群れにならない

このごろひとりの小さな雑誌が増えてきた。大御所では「『弦』・主宰・遠山陽子」がある。この雑誌のなかで『評伝三橋敏雄』を書き上げた。

もう一人の大御所は「『GA』・主宰・秦 夕美」である。『GA』すなわち我、いかにも秦夕美氏らしい。この雑誌以前にも秦氏は藤原龍一郎氏とのににん誌を出していたことがある。鮮やかな表紙だったのを思い出す。なにより目に飛び込んできたのは二人の名前である。藤原月彦と秦夕美、この名前だけでも、今までのカビ臭い俳句は払しょくされたような気がした。その句の発表の仕方もまた、斬新だった。読みこんだ一文字が意図的に斜めに、あるいは真横に並んでいた。

「俳句は座の文学」ということばに慣らされてきたが、このごろほかの文学と同様に孤の意識が生まれつつあるのではないかと思う。座とか連衆ということばでくくられたくない人たちが増えたのかもしれない。なんとなく誰もいないので一人で作っている、という感じではない。はっきり一人を標榜しているのである。

『白い部屋』・有住洋子ーー季刊くらいの間隔で、毎号一人の招待席を得て着実に3号が出ている。あとは散文も鑑賞も作品も有住氏ひとりのもの。

『さくら通信』・櫻木美保子ーー普通のA5版の大きさで届いたが、広げると新聞紙大になる。アイデアだなーと感心してしまった。このさくら通信あとがきには(無所属ということにシンバシーを感じております)と表明している。

『ほたる通信』・ふけとしこーー毎月半分に俳句、半分にエッセイをかいたハガキがとどく。ときに宛名面の下に便りもあたたりして、ハガキ一枚にこんなにも漏れるんだなーと思った。

ハガキと言えばまさに表題が『はがき』としたににん紙が届く。西原天気さんと笠井亜子さんの才を生かしてデザインも楽しい絵ハガキである。(手に指がならんでをりぬ日雷・西原天気)(筍のごろんごろごろ土間ならば・笠井亜子)

『楕円律』・田吉 明ーー現在手元にある一番新しい版が111号。数句ずつにタイトルが付されているが、そのタイトルが詠みこまれているというのでもない句群で雑誌のすべてが埋められている。それらを最近『幻燈山脈』としてまとめている。

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