一句に一つの物語を唱和させたような見開きで一作品として完結している。日常のようでいて、いつの間にか非日常へ連れ込まれてしまうのが、魅力的だった。
深雪晴猫を狂はす木も謐か
に挿入されているのは、店で木天蓼の小枝の束が売っていた。隣には瓶詰の木天蓼が目に触れた。それでも猫が狂うのか聞いてみたが、店員は聞いてみますと何処かに行ってしまったまま、待てど暮らせど戻ってきなかった。旅の一瑣事なのだが、その中心にあるのが木天蓼故にこの話は影を作って面白いのだ。
一句に一つの物語を唱和させたような見開きで一作品として完結している。日常のようでいて、いつの間にか非日常へ連れ込まれてしまうのが、魅力的だった。
深雪晴猫を狂はす木も謐か
に挿入されているのは、店で木天蓼の小枝の束が売っていた。隣には瓶詰の木天蓼が目に触れた。それでも猫が狂うのか聞いてみたが、店員は聞いてみますと何処かに行ってしまったまま、待てど暮らせど戻ってきなかった。旅の一瑣事なのだが、その中心にあるのが木天蓼故にこの話は影を作って面白いのだ。
間紙のうすむらさきも雛の頃
杜若水を余白としていたり
玉梓の露けきことを書き出しに
道路鏡に吸いこまれゆく大花野
初時雨暮らしのなかに寺の鐘
青鷹空に従ふ沼の色
句集名「間紙」とは汚れや破損を防ぐために間に挟みこむ紙のことを言うのだそうである。
その主宰誌「いには」は印波という万葉時代から地名。その地に住んで、その地に意識を寄せる諷詠に徹しているように思える。そうした風土を持てることも俳句の力である。
序文黒田杏子
跋 深谷雄大
自転車に青空積んで修司の忌
向日葵の野にからつぽの耳の穴
月照らす机上流砂のごとき文字
彼岸会の海に小さき座敷かな
流星の砕けてふきのたうばかり
降る雪に重たき耳をふたつ持つ
一句目の「青空積んで」という修飾。二句目、三句目断定、四句目の日常と非日常の混在。それから五句目の視点の置き方。六句目の体感覚。極めて多彩な方法論も持ち合わせた作家だと思った。言葉を体感覚で身中に取り込むことのできる俳人として注目したい。
夜の火は近くに見えて山桜
山神も水神も岩朴の花
船虫や叩きて船の錆落す
蛇を提げ来るかと見れば山の芋
月読のひかり氷室の桜咲く
倒木を切りに来てをり年の内
風土、それもほとんどが住んでいる地域を詠んでいる。その風土を構えもなく受け止めて、きわめて明瞭な作品群である。
人ひとり寒い景色の遠いところ
葛湯吹きへこみたるところが昭和
リラ冷えの日光月光菩薩かな
打ちあげられたる満月のうしろがわ
てのひらのくらいところが熱帯夜
地下都市の長い階段なめくじり
象徴的にことばを選んでいるのだが、それがきわめて日常に近い時空、言い換えれば虚実皮膜のバランスの良さによって作者の描く時空が視覚感覚で宜える。
HTML convert time: 0.189 sec. Powered by WordPress ME