2009年6月 のアーカイブ

髙柳克弘句集『未踏』    2009年6月ふらんす堂刊

2009年6月29日 月曜日

  つまみたる夏蝶トランプの厚さ

帯に抽出されている十句の中でもこの蝶の句は突出した完成度に思える。蝶を手にするときには蝶の羽をつまむ以外に触れる方法はないのである。実体からの蝶の感覚。

  ゆびさきに蝶ゐしことのうすれけり

皮膚感覚で捉えた蝶でも、この蝶には、存在のあやうさが現れている。気がついたら句集には、「蝶」を詠んだ句が多い。そうして蝶の句はどれもいい。無意識のうちにも、何かの拘りを蝶に託しているようだ。それは不思議な存在としての蝶、残像の映像としての蝶・・・。捉え方は多彩だが、あやふさの象徴として、目の前に蝶を引寄せている。

  蝶々とあそぶ只中蝶生る
  蝶ふれしところよりわれくづるるか
  蝶の昼読み了へし本死にゐたり
  路標なき林中蝶の生まれけり
  わがつけし欅の傷や蝶生る
  蟻運ぶ蝶の模様のかけらかな
  てふてふや沼の深さのはかれざる
  くろあげは時計は時の意のままに
  秋蝶やアリスはふつとゐなくなり
  ランボオの肋あらはや蝶生る
  キッチンにもんしろてふが落ちてゐる
  只の石からすあげはが荘厳す

同じ時期に髙柳氏の編集長を務めている「鷹」45周年記念号には、

  夏蝶やたちまち荒るる日の中庭(パティオ)

が主宰選に入っていた。

『ににん』35号 発送

2009年6月26日 金曜日

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昨日の昼間、今日の一日をかけて「ににん」の発送準備。夕方,クロネコに集配に来て貰って終了。二、三日後には届くのではないだろうか。

今回の特集は、座談会『石鼎を語る』がある。清水哲男・正津勉・齋藤愼爾・酒井佐忠・土岐光一の各氏。一年後は十周年。だからと言って5周年のような会はやらない。ごく内輪で食事会でも開こうとは思うが。そのかわりに、この十周年を力んで越えていこうと思う。この間に、「物語を詠む」を充実させて、最終的には、そのアンソロジーが記念号になるだろう。

美空ひばり20回忌

2009年6月24日 水曜日

24日は美空ひばりの20回忌。23日の昨日のNHK歌番組は各分野の歌手がすべて美空ひばりの歌を唄った。美空ひばりほど伝説を持った歌手はいないだろう。その上に52歳で亡くなった、というのも伝説を生みやすい。円熟の真っ最中にこの世を去ったことになる。

聞くところによると、「ひばり伝」と名のついた本の出版は400冊くらいあるらしい。そして今日はたぶん最後の「ひばり伝」となるだろう『「蒼穹流謫 」 講談社刊』の著者齋藤愼爾さんを中心に「美空ひばりを偲ぶ会」が西葛西の料理屋で行われた。

齋藤さんと美空ひばりとはおよそ結びつかないのだが、その唐突な取り合わせが期待感を持たせる。集った50人ほどの大方は編集者・作家・装丁家。俳人は10人くらいだったろうか。久し振りに柿本多映さんにお目に掛った。「ににん」の仲間との旅で三井寺をご案内して頂いて以来である。このために近江から出てきたのである。

美空ひばりの子供となった加藤和也氏もきていた。後ろでひとつに束ねた独特のヘヤースタイルで、店に入ってきたときにすぐにそれと分かった。誰にとっても、ひばりは好き嫌いを越えて、懐かしい存在ではないだろうか。昭和という時代の傍らに、いつもひばりが存在して、あまり意識しなくても、ひばりの歌の一つや二つは歌えるだろう。

本はこれから読むのだが、齋藤さんが中学まで育った山形県の飛島から始まるのも、いままでの「ひばり伝」とは違ってきそうである。

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ゴーヤの花

2009年6月23日 火曜日

アンの店先に置いた植木鉢
花をつけたゴーヤがひょろひょろと伸びていた
八月になるのに花だけというのも遅れている
麻里伊さんは発育の悪さを気にしていた

突然澄子さんがゴーヤーの一花を摘んだ
何をするのかと思ったら
その花で咲いている花を叩きはじめた
ぽんぽんとまるで
パフで顔を叩くような軽さで
人口受粉をするつもりなのだ

