2009年8月 のアーカイブ

四つ葉のクローバー

2009年8月31日 月曜日

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 毎朝近くの公園のラジオ体操に参加している友人が、そこで四つ葉のクローバーを見つけたと報告してきた。 

「何で自分だけで満足してしまうのよ。一枚あったらそこには何枚かあるのよ。遺伝子があるんだから。明日も気をつけて探してきてね!!!」

と、私はあわてて言った。

「分かったわよ。あなたは文句をいうときだけ口がまわるんだから」

とぶつぶつ言っていた友人の、翌日の報告では、やはりそのあたりにはあるみたいだけと、踏まれてしまっていたから、また気をつけて探してみるわ、という事だった。

ところがその四つ葉のクローバーを、私も見つけたのだ。
昨日からたった一つの記事をみつけるために古い鹿火屋を繰っていた。ついでに整理もかねて中身もパラパラ開いていたら、昭和30年の「鹿火屋」に、形も完全に、しかもおおきなクローバーが挿んであった。
これって、50年以上も前のものだ。

昭和30年の鹿火屋は椎橋清翠さんから廻ってきた本。

本当の校了

2009年8月29日 土曜日

ほんとうの意味で校了かなー、と思っているが、印刷に入ってしまえば、何が出てきても諦めなければならない。ゲラも四回出してもらって、途中でも何回もフックスで、間違いやら訂正を送っていた。なんともやっかいな著者だったろうと思う。

担当している入江さんは、「いやいや、あとから出てくるよりいいですから」とやさしい。齋藤さんも解説を書き終えて、これでやっと印刷に入れそうだ。あちらが手間取っていたおかげで、随分脱落やら間違いも見つけた。

単なるエッセイや小説なら推敲の部分にあたるのだが、評伝の場合は事実関係や引用の出典などがどこかに紛れてしまって、ほんとうに大変だった。昨夜の真夜中に正津勉さんの「ににん」原稿の校正のやり取りをしながら、そんな話に移って、まだまだでてきますよ。と脅かされてしまった。評伝を幾つも書いている正津さんのことばは説得力がある。たしかに、何気なく見付るのだから有り得る話である。本が出来るのが怖い。

なにしろ書き始めが七年ほど前になるので、こうした校正への意識も寄せていなかったので、引用の出典が何処だったかもわからなくなっているのがある。仕方がないので取り替えた文章もあるのだ。

九月中には発刊されるので、発行日は九月七日の白露の日決めた。

『増殖する俳句歳時記』より   三宅やよい評

2009年8月24日 月曜日

   かはほりのうねうね使ふ夜空かな

 幼い頃、暗くなりはじめた屋根の周辺にこうもりはどこからともなく現れた。こうもりの羽根の被膜は背中と脇腹の皮膚の延長で、長く伸びた指を覆うようにして翼となったそうだ。肘を少し曲げたねずみが両手をぱたぱたさせて空を飛んでいるようなもので、鳥のように直線的な飛び方でなく「うねうね」という形容がぴったりだ。
 夜空を浮き沈みするように飛んでいるこうもりを生け捕りにしようと兄は丸めた新聞の片端に紐をつけこうもりめがけて飛ばしていたが、子供の投げる新聞玉が命中するわけもなくあたりは暮れてゆくばかりであった。深い軒や屋根裏や、瓦の隙間に住んでいたこうもりは住み家がなくなってしまったのか。 
 長い間こうもりを見ていないように思う。夜空をうねうね使いながらこうもりは何処へ飛んで行ったのだろう。『嘘のやう影のやう』(2008)所収。(三宅やよい)

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 我家から五分ほど歩くと黒目川に出る。橋のあたりの外灯の周りに、あきらかに鳥と違う飛翔で群れている。それを見るためとも、夕涼みのためともなく出かけることがある。蝙蝠とも書き、蚊喰鳥とも呼ぶ。字のごとく蚊のような小さな虫を食べるのだろう。

 昼間は何処に潜んでいるのか見たことはないが、俳味があるといえば、その存在そのものが俳味のような動物だ。 それでも、私が目にするのは燕ほどの小さな蝙蝠だから、少しも気味悪さは感じないが、これが、羽が一メートルもあるような大蝙蝠だったら、とても、近くには居られない。

     蝙蝠やうしろの正面思い出す    

 多分第一句集だったと思うのだが、蝙蝠の句はこの2句しか作っていないような気がする。

『朱雀』 2009年9月号・より 評者 鈴木眀魚

2009年8月23日 日曜日

 鷹鳩と化す掌を器とす         岩淵喜代子
  
            「俳句四季」四月号、「わが道を行く・白亜紀」より。

 「鷹化して鳩となる」、穏やかな春爛漫の季節には鷹も穏やかになり鳩と化してしまうと言う。 季語だけで十音を使ってしまう驚きの季語のひとつである。作者はこの季語を短縮して使っているが、これほど穏やかな日には掌を器として使うと言う。
 私は春爛漫の朝、少し遅く目覚めた作者が庭の咲き乱れた花を見て、両手で水を受け顔を洗っているのだと解釈した。
 揚句とは全く状況が異なると思うが、尾崎放談の「入れものが無い両手で受ける」を思い出した。

