である。

それでも、今年は相次ぐ豪雨が各地に河川氾濫を起こしている。そんなに水があふれたところがあるにも関わらず、水不測だとか。

さて、今月はににんの編集月、気を引き締めないと終わらない。なんでこんなにいそがしいのだろう。今年は映画を殆ど見ないまま半年過ぎようとしている。

あまり忙しいので、映画を意識的にあきらめていたのだが、五十嵐さんが是非と進めてくれた岩波ホールの「静かなる情熱 エミリ・ディキンスン」 は見てきたい。

今週の予定

2017年7月30日

7月の予「ににん」67号発送

7月3日・ににん定例句会

7月4日・志木カルチャー

7月5日・午後から異類婚テーマの講座受講

7月7日・俳句四季七夕まつり
ににん同人 鈴木まさゑさん最終候補に残って
佳作賞と斎藤真爾賞を受賞。
殺生は父祖に習ひて薬食ひ    鈴木まさゑ

10日・ににん定例句会

11日・奥多摩吟行

12日・ふらんす堂へ句集の打ち合わせ。

14日・みなづき会。 今年は芳賀徹氏の受賞

15日・16日.17日 文学史講座受講

18日・志木カルチャー・荻窪カルチャー

19日・歌舞伎を観にきた娘夫婦と食事

21日・吟行、根岸

22日・煥乎堂句会欠席

23日・吟行

26日・所沢カルチャー

27日・28日仙台の娘の家に

30日・句会秋聲閣

草原に雨の匂ひや蛇の衣   逆井花鏡

2017年7月27日

蛇の衣とは脱皮して残していった蛇の皮なのだが、時に梢などに風に揺れていることがある。どこで出会っても、蛇というだけで不気味さが先立ってしまう。しかし、草原という果てしない背景にしたことで、蛇のぬけがらが淡々と透明感が生まれてくる。生き物の儚さが漂ってくるからだろう。   「句集『万華鏡』2017年     雙峰書房」より

猛暑

2017年7月20日

どうしても返さなければならない本を抱えているので荷物が重かった。炎天下を5、6分かかる図書館への道中、何故かいつにない疲れを感じて、大丈夫かな、と思ったほどだ。この疲れが続いたら、病院に行ってみなければ、と思いつつ講演を聴きに行った。

しかし、そこで冷房に冷やされているうちに、そのだるさも消えていったので、やはり暑さが影響していたのだと安心したものだ。それから句会があったり、カルチャー講座があったり、吟行があったりして、読書はバスや電車の中でしかできない。前回のブログが6月26日なので、もう一か月近く書かなかったことになる。

やっと落ち着いた、というわけではないが、外出の時間に一時間ほどの余裕があったので、書けるだけ書いて置こうと思い立った。この書くという仕事は、無限に時間を奪っていくものなのである。

小説ではないが、そのプロットに悩んでいる最中だったので、昨日はバスを何回も降り損なってしまう。降りるべきところで降りなかったので、次で降りようと意識したが、また頭の中で、プロローグは違う方がいいかも、なんて一瞬おもったら、もう停留場が過ぎていた。仕方がない、駅の一つ手前で降りて銀行の用事を済ませて帰ろうなどと思っているうちに終点まで乗ってしまった。この暑さのせいもあるかもしれない。

緑蔭

2017年6月29日

朝霞     駅前広場にこんもりと緑蔭を作っている樹はなんの木なのか。暑くなったこのごろは、緑を見るだけで涼しくなる。それなのに、なんとやっと緑蔭が整った木の枝をばさばさと落としてゆく。写真の右側も同じ樹木であるが、多分今日中に緑を刈り取ってしまうのだろう。

その意図がよくわからない。ここだけではない。なぜか丁度緑蔭を作り始めた街路樹も、みんな棒のようになっていく。これじゃー街路樹を植えた意味もないと思うのだが。

今年の紫陽花

2017年6月20日

20170619_122600今年は青ばかり、それも極めて濃い藍色。
私の身丈くらいの高さに咲いているので、剪ってきて部屋で楽しむことにした。
このところ、筑摩書房の『高校生のための批評入門』を読んでいる。以前は単行本だったが文庫本になったものを手にした。エッセイだったり小説だったり対話だったり、著者も必ずしも文学者ではないが面白い。後書きを読むとこの本が生まれたエピソードが書いてあって、それが殊に面白いドラマになっていた。

編集したのは、詩人梅田卓夫・プルーストの研究者服部左右一・『海賊の唄がきこえる』の著書を持つ松川由博・文芸評論家清水良典の四人である。こう書くと偉い編集人たちによって編まれたものと思われがちだが、この『高校生のために批評入門』は四半世紀前に発刊されたもの。しかも、その編者たちは、愛知県小牧工業高校に勤務する同僚としての四人だった。筑摩書房の熊沢敏之氏はこの四人がその地域に集まっていたのは奇跡だった、と書いている。

これには、同じ編者の『高校生のための文章読本』『高校生のための小説案内』があって三部作となっているらしい。

大空へ駆けだしてゆく小鳥かな   川村研治

2017年6月14日

(空へ駆けだす)は特異な表現にも見えながら、たしかに突然飛び立つ小鳥の飛翔を言い得た措辞である。自分の感覚を信じなければ詠めない叙法である。 川村研治第二句集『ぴあにしも』 現代俳句の展開Ⅲ-5 現代俳句協会刊より。

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句集は昭和61年から平成25年平成25年まで、約27年分の俳句である。一集にするにはずいぶん割愛した句もあっただろうと思った。一読して、川村研治さんの茫洋とした人柄、そのものがすべて俳句に現れた、という思いを強くした。

ふゆざくらふゆのさなかにちりをへぬ
たんぽぽの絮とぶ中やピアノ来る
青鳩を待つ明るさとなりにけり

事実を淡々と受け止める句というのは、その切り取り方こそが生命である。当たり前なような、このさりげなさが、川村研治さんの茫洋俳句の底辺である。

火星接近おしろい花の種をとる
冬支度せねば駱駝の瘤ふたつ

前述の三句に詩的意識をさらに加えたときに、こうした句になるような気がする。芭蕉の言う取り合わせである。一句目は(おしろいの種をとる)によって、火星が地球にぶつかってくるような緊迫感を持たせる。それでいて採っているのは花の種である。その可笑しみこそが川村さんの茫洋さなのである。二句目も非常に面白い。冬支度から駱駝の瘤へゆくまでの見えるか見えないような繋がりこそが俳諧なのである。

鳴りいづる鈴を泉に浸すかな
みんみん蝉のみんみんが見えてくる

一句目はまるで鳴り止まない鈴を泉に浸して鎮まらせようとしているようにも思えてくる。虚実皮膜とは、こういう作り方を言うのではないだろうか。それは二句目に言える。みんみん蝉の啼き声が見えてくる、と言われると、さらに存在感をもつ啼き声になる。

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