‘石鼎さん’ カテゴリーのアーカイブ

梅田みか

2008年11月7日 金曜日

今日の毎日新聞夕刊、「本の現場」で登場したのが脚本家の梅田みか。梅田晴夫の娘である。さらに言えば、鹿火屋の石鼎の弟子であった梅田玲女の孫ということになる。

梅田玲女の子息とその子が著名人だとは、知っていたが、それ以上のイメージは浮ばなかった。今日の夕刊で、写真ではあるが、しっかり顔を認識した。作品に「年下恋愛」「別れの十二ケ月」「愛人の掟」がある。

知ったからって、なにかの役にたつとも思われないが、なんとなく、石鼎と同じ年の玲女の体温を身近に感じられる出来事である。

梅田晴夫って?

2008年9月3日 水曜日

日本のフランス文学者劇作家小説家随筆家。本名は梅田晃(あきら)。舞台劇やラジオドラマの脚本、物の歴史に関する著述や翻訳などで活躍した。また、パイプ万年筆などの収集家としても知られる。経営コンサルタント梅田望夫脚本家梅田みかは子。

梅田晴夫を紹介したいのではない。手許に60年ほど前の鹿火屋誌からのコピーがある。「1951年に望むこと」と題して、俳句への所感を書いている。鹿火屋30周年のときのもの。受贈雑誌欄に「句品の輝き」を書いたので、関連があるので、書いておこうと思う。

梅田晴夫を俳句誌に書くのは、決して俳句を詠んでいる人だからではない。母親が鹿火屋の同人だったからである。その梅田は自由に物を言っている。ーー僕はあまり俳句雑誌を読まないので大きな口をきく資格はないのだが、少なくとも「鹿火屋」を毎号拝見するかぎりでは、どうも俳句に無関係乃至は局外敵立場に立つ人達に対して、不親切のような気がする。

とりつく島がない感じがする。俳句雑誌が自ら自己の限界を狭く区切ってしまうことによって損のような気がする。ではどうすればいいのか即座に答えられないが、例えば、文芸誌の中間的よみものというものが俳句誌にあってもいい。

例えば僕の師匠である川端康成は、来年の懸案 として「東海道」を小説に書きたいと云われたが、これなどは俳句雑誌が企画してしかるべきプランではなかろうか。ーー60年前のものだが今も通用する論である。晴夫はさらに

ーー詩人とは健全な市民として他者と中和しがたい何かを見につけた。あるいは、調和に必要な器具の何かを全く欠いているものである。だから、芸術活動によってそれを磨り減らしたり、或は補習したりするのである。--

ーー従来色々云われて来た詩人に対する俗説は全ての詩人の仮面に過ぎない事は茲に云っておきたい。
情に厚くて涙もろい人・・・・・・・・・・・嘘である。
頼まれるといやと云えない・・気が弱い・・云いたいことが云えない。・・・・・・皆嘘である。
もしもそんな人が詩人と称していたら、これも嘘である。そしてきっとその作品だってよく見れば嘘であろう。
1951年は嘘の詩人が追放されてほしい年だ。--

石鼎などは、まさに梅田晴夫のいう詩人の質そのもしかなかったのである。

麻布本村町 9

2008年5月13日 火曜日

なんとなく石鼎の最後の住居を追っているうちに、家のありかも間取りもつかめそうになってきた。コウ子が、手ごろな家が空いているからと、木下蘇子にいわれて、タクシーで見にゆく道筋を記録してある。

龍土町から材木町を抜けて有栖川公園の角を曲り、鷹司家の前を通り抜けると直ぐに左に折れてゆきどまりの前でくるまが停まった。

 この鷹司家というのが分からないでまた、携帯で荒潤三さんに問い合せた。先日は戦争で全部焼けたのかどうかを問い合わせて、荒さんは図書館に行って戦争焼失地図なるものを探してきてくださった。まったく、変な人に取り付かれてしまったと、思っているかもしれない。午後になって返信がきた。今のフィンランド大使館・・・と。最後の行き止まりのところは実際に先日、荒さんに案内して頂いた。

かなり近くまでは追い詰めたので今度は、須賀敦子の文章からその位置をさぐる。

高台の家の窓からは、冬の夕方、赤やうすむらさきに染まった空のむこうに、逆光のなかの富士山が小さく見える日があった。家に近い、もう暮れかかった光林寺の境内には、ささらを逆さにしたような欅のこずえがしらじらと光っている。すこし顔をうつむけると、ほとんど真下に、勾配を上手に使った隣家の庭があって、着物姿の小柄な老人が、腰に手をあてたかっこうで空を見上げていた。

この小柄な老人が石鼎である。この文章から、光林寺と須賀敦子の家を結ぶと石鼎の家が自ずと想像できてくる。その上に八歳の少女は近所にもの凄い蔵書を持つ家のマサ子ちゃんと遊びまわる。そのマサ子ちゃんの家というのが。