加藤かな文句集『家』   2009年  ふらんす堂刊

2009年8月22日 土曜日

   春の山好きなところに並べ置く
   月曜は蒲公英の濃き畦となる
   空蝉や光つて何も見えぬ水
   毛布からのぞくと雨の日曜日
   冬の川毎日越えてる毎日見る
   陽炎へるあたりこの世のちぎれ飛ぶ
   つばくらめずいぶん雨に濡れながら

 その句集名がいかにも作品群の外装のように思えるのは、昭和36年生れの作者の基点が『家』そのものであるからだ。何処を開いても、作者の見える風景であることが柔らかな光を放つ。

佐藤清美句集『月磨きの少年』  2009年刊 風の花文庫

2009年8月22日 土曜日

 文庫本である。林 桂氏が代表の「鬣」が発行している。そういえば以前に紹介した林 桂 著『俳句此岸』も同じシリーズだった。あのときも書いたと思うのだが、やはり句集はこの形で、詩集のように持ち歩きながら読みたい。

   スミレ咲き空はスミレに触れている
   仔猫来る梢を揺らす風を見に
   どこまでも枯野自転車空色で
   春隣わたしの席はそこにない
   謹んではそびらの形に闇があり

 句集名の句は「梯子には月を磨きにゆく少年」があり、メルヘンチックな作品に本領を発揮している。

神蔵器句集『氷輪』  2009年刊   角川書店

2009年8月22日 土曜日

   いくたびか月の夜を経て椿かな
   杏咲くあんずぼかしのしあわせに
   水打つやころころ水の珠法師
   虹立つや積木の上に積木積む
   まなこより鱗の落ちて烏瓜

平成2年に『貴椿』で俳人協会賞受賞。一句目「いくたびか」に続く叙述で椿が鮮明。目立たないがことばの斡旋によって対象物を引き立たせている。

秋が来た

2009年8月18日 火曜日

 

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目黒雅叙園の庭にはいち早く秋が来ていた。
吾亦紅は小さな花とも言えない花なのだが、その色によって主張していた。女郎花は群生している。昭和三年に建てたという百階段の建物はいったいどんな人達が使ったのだろうか。なんと、あの「千と千尋の神隠し」の舞台になった部屋。

「ににん」の締切日は20日だから、明日から、すこしパソコンを開く回数が多くなる。一人で編集、一人で企画といった気楽さはあるが、体力と時間はきりもない。別ブログで、「原石鼎」 なるものを立ち上げたので、なお忙しい。まだ鑑賞の軸がきまらないのでぼつぼつとUPしている。私のペースでは書き馴れてきても隔日くらいでしか更新できないだろう。

そうだとすると、20人くらいの人にお手伝いしてもらわないと、毎日の更新は無理だ、現在7人の人に鑑賞をお願いしているが、今の培くらいの人数にするべきかと思っている。しかし、毎日更新ということが負担になるところもあるので、暫くは、ランダムな更新でいきたい。

これから一年の鑑賞執筆をお願いしている人(敬称略)。  

有住洋子(琉) 
五十嵐秀彦(藍生・雪華)
草深昌子(晨) 
木津直人(ににん) 
秦 夕美(GA) 
平田雄公子(谺・松の花) 
藤田直子(未来図)
麻里伊(や)

白いゴウヤ

2009年8月16日 日曜日

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今年もゴウヤの生り放題。白いゴウヤも採れ放題。白いゴウヤと青いゴウヤと隣り合わせに植えてあるが、青いゴウヤの色がわずかに淡い。白いゴウヤの影響らしい。白色のほうが繊細で影響されやすいとおもったのだが、案外わからないものなのである。

白色ゴウヤは丁度象牙色。苦味は少なくてスライスしてドレッシングで食べられる。仙台から来ていた娘も、白色ゴウヤは初めてだというので、お土産になった。やっと忙しい盆の行事が終った。やはり疲れた。暫くお休み週間にしたいのだが・・。

8月15日

2009年8月15日 土曜日

8月15日、終戦日。その日のごとく快晴だった。何気なく点けたテレビの画面に、長崎の原爆被害地を背景にした小学生たちの笑顔があった。その中の一番年嵩の少女の笑顔を追うドキュメントが放映されていた。

赤子を背負った少女が手を差し出して、何か手の上に乗せて貰って笑顔を作っていたのだ。その笑顔の理由と写真の中の子供たちの消息を追うもので、少女は生きていた。

辿り辿って、現在80歳ほどの女性と対面したというそれだけのことではあったが、その過程の中で自ずと解る戦争の空気があった。戦争を大上段に振りかざす論よりも些事に目を留めて追ってゆく過程のほうが心に染みることがある。

「件の会」の今年の「みなづき賞」は友岡子郷の『友岡子郷俳句集成』と「私の実感的俳句論『天真のことば』」へ与えられた。子郷氏の俳句論はまさに、日常の些事を一つずつ自分の内部に問いながら、前へ進む方法論なのである。句集とともに、読み甲斐のある文章であった。

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