花の果て

 夜のカルチャーでは、毎回持ち句5句の句会をするのだが、そのほかに当日の直前に兼題で作ることにしている。そのため教室に入ったとたんに嫌でも緊張度が高まるのである。俳句は集中度と瞬発力が必要なので、こうした瞬時の作りかたは大いに役立つ筈だと思っているのである。実際、一ヶ月かけて作ってきた句と瞬時に作った句を比較しても、時間をかけた句がいいとは限らないからだ。

先日、その兼題に「花の果」「花果て」を出した。ところが、みんながぶーたれはじめた。歳時記にも無いし、広辞苑にもないというのだ。わたしは目を白黒させてしまった。

  花果てのうらがへりたる赤ん坊   『嘘のやう影のやう』

わたしの作品のなかでは好きな句なのだが、この季語「花果て」っていうのは案外ポピラーな季語と認識していたからだ。現にこの句はいろいろな人が鑑賞してくれたが、歳時記にないことに着眼した人はいないのである。みんなすんなり花の散り果ててしまった時期を詠んでいると感じてくれた。たとえば、この句を歳時記にないことに気がついて「花過ぎ」に直すだろうか。いや、それでは本来の明るさが損なわれるような気がする。

あわてて歳時記を繰ってみたが、そこには「花過ぎ」は出ているが「花果て」はたしかに出ていない。俳句検索をかけてみると、やっと二句の「花の果」が見つかったので、ないわけではないのだ、とやっと動悸がおさまった。

新橋に居ると電話や花の果     依光陽子
継橋に老の十歩や花の果      村上光子

「花過ぎ」と「花果て」にはかすかな季節のずれがあるような気がする。「花過ぎ」とする時に、その語音がかすかな花の湿りをもたらすが、「花果て」になると花の感触も消えてからりとした空気が漲る。そういえば昨日4月17日は平林寺のお祭りだったはずだ。いつもは八重桜の落花が祭を彩るのだが、今年はその八重桜も散ってしまっていただろう。

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