筆者・森野 稔
『穀象』岩淵喜代子(朝霞市)
同人誌「ににん」代表の第六句集。「ににん」には個性的な作家が集い、毎号実験的な取り組みがなされていることで注目を集めているが、この句集も極めてユニークである。句集は概ね暦年により編集されることが多いが、この句集はテーマ別に配列されている。しかもそのテーマ自体も曖昧模糊としており、最後まで作者の意図がはっきりしないようになっている。もしかしたらそれが作者の意図かも知れぬ。そうなれば、それにこだわっていても仕方がない。
良い句を選び鑑賞していくしかないと心に決めたが、感銘句がたくさんある。原裕に師事、其の後、川崎展宏に師事という経歴が多彩の顔をもつ作者を見せてくれる。
順番に泉の水を握りたる
中村草田男が幻住庵の芭蕉が使ったという泉に両手を差し入れ、芭蕉の面影を追ったという次の句が想起される。
(諸手さし入れ泉にうなづき水握る 草田男)
恐らく作者も大勢の人とそこを訪れて、草田男を思い、芭蕉を思ったのに違いない。
天道虫見ているうちは飛ばぬなり
(羽わつててんとう虫の飛びいづる 高野素十)
の句があるが、あの表面に見える赤い特徴的な翅は飛ぶ時には役に立たず、その下にある薄い羽根で飛ぶ。作者はそのことは承知しているが、天道虫を見た時にその様子をぜひ確認したくてじっと眺めているがいっこうに飛び立つ気配はない。
しまいには棒でつついたりして驚かせたりする。作者の短慮をあざ笑うようにそのままだ。半ばあきらめてちょっと目を離したすきにいつの間にかいなくなる。自然界の現象は人間の思い通りにはならないものだ。
水母また骨を探してただよへり
水母が漂っているのは、自らの骨を探しているのだという発想はそれ自体大変面白いのだが、決してそればかりではない。深い人生が見えてくる。己の骨を代表とする肉体を離れて浮遊する「たましひ」を水母に作者は見てとっているのではないだろうか。日前の実写風景から幽玄の世界までに遊ぶ喜代子俳句の本質を見る思いがする。
空青く氷柱に節のなかりけり
寒冷地帯の氷柱は途方もなく大きくなる。そして青空の下、芯まで透き通る。そんななかでふと心に止めた理知的な観察。夜ごとに太さと長さを大にする氷柱に樹の年輪と同じように節があってもいい筈だが、それがない。当たり前と思わずに懐疑的にとらえるのは人間のもつ豊富な知識が邪魔をしているのかもしれぬ。
本来の氷柱の持つ美さえまっすぐに捉えきれない人間の哀しさというべきか。
その他触れたかった佳句を抄出しておく。
穀象にある日母船のやうな影
人はみな闇の底方にお水取り