ーー私たちのまえの私道を三軒ほど奥に入った突きあたりの家に、---
ーー勾配に建っているために、じつは二階建てになっているーーー
ーーそのころ近所に空き家があることがわかった。その家の門は、私たちの家とはまったく関係のない、光林寺坂という私と妹の通学路に面していたのだったが、---
ーーある日マサ子ちゃんが、うちの庭から、おとなりの庭にはいれるかも知れないよ、といったのでーーー

こんな具合の文章の中から、おおよその位置がつかめてきた。楽しい作業である。

麻布と龍土町

2008年4月21日 月曜日

以前ブログにも書いたことだが、麻布本村町の石鼎の住んでいた場所を、突き止められないでいるときに、古書店で麻布本村町という大きな背文字を見つけて、それだけで買ってきた本。それが、麻布に住んでいた人の思い出のようなエッセイ集だった。

ツエッペリン伯号が昭和4年8月19日に東京の上空を通ったのも五歳のときに見ていた。第二次大戦のときには、青年団としていろいろなことに狩り出された話もあった。その著者は荒潤三さんという大正14年生まれ。健在なら、80歳は越しているのだが、もしお元気ならお目に掛りたいと思って手紙を差し上げたら、お元気で、麻布も案内できるということだった。

だが、私のほうがぐずぐずしていて、その時期を逸してしまっていた。今年に入って時候がよくなったので、よろしかったら案内しますというお手紙を頂いた。もうこのチャンスを逃すわけにはいかない。早速の連絡で今日、案内していただけることになった。

待ち合わせの場所は、しっかりハガキに地図が書きこんであった。南部坂入口というか、有栖川広尾口。ケイタイのアドレスも書きこんであったので、早速メールを入れてみたら、「了解、天気晴朗であるように」というお返事がきた。最後にお日様マークも入って。地図もそうだが、さすが早稲田理工学部出身のこなし方だ。

時間ぴったりにお見えになった荒さんは、信号の向うで私を見て手を振った。私が白いバッグとサングラスで行きましょう、といったのですぐわかったようだ。南部坂を上って、フィンランド大使館を過ぎたところに、目的の住宅街があった。わたしも、そこまでは一人で来ていたが、同じ番地の中に3本の路地が通っていて、広大な土地が116番地だったのである。

荒さんもその後、石鼎も読み、須賀敦子のエッセイも読んだようで、崖上になる住宅街の一番端が石鼎と須賀敦子の住んでいた家の筈だとおっしゃった。そこだとコウ子のいうとおりに谷底のように渋谷川があって、その向うの遥かに聖心女学院の塔が見えるのである。
同じ116番地でも、そこだけが、少し大きな邸宅だったようである。それ以外の116番地にある住宅は、昭和19年に類焼防止のために、疎開を強いられて、青年だった荒さん等が家を壊しに行ったそうである。

ついでなので、龍土町も歩いて頂いた。場所は地図では分かっていても、実際には分かりにくかったが、やっと確信をもてるまでに、突き止めた。土地が均されて高台は無くなっていたが、道がわずかにクリーニング屋さんのほうへ傾れていた。

最後に六本木でお茶をしていたときに伺ったのだが、その「麻布本村町」・「横綱の墓を訪ねて」「落語歌留多」の著書はみんな広告の裏紙を綴じておいたものに書いたのだという。印刷屋もそれでいいって言ったのでそのまま渡したのだそうである。やっぱし昔の人は違う。

石鼎の俳句論

2008年3月21日 金曜日

荻窪のカルチャー教室は一応初心者用ということではじめたので、基本的なことを言うに止まる筈だった。しかし、文芸というものは、初学の基本だけでは済まない問題を抱えている。例えば、「物で語れ」といういい方は、虚子の客観写生と同じ方法論だ。だがそんなに単純にはいかない。

      遅き日のつもりて遠きむかしかな     蕪村
      さまざまのこと思い出す桜かな      芭蕉
      湯豆腐やいのちのはてのうすあかり   万太郎
      朝戸繰りどこも見ず只冬を見し     原石鼎

こうした句を前記の論理に当てはめていくと難あり、という風になりそう。文学に初学も奥義もないのである。原石鼎はあまり論理家ではなかったが、作句の方法を自分の気持ちに沿うことを第一義にしている。

ーー文学的に最もよい俳句を作る、といふ、其「最もよい俳句」といふ観念の中には當然、在来の俳句に比してどこかに一歩新しく進んでゐるといふことが含まれてゐなければならぬ。而して斯かる条件が加わつてゐる以上、何處から何處までといふ既知の範囲から決して何等の拘束、制限をうくべき筈のものものではない。

