朝の涼しいうちに墓参りに行ってこようという弟の車に同乗した。都立小平霊園へいく道中がいつもより混んでいる。霊園内のあちらこちらの欅並木の下にも車が駐車していた。お盆の15日のせいか、それに土曜日も重なったからだろう。
いつもながら、小さな墓なのに草取りと樹木の剪定に結構時間がかかってしまった。墓域の中に砂利を敷き詰めておくのだが、やはり草が生い茂る。四隅の樹も行くたびに枝を伸ばして隣の墓にはみ出している。汗が目に入って滲みてくるなんていう体験は、何十回となく繰り返している墓参の中で今日が初体験である。
帰りに管理事務所で墓の案内図を貰った。開園は昭和23年だと書いてある。終戦まもなくの開園なのだ。そのときは霊園も小じんまりしていたのだろう。父がこの墓地を手に入れたのはその何期目かの募集で買い求めたものだ。購入者が多くて抽選だったと記憶している。なぜ、まだ40代そこそこの父が墓など買おうと思い立ったのかといえば、一歳六ヶ月で亡くなった妹のためである。
平成24年には樹林墓地も出来たらしい。いつも、園内の実家の墓のそばまで車で行ってしまうので、その樹木墓地がどこにあるのかも見ていない。管理事務所で貰った案内図には著名人の墓の案内も書き込んであった。富安風生の墓は千葉ではなくここにあった。他に俳人は、富沢赤黄男・角川源義。
文学者もたくさんいる。知っている人を列挙すれば宮本百合子・伊藤整・坪井栄・坪井繁治・山本七平・青野季吉・荒正人・河合酔茗・徳田秋声・小川未明・野口雨情・有吉佐和子・十辺 肇などなど。宮本顕治の墓もあったが、宮本百合子と同じ墓ではない。死後、百合子の秘書だった大森寿恵子と結婚したから、同じ墓には入れなっかったのだろう。
墓参の帰りはいつも近辺の農家に立ち寄って野菜を買い込む。半額くらいで新鮮野菜が出ている。いつかここで西瓜も買ったことがあった。それから昼食の場を帰りの道中で探す。年に何回かの墓参の場が兄弟の団団の場でもある。私が歳を重ねるように弟も歳をとった。「でもお互いに大きな病気もしないで、ここまで来られてよかったね」と言い合う歳になった。そうして「子供たちも立派に成長してくれたし・・」と言い合う。
「いい子に育ったねっていうから、わたしが育てたのよ、ていうんだけど」と義妹はいう。確かに手塩に掛けて育てていた。しかし、私の場合はほっぽり放しだった。そのことを思うと「よくぞこんなに立派になったものだと」としみじみ思うのである。