みんなはその手際を後ろから眺めていた
鉢植えとは言いながら
ひとつひとつの花の受粉は時間がかかりそう
みんなは眺めては店に入り
また出てみたりしていた

私はその始終へ一回も席を立たなかった
それというのも私の位置は
ひょろひょろと伸びたゴーヤの苗のガラス越し
その手際もそれを打ち眺めるみんなの顔も
真正面からよく見えるのだ
見ている方も疲れてきた

そんなことやらなくてもと呟いた
うちの庭のゴーヤはきりもなく実をつける
男性たちもそう思っていたのだろうか
誰も受粉の手際を眺めに
店を出ていくことはしなかった

ひとしきりの受粉作業が終ってから
澄子さんはゴーヤの苗から距離を置いて
苗全体を見渡した
それから思い出したように
ぽんぽんと花を花で叩いた
取り残しがあってはならないとばかりに

みんながぞろぞろテーブルに戻った
受粉作業がやっとおわったのだ
そんなことしなくっても生るわよ
私はたまりかねて呟いた
だってねそれは蜂さんや蚊さんが
代わりにやってくれているからよ
と雅子さんが言った

天然自然の摂理とは誰も知らないところで
何かが働いているということなのだろう
あーというかたちに口をぽかんと開けて
わたしは大きく頷いた
月をさんの眸が雅子さんへ動いて
それからちらりと私へ動いた
去年の夏のことだった

鈴木榮子第4句集『繭玉』  2009年5月刊   角川書店

2009年6月22日 月曜日

榮子さんとドイツを巡ったときだったか、イタリアを巡ったときだったか、古い建築物に見とれていると、「こんなの珍しくないわ。東京にたくさんあるもの」と言った。そう現在でも、日本橋の三越や、その向かい側にある勧銀などはゴシック建築の片鱗が残っている。

この句集を読みながら、東京っ子という言葉を思い出した。それは、歌舞伎を愛し、母を愛した生活が中心になっているからである。私が見損なった「高野聖」もしっかり観ていた。一集は、そうした日常を掬い上げて、自分史にしている。

   春吉原助六に降る煙管の雨
   東京はわがふる里よ都鳥
   繭玉のひとつひとつが大事なり
   三月十日その後の雛は買はぬなり
   高野聖すすきの道を急ぎけり
   母と子の母逝きひとり目刺焼く
   秋袷母の一生わがために

柴田佐知子『垂直』第四句集   2009年6月 本阿弥書店

2009年6月22日 月曜日

1949年生まれ・「空」創刊・「白桃」同人
人生の深淵をちらりちらりと見せることが、奥行きとなっている。その深淵も写生を基本にしていることで、説得力を持つ。

    秘すことのはじめ手毬を背に廻し
    恐ろしきことも数へて手毬唄
    風船を持ち青空に招かれし
    母よりも箒が高し冬桜
    蟻地獄すべりし跡は蟻が消す
    黙りこむ男のやうな蝸牛
    箱眼鏡覗くこの世に誰もゐぬ

中で一番と言われれば下記の句になる。何でもない風景である。ほんとうは、いつも橋は架かっているのだが、レトリックが利いている。  

    どの橋も夜凉の水に架かりけり 

坪内稔典句集『水のかたまり』  2009年5月刊 ふらんす堂

2009年6月22日 月曜日

  七月の水のかたまりだろうカバ

句集名は上記の句から採られている。この時期、カバを訪ねる旅をしていたのだという。「カバ」と「俳句」がある種の調和というかバランスのようなものを感じてきたから,とあとがきにある。以前から、捻典氏の俳句は「何だか面白い」という印象で捉えていたが、その表現になる軸が今回の一集から感じられる。

    十二月ベンチはすでに鰐である

例えば句集の最初のページにある句。ベンチから鰐へはすぐに連想が繋がる。「梅咲いて庭じゅうに鮫がきている」の兜太の作品よりもはるかに明確に。

    春暁のころがっているねんてん氏
    父と子ところがっている桜雨
    磯巾着になろうか昼をころがって
    天然の男がごろり文旦も
    ころがして仏頭を彫る冬の虹
    ころがって朱欒と猫とあの野郎