それで、最初は、斯ういふ事柄は俳句に詠まれ得るか、又は俳句に詠んでも差支ないのか、といふ様な事に拘泥するよりも先づ自分の心に「面白い」、「慕わしい」と感ずることを句に作つてみることが第一であろう。そして、それが「最もよき俳句」になり得さへすればそれで十分ではないか。元来私は、事柄が俳句を作るのではなくて俳句の持つ形式と約束とが俳句を作らしめるのではないかとさへ思ふことがある。(俳句文学全集 原石鼎編)ーー この中のことに「斯ういふ事柄は俳句に詠まれ得るか、又は俳句に詠んでも差支ないのか、といふ様な事に拘泥するよりも先づ自分の心に「面白い」、「慕わしい」と感ずることを句に作つてみることが第一であろう。」という箇所が好きである。自分が面白いと思えなくては、創作をやる意味がない。石鼎の実作から出た言葉は確かな重みがある。

龍土町2

2007年11月23日 金曜日

原コウ子著「石鼎とともに」を読み返していたら、面白い箇所に行き着いた。面白いと言ってもきわめて個人的な興味である。以下の文章は龍土町に住んでいた場所をコウ子が辿っているのだが、「洗濯屋の前の高い崖の上にぽつんと建っていた。」の箇所がある。
             
                     * 
  ---龍土町の家は、六本木から電車線路に沿って乃木神社の方へ向かって歩くと、右側一連隊に向きあった三連隊の正門通りの一つ手前の通りの三つ目を左に折れた、洗濯屋の前の高い崖の上にぽつんと建っていた。勿論安普請であるが、南側の家主の石庭には楓の大木や珍しい植木が枝を張り拡げ、北側玄関わきの小庭を隔てた垣根越  しには、隣屋敷の栗だの柿だのの生物の樹が枝をのぞかせていてちょっと都会ばなれしていた。その上二階から見下ろすと洗濯屋の裏あたりから三連隊の土堤が見透かされ、小さい借家にしては珍しい環境で、麹町の家のようにどこを開いても人のくらしを覗くような気づまりはなく、伸びのびと青空を見上げられることに、わたしの肺活量が俄に増大する思いがした。ーーー
                   *

この洗濯屋とは、以前に書いた荒潤三さんから頂いた龍土町の地図に、「私の父親と同業のクリーニング店が52番地にあります。子供の頃行ったことがあります。」と書いてあったのを思い出した。まさにコウ子が書いている洗濯屋である。それがなんだというほどのものであるが、同じ空気を吸っていた人が健在というのも感動する話である。大正十二、三年のころだ。

この荒潤三さんは昭和四年にドイツの飛行船ツエッペリン伯号を見ている。八月十一日だったというから、石鼎も東京に出てきていたが、ホトトギスの周辺でこの飛行船のことは話題にならなかったようだ。荒潤三さんにコウ子の文章をコピーして送った。元気だといいのだが。 ににん

夜の蝉

2007年8月11日 土曜日

真夜中になっても蝉の鳴声が衰えない。たぶん蝉には眠るという行動はないのだろう。それはそうだ。脱皮してから生き永らえるのは十日も無いのだから、寝てなんていられない。
パソコンをやっている背中で突然一際はっきりと鳴き声がするので振りかえると、蝉が網戸にしがみ付いていたた。硝子越しに近々と油蝉の顔があった。

正面から眺めるとつくづく蝉の目が大きい。というよりも、しっかり瞳をガードするような露雫のような円い突起が二つあるが、それ全部が目なのか、円い覆いの下に瞳があるのか。とにかく表情がみえない。ときには別の窓硝子に礫の当ったような音がする。多分、蝉が明り窓にぶつかってしまうのだろう。朝になると仰向けに死んでいる蝉を何匹も目にする。

    いつち先になく蝉涼し朝の庭   石鼎

数年前に取材で出雲に出かけたときに、出迎えてくださった板倉氏の家で出会った句。地元の小豆澤禮の画集「原石鼎句抄絵」の中である。画集の中では、柿の幹に張り付いている蝉。正面からしみじみと眺めた油蝉と同じだ。掲出句の「いつち先に」とは一番先にという意味。鹿火屋誌では大正十三年三月号が初出。関東大震災の直後での作。晩年の身体が衰弱してからは、出雲弁で、コウ子夫人の通訳なしでは、会話が成り立たなかったと語る人は多い。掲出句もまた、震災のショックで石鼎は精神不安定な時期であった。そうした時期には、出雲弁に戻るのである。同じ言葉を使った俳句が、その年の五月号にも(いつちさきの初筍の小さゝよ)があるが、どちらも『花影』には収録されていない。

