62号を発送した。今年の表紙絵は数か月前に『藤が丘から』という句画集を出版した山内美代子さんの画を使わせて貰っている。彼女の絵は墨彩画であるから、もっと日本的な雰囲気になるかと思ったが、意外や軽いトーンで墨の暗さに重苦しさがない。
早速読んだ人の感想の中で、装本が豪華で綺麗になり、その上読みやすい、というお言葉を戴いたが、決して前よりお金を余計に支払っているわけではない。豪華にみえれば本望である。もう一つのご指摘は、相変わらず誤植である。これは、なかなか思うようにならない事項である。
白南風は梅雨明けの頃に吹く南風、あるいはそのころの昼間の南風である。その風に鬼瓦が吹かれている、というのが諧謔である。風にはさまざまなものが吹かれていたとは思うのだが、あえてその中のいちばん影響を受けそうにも思えない鬼瓦に焦点を当てている。いや、作者はその鬼瓦そのものに、ただ真正面から向き合っているのだ。そのことを、白南風によって現わしているのである。
成内酔雲句文集『おやぢ』 2016年 文学の森から。他に(竹の秋ストンとしまるドアの音)(人の世の余白にをりし夜の秋)(さりげなく逢うて別るる花八手)など。
編集子は自分の出版する本のための編集子なのか、あるいは自分の月刊雑誌の定期的な編集日だったのか。そろそろ訪れてくるだろな、と思い始めた視野に山梔子の花の白さがことさら感じられた。何気ない取り合わせだが、なぜか編集と山梔子の花が呼応するのである。
(加藤耕子第七句集『空と海』2016年 本阿弥書店)から・他に(茄子に花村に百万 遍会所)(忌を修すほたるぶくろを風に吊り)(汗の身とひとつひかりに空と海)。
今はシュレダーというもがあるが、手紙の類は焼いて処分することも多い。焼かなければならい手紙というふうに捉えると、何やら重々しい気分になるが、あながちそうではないのだろう。溜り過ぎた手紙の類を整理することは、よくあることだ。文殻の火が透きとったと発見するとき、あるいはそういう表現をえらぶとき、作者自身が透き通っていくように感じたのだ。燃えさかる火そのものが透きとおってゆくことと作者が一枚になっている。、
(藤木倶子句集『無礙の空』 2016年 東奥日報社)から。他に(ねん淋代や枯れはまなすと日を領ち)( 飛べさうな風湧く葦の枯れにけり)( 枯るる中己が足音に怯えをり)( 蓮の実を噛んで小暗き森見をり)など。
境野大波第三句集『青葉抄』 2016年 ふらんす堂
ひめぢよをんとは漢字で書いても見知らぬ花のような気がする。大雑把に言えば春紫苑と殆ど混同しそうなくらいよく似ている。どちらにしても中心が黄色で花びらが真っ白な小さな花は可憐である。そんな花に気を取られているうちに、遠回りをしてしまったのである。
境野大波第三句集『青葉抄』 2016年 ふらんす堂)より。他に(白山羊も黒山羊も食む秋の草)(猿山の子猿の拾ふ秋のもの)(秋の蚊の雨情旧居を去りがたく)(ねこじやらしばかりの原となりにけり)。
HTML convert time: 0.887 sec. Powered by WordPress ME