ここに稔典氏の俳句思想があるのではないか。まさに「ころがり思想」がある。「父と子ところがっている桜雨」の図など、いい風景である。「取り合わせ」を主張していたような気がするが、それは、

    象がふと横歩きして牡丹雪
    寒晴れの日だった象の尻見てた

今回の句集からは、唐突にも見える取り合わせは見つけられなかった。言うなれば、日常の視点が動物たちへずらしているのだ。動物に視点をずらすことで、非日常に行き易い。

    多分だが磯巾着は義理堅い
    蟻たちにないはずはない耳二つ
    カント氏の窓半開き揚羽来る
    冬晴れて首から歩くキリンたち
    ふきげんというかたまりの冬の犀

とにかく楽しい句集だ、「俳句は楽しくなくては」と坪内稔典氏は言っているだろう。

『門』  主宰・鈴木鷹夫

2009年6月21日 日曜日

現代俳句月評   中村鈴子

「俳句四季」四月号、「白亜紀」より
  
        尾があれば尾も揺れをらむ半仙戯         岩淵喜代子
        甘茶仏人の目線に据えらるる

 一読して成る程と思う。周知のように人間には尾の名残の尾骨がある。進化論で言えば遥かなる先史時代もしブランコがあったら尾も揺れていただろう。着想の斬新さに脱帽すると共に心を楽しませる句である。
 二句目は認識の句。言われてみればその通りで甘茶仏は誕生仏でもあり又人々が甘茶をかけるのに都合が良いようにか、それほど大きくしない。しかし「人の目線に」というフレーズはそう簡単に出ない。見慣れた景でも、その視点と自分の言葉による表明でかくも新鮮な句が出来る事を教えられた。

『雲取』 主宰・鈴木太郎

2009年6月21日 日曜日

現代俳句管見   下条杜志子

「俳句四季」四月号、「白亜紀」より

      恋猫のために踏切り上がりたる   岩淵喜代子

 微笑ましくもあたたかくなる句だ。別に猫のために踏切が開いたわけでもないはずだが、恋猫がローカルな景色の中の線路を越えてゆく。いや、けっこうな混雑の中かも知れずそこに注がれる俳人の愛情のようなものが滲んでいる。で、かくありたいとは思うものの、野良猫の数匹の騒動によくない気分を持て余しもするのだ。

蛇笏賞・迢空賞受賞式

2009年6月19日 金曜日

今年の蛇笏賞は廣瀬直人・迢空賞は石川不二子・河野裕子。

廣瀬直人句集『風の空』から
降り足らぬあとの烈風一の午    金子兜太選
中空の風波うつて鬼やらひ
男らの声にゆとりや十夜粥

雪吊の中にも雪の降りにけり    大嶺あきら選
一卓に人隔てたる夜の秋
涅槃図を掛けたる寺の庭通る
秋澄むといふことはりに日の沈む
行く鴨の遥かに声を失へり
剪定の千本剪つて日が落ちる

瀬がしらを上る鮠見しお元日    有馬朗人
枯蟷螂抜き差しならぬ眼がふたつ
夏神楽狐しばらく跳ぶばかり
空が一枚桃の花桃の花
存分の雷鳴北に甲武信獄

剪定の千本剪つて日が落ちる     宇多喜代子選
風吹き下ろす三日目の餅筵
正確な鳶の輪に入る袋掛
どの樹にも明ける空あり半夏生
空が一枚桃の花桃の花
存分の雷鳴北に甲武信獄

4人の選者で重なっている句は「空が一枚桃の花桃の花」「存分の雷鳴北に甲武信獄」の2句だけ。粒揃いでどれを選んでもいいような感じにも見える。だが何だか物足りない。ここに挙げた作品に、一句だに震えるような感動を覚えないのは私の鈍感さかもしれない。たとえば、

大寒の一戸もかくれなき故郷   飯田龍太

龍太のこの一句に並ぶもの、いや近いものでもあるのだろうか。無いとすれば、句集全体の総合点としての受賞と理解するしかない。 それでは、作品が後世に残らないのではないだろうか。

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