「ににん」に連載していた「花影婆娑と」はタイトルを『頂上の石鼎』として上木した。
この一冊を書いたお蔭で、いろいろな機会の総合誌に書かせてもらった文章、それと参加していた「貂」・「鹿火屋」に掲載した俳論のすべては『頂上の石鼎』に盛りこむことができた。
意識的に盛り込んだというよりは、一人の作家を追うということが、俳論の反映だったのである。単に一人の作家を世に紹介するのは意味のないことである。だから十人の石鼎伝があるとすれば十人の石鼎論がたちあがるのではないかと思っている。そういう意味では大勢の人に評伝を手掛けてもらった俳人像は重厚になるはずだ。
こうした評論の分野の文章を書く気になれたのも川崎展宏氏のおかげである。氏は情緒的な文章をだらだら書いているわたしに、そんなものは歳をとっても書けるから、評論を書けとしきりに煽ったのである。1979年に創刊した「貂」に参加したときである。句集評のようなものを何回か書いたあと、次号の「貂」の四頁を評論で埋めろという突然のお達しがあった。
取り組むなら気になっていた林田紀音夫しかないと思った。現在ふらんす堂から出版された現代俳句文庫―57『岩淵喜代子句集』の巻末に収録した「文体は思想」はそのときの文章である。その経緯がなければ、私は散文詩風なものが自分のテリトリーだと思い込んで暮らしてきたに違いない。
同じ時期に、川崎展宏氏がもうひとつ予言していた。ある日、「雑誌を持ちたいだろう」というのであった。こういうことを切り出すときはいつも飲み会の場であった。だからといって、それが雑誌を持つことを促しているというのでもなかった。ただただ、わたしの中にある思いを言い当てるかのような言葉だった。第一句集『朝の椅子』上梓の直後だった。あまりにも唐突な発想で、わたしは持ちたいとも持つ気はないとも返事ができなかった。
「ににん」を創刊したのは、川崎氏のことばも忘れ去った15年後のことになる。実際、雑誌を立ち上げてみると、自分が本を造ることが好きだったのだということに気がついた。もしかしたら無意識の意識を川崎氏が言い当てたのかもしれないと、そのとき思った。
その川崎展宏氏が亡くなったことを今朝の朝日新聞で知った。初めてお便りを頂いたのは、友人と薔薇園に吟行したときの句を誰かに見せて貰ったらしくて、その句の感想だった。そんなふうに、思いつくと、こまめに筆を走らせる方だった。
大甕をのぞきて薔薇に囲まるる 喜代子