「摂津幸彦ていったいなにもの?」、というのが、その名前を目にしたときのつぶやきだった。それからずーっとそのままなのは、身近に摂津幸彦を語るものもがいなかったので、なんとなく積読の本みたいな感じで、その作家名が傍らにあった。
この感覚は、初学のころに林田紀音夫という名前に反応していた感覚に似ている。気になりながらも、覗いただけでやり過ごしていた。その後、「貂」に林田紀音夫論らしきものを書いて、恐れ気もなく林田紀音夫に送ったことがある。
『路地裏の散歩者』を読んで、摂津幸彦論が仁平勝氏によって解かれていくのは、摂津幸彦を語るのには何故か絶妙な組み合わせだと思えるのだ。それは読んでいてさらに確信するのだった。仁平氏の文体は「語り」という種類になるのではないだろうか。その語り口の上手さに惹きこまれて読み進んしまう。そのうまさとは、たとえば<路地裏を夜汽車と思ふ金魚かな〉の一句の鑑賞にしても、まず語り初めから説得力がある。
ーー「路地裏」「夜汽車」「金魚」という名詞の取り合わせから、さらに切字の「かな」を除けばすなわち摂津の文体が残る。ーー
何でもない説明に見えながら、この切り込み方は新鮮である。そのあとも、「路地裏を夜汽車と思ふ」がわからない、とわれわれの次元に沿う叙述になる。次に作者は助詞は言葉と言葉を繋ぐためにあるだけで、それ以上の意味に執着していないのだ、あっさり打っ遣りをくわせられ、読み手の心を揺さぶりながら話が続く。
それから比喩として解かれるという仕掛けで、物語めくほど語りの部分が豊富である。この本を読み終わる頃、著者からふらんす堂刊の現代俳句文庫『仁平勝句集』が届いた。
探偵の一寸先は闇の梅 仁平勝
いじめると陽炎になる妹よ
だんだんと畳を汚す菫かな
読み始めて同じ空気の中で俳句を作っていたのを知るのである。