大方の人にとってしゃぼん玉は、夢の象徴のような存在として捉えられていると思う。そうしてそのシャボン玉の行方を追う詩や歌は多い。そのすべてがシャボン玉が弾けたところで終わりになる。しかし、この作者は、そのあとも見届けているのである。(風の色)が独創的である。
(峰崎成規句集『銀河の一滴』 2016年 鳰書房)より
大方の人にとってしゃぼん玉は、夢の象徴のような存在として捉えられていると思う。そうしてそのシャボン玉の行方を追う詩や歌は多い。そのすべてがシャボン玉が弾けたところで終わりになる。しかし、この作者は、そのあとも見届けているのである。(風の色)が独創的である。
(峰崎成規句集『銀河の一滴』 2016年 鳰書房)より
原初人間には尾があったらしい。記紀には、吉野の井氷鹿(いひか)に棲むと名乗り挙げた話が出て来る。否、そんな事実が有っても無くても、作者は尾を涼しい存在として捉えているのだ。
「大木あまり第六句集『遊星』 2016年 ふらんす堂}より。他に(簾して野の匂ひする仏間かな)(パーティーや海の朧を見渡して)(たんぽぽの絮吹かれくる西日かな)など。どの句も遠近・日常と非日常の重なるあたりに視点を置いている。
日常はいちいち理由を掲げないままの行動の積み重で成り立っているのかもしれない。冬の怒涛を見たいと思ったというのでもなく、冬の怒涛の切り岸に引き寄せられたというのとも違う。来てみれば、それで目的が達成したというのでもなく、またもとの道を引き返していく。
雑誌「蘭」を読んでいたことがあった。その中でも和田氏の叙情性は青春性を重ねて、不思議な密度があった。その叙情性が健在な今回の句集「『椿、椿』2016年 ふらんす堂」には懐かしさを感じた。
他に(すれ違ふ少女に蛇の匂ひせり)(五月雨の一夜に錆の湧きにけり)(玄海に椿一輪咲いてをり)(しんしんと空の奥より若葉冷え)(足で足洗ひて秋の澄みゐたり)
など。
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