毎日の散歩のほとんどは、土手伝いに気の向くまでを歩いて引き返してくる。いまの季節は、雑草が瑞々しくて、いろいろな花が咲く。
色が異なるのですぐに目につく花だが、なんという草なのかわからない。最初からこんな色で咲くので、一本でも見つけやすい。花は踊子草のような形。新芽のときから、この不思議な色をしていて、最後までこの色のままである。
写真にあるのは、一本だったが、5,6本ずつ群れていることのほうが多い。
今日は駅前に用事もあったので、スーパーの買い物も済ませてきた。日曜のせいか人が多くて、少し危険を感じた。いつものマルエツスーパーで三つ葉が一箱百円の値がついていた。何度も見直してから一箱買ってきた。
きっといろいろな事情でたくさんの三つ葉が昨日の市場に出荷されたのだろう。今夜は三つ葉づくしといこう。と言ってもおひとりさまごはんだが、とりあえず庭の柿若葉で柿の葉寿司を作ることにした。鮭もあることだし。
マスクも10万円もまだ入手してはいないのだが、わたしとしては今回のコロナ禍を伝えるために保存しておこうと思う。
そしてもうひとつの10万円、これもわれわれのような年金暮らしのものまでというのは、勿体ない気がする。出来たら10万円を有効に使いたい。たとえば、辞退した人たちのお金で人口呼吸器を買うことにする、というような具体案が出れば、即応じてもいい。
外出が罪悪感を感じさせる今日この頃ではあるが、家の中の行動範囲では病人並みだ。毎日日課のように散歩するのは、家から5分ほどの黒目川の土手歩き。行けるところまで行って帰ってくる。
いまは土手を覆う若草が瑞々しくて摘めるものがあれば摘みたい気分である。山菜天婦羅なんていうのもいいなーと思いながら、摘めそうな草を目で拾う。
蓼の新芽が行く先々にある。蓬も丁度摘み頃、少し前ならからし菜の花もよかったかもしれない。そんなことを思いながら橋をいくつもやり過ごす。
結局、何も摘まずに帰ってきた。要するに野草を摘んで天婦羅を作ろうとするための弾みがないのである。ひとりの食事作りにかなり慣れてはきたが、料理を作る弾みというのは、おひとりさまごはんでは生まれないのかもしれない。
このところ、毎日毎日風が吹く。散策には少し強すぎるなあと恨めしく窓の外を眺めている。それでも朝の日差しは変わらない。部屋一面の朝日が騒がしく、しばらくは隣接の書斎でパソコンに向かう。
書斎では、書こうと思いながら手を付けられなかった「鹿火屋」に拠った人々の糸口を見つけることが出来た。
宅急便がきて開けてみると5年分ぐらいになりそうな短冊だった。丁度日差しが後退してきた居間で、お茶しながら、早くこの短冊を使う日がくればと願うばかりである。
「ひとりお茶」しながらそこで、今度は友人と課している俳句を作る。この友人との俳句作りも30年以上になるかもしれない。相手をしてもらえる人がいるのは、ありがたいことである。
疲れたときには、寝室で横になって本や新聞を読む。目的ごとに家の中を移動しながら、なんと穏やかな日々なんだろうと錯覚している。
もう忘れるくらい年月の経った椿の木がある。はじめは鉢で育てていたのだが、開花と同時に錆てしまう。真っ白でいるのはほんのニ、三日。鉢植えでは栄養が足りないのかもしれないと、庭に植えなおしてみた。しかし、もうそれからでも10年以上は経つとおもうのだが、一樹が真っ白な花でおおわれることはない。
見事な大きな椿の花なので、なんとも惜しいと思って、椿の前に立っては、どうすれば錆びないでいてくれるのだろうとうち仰いでいた。大地に植えなおしてあげたのだから、少しは変化があってもいいではないかと思うのだが、鉢植えの時と全く変わらずに錆色の大輪をぼたぼたと地上に落下させるのである。
手のひらからあふれそうな大きな花で、写真に収めてみればまるでこの錆色が本来の色なのかとも思えそうな不思議な色だ。もしかしたら、新種なのかもしれない。茶色だから枯れをイメージしてしまうのだが、案外いい色ではないか。
椿と言えば、昨年の夏だったか、水上の若山牧水の足跡をたどった時に「椿の家」と呼ばれている家で、昼食をご馳走になった。大きな椿の木が目印になる家だったが、秋だったので花は見られなかったが、妖艶な雰囲気を醸し出す椿の木だった。何時か、満開時に花を見たいと思っている。
二階のテラスにアケビの蔓が巻きついていた。今年だけではないのかもしれないが、今まで庭の管理はすべて連れ合いの領分になっていたので、気が付かなかった。蔓延ってしまってはたいへんだ。手の延ばせる限りの蔓を切り落とした。
切り落とした蔓を片付けるために庭へでてみると、連れ合いの郷里から移植したこごみが摘み頃だった。六日町では雪解けのあとの野原へよく摘みにいったものだ。
コロナウイルス禍は都会を中心に蔓延していた。明日は安陪さんが緊急宣言を出すようだ。なぜもっと小さなうちに食い止められなかったのか。事情がよくわからないが、よほど明確な症状が出ないと、ウイルス検査をしてくれないみたいだ。理解できない。
そのうえ、呼吸器が足りないし、足りても人手が足りないかもしれないらしい。それで助かりそうな若い人を優先するとか。そんなことをテレビで堂々と語るなんて怖い。
日本中の人たちが、外出を控えてこの空白の時間に済ませてしまおうなどと、こつこつ何かをしているのかもしれない。わたしもカルチャーが中止となり、受講しようとしていた講座の取りやめの連絡が入り、吟行がつぎつぎ中止になっている。
お陰で、コウ子評伝にようやく取り掛かる時間が出来た。朝から初期の鹿火屋を読んでいる。わたしの持っている鹿火屋は全部スキャンをしたPDFである。そうでなければ、枯葉のような雑誌は開くたびに粉々になってしまう。
アイパットに入れてある鹿火屋を繰りながら、PCのエクセルにメモしていく作業は時間を忘れる。まずはコウ子が初期の鹿火屋にどんな風に関わっていたのかを見渡して見ることにした。
そんなことをしているうちに、「ににん」78号の校正があがってきて、宛名封筒などを用意しなければならない。
「ににん77号」が予定通りに発行されました。私の段取りが早ければ、ホームページを管理している木佐梨乃さんが、目次、その他のUPもして貰えてしまうのだが、いまだデーターを送っていない。
今年は喪中なのだが、それでも、食べたり飲んだりはするので、娘一家が訪れていた間には、手をつけることが出来なかった。これから、木佐梨乃さんに送るものは送って、「ににん」の新年度のページを埋めてもらうことにする。
この号から、少し編集の助っ人を増やした。例えば俳句を集める人、「雁の玉章」を纏めてもらう人、順番におこなっている仲間の俳句鑑賞などを、担当してもらえる人が決まった。わずかなことのようだが、個々に順番ですよと声をかけたり、遅くなれば「まだですか」と遠慮がちに促さなければならないし、文字数が多かったり少なかったりでも、また修正して貰わなければならない。
けっこう、一企画ごとに、手のかかるものである。
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