『幡』2012年11月号  主宰・辻田克己

句林間歩   筆者 服部友彦

   『白 雁』    岩淵喜代子
  万の鳥帰り一羽の白雁も
を表題句とする『自雁』は平成二十年に上梓された『嘘のやう影のやう』に次ぐ、岩淵喜代子氏の第五句集で三百八句を収録する。岩淵氏は昭和十一年の東京生れで、同五一年「鹿火屋」に入会し、原裕氏に師事、後に川崎展宏氏の「貂」創刊に参加、現在は同人誌「ににん」の代表をつとめる。
  がりがねの帰る彼方を遥かといふ
  「あとがき」で「句集作りは、今の
自分を抜け出すための手段」と言われる岩淵氏にとって、「日常の現実は遥かなものへ通じる回路(原雅子氏評)」になっているといえよう。その岩淵氏の作風は、たとえば喫茶というきわめて日常的な行為を非日常化させたところに成立する茶の湯などの在り方にも通じていくものがあるように思われる。

  初夏や虹色放つ貝釦
  箱庭と空を同じくしてゐたり
  今生の螢は声を持たざりし

 「蝙蝠」と「螢」の章より。一句目は巻頭句。二句目、作者と空を同じくする箱庭という季語に強い象徴性が窺われる。三句目は和泉式部の「沢の螢」の歌とあわせて鑑賞したくなるような集中随一の感銘句である。

  鳥は鳥同志で群るる白夜かな
  天の川鹿にかすかな斑の名残
  残生や見える限りの雁の空

 「白夜」と「時間」の章より。白夜の明るさはやはり畏怖を覚えるような非日常の体験。鹿の斑に見立てた天の川へのメルヘンのような視点と残生の先を見据える非情ともいえる視点はいずれも作者特有のもの。

  ゆふぐれは椋鳥さわぐ木のありぬ
  地獄とは柘榴の中のやうなもの
  まるごとが命なのかも海鼠とは

 「柘榴」と「風の色」の章より。一句目、帰宅途中など、日常よく出合う光景だが、ここでは夕暮れの椋鳥があたかも異形のもののように現れてくる。二句目の地獄と柘榴のアナロジーはとても尋常のものとは思えないが、その独断に納得の一句。三句目、読み手としては、まるごとの命をまるごとの心と読み換えさせていただいた。

  尾があれば尾も揺れをらむ半仙戯
  梅の咲くふしぎ吾の居る不思議
  幻をかたちにすれば白魚に
  花ミモザ地上の船は錆こぼす

 「白雁」と「地上の船」より。一句目、半仙戯という漢語調の季語を通して、尾砥骨にのこる人類の生命誌に思いが及ぶ。二句目、吾という実存の摩詞不思議。三句目、幻と白魚を取合せる作者の飛躍に共感するものかある。四句目はあの東北の地上の船であろうか、鎮魂の供華としての花ミモザ。 日常的な「こと」と「もの」の世界が作者ならではの言葉に置き換えられる時から、現実の時空を越えた一種スリリングな非日常の世界が見えてくる。そんな自分を変えるための未知の世界に出合わせていただいたような句集であった。

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