だが、昭和23年の「石鼎句集」・昭和43年の「定本石鼎句集」・平成二年の「原石鼎全句集」のいずれもが

     いちさきになく蝉凉し朝の庭

となっている。大正十一年の出雲生れの画家小豆澤禮氏はあえて、「いっち先になく蝉凉し」の表記を採用しているのは、地元のことば使いだからなのだろう。この画集は平成九年刊。当然、石鼎句集を見ながら、絵にする俳句を選択したのだろう。それでもあえて「いち先に」ではなく「いっち先に」でなければ、地元のことばではないのである。

当時の病弱な石鼎がいかにまわりから管理されていたか。そして、いかに石鼎を整えることに、弟子たちが奮闘していたのかがわかるのである。    (ににん)

広島忌

2007年8月6日 月曜日

  八月六日は広島に原爆が投下された日。広島の式典がテレビ画面に映し出されて朝八時十五分に黙祷が行なわれた。原爆投下のその時間、私はたしかにこの世に存在していた。しかし、原爆の被害を目にしたことはなく、情報も伝わらなかった。もちろん、当の広島市民だって何がなんだか分からなかったのだろう。 でも、原爆忌会場での黙祷の静寂な時間が画面に映されているうちに、涙があふれてくる。体験はないのだが、例えば井上光晴の「ツマロー(明日)」・井上ひさし原作の映画「父と暮せば」・そして井伏鱒二の「黒い雨」などで十分に、その悲惨さは想像できる。八月六日と八日、そして終戦のことも、石鼎はどう受け止めたのか。
昭和十四年ころから、石鼎はパントポンの中毒により、神経を侵され始めて、慶応病院に入院していた。退院してからも、また薬をこっそり入手して服用してしまう石鼎にコウ子は困り果てたのだろう。
騙すように連れていって、松沢病院に入院させた。そこで石鼎は病室のスリッパに書かれた松沢病院という文字を見て号泣していたというのだが、コウ子夫人もそうするしかなかったのだろう。
石鼎は己を律するということに、極めて弱かった。それは、学生の時に、二年も落第したことでも伺える。全句集でも十八年から二十三年に到るまで作品が抜けている。雑詠の選句も、高弟にまかせている。この句集を編んだのは、そうした経緯で、もう石鼎は立ち直れないだろうと判断したので、全句集編纂をしたのである。
関東大震災のときがそうだったように、戦争を怖がることにおいても並外れた恐れを抱き、昭和十六年十二月八日の宣戦布告は、ふたたび病状悪化の要因になった。俳句も作らないと言い出した。
むしろコウ子に終戦を迎へた開放感が次のような句になって第一句集「昼顔」のトップを飾っている。      飯のかほり口辺にあり鵙高音   コウ子

御飯を食べるという行為そのものが、当時は平和の象徴だった。

 本村町の地図

2007年8月1日 水曜日

やらなければ、やらなければと思いながら、すぐに数ヶ月が過ぎてしまう。以前古書店で「麻布本村町」というタイトルの本が目に入って、中身は確かめずと買ったのは、石鼎の住んでいた地名だったからである。大正14年生まれの著者荒潤三さんは健在だった。本村町も案内できるというので、お願いしようと思っていたが、私のほうがぐずぐずしてしまって、この暑い最中になってしまった
どうしようかとおもったが、やはり連絡をとってみた。本村町のあたりは坂がおおくて、この暑さではちょっときついから、と手書きの地図、それも、現代と当時の地図を送ってくれた案内するときに、私に渡そうと思っていたとのこと。

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著書の略歴で著者紹介 昭和25年早稲田大学理工学部土木工学科卒。55年東京都水道局退職。 さすが理工学部の人の書いた地図だと納得する緻密なもの。
ほかに調べたら「横綱の墓を訪ねて」「落語歌留多」、などがあって、お目に掛ったらいろいろなお話が聞けそうである。本村町を歩いてから、実行しよう。この本村町は現在消えてしまった町名である。
昭和37年、法律第119号により新しい住居表示が実施されることにより、本村町は、元麻布1・2丁目、並びに、南麻布2・3丁目の四つに分断された。

龍土町

2007年6月2日 土曜日

石鼎の二度目の新居になり、鹿火屋創刊の地でもある竜土町を訊ねる準備をしつつある。準備と言っても、誰か案内してくれる人があるわけではなく、麻布龍土町五十四という住所だけがたよりなのである。

よほど狙いをつけていかなければ、歩けない。例の古地図がインターネットから消えてしまい、コピーもとっていなかったのが無念である。
スパイ・ゾルゲの仲間であった宮城与徳が麻布区竜土町二十八、現在では港区六本木6−8辺り、六本木の旧防衛庁前の路地とあるからかなり近い位置である。そんなところから探ろうかな、と思っている。もっとも、その片鱗さえないほど変わっているのだが・・・。

     打水に浮き出て暮れぬ苔の花   コウ子

その竜土町で作った句である。
大正十一年作・『原コウ子全句集』・季語は「苔の花」で夏の季語。実際には苔は隠花植物だが、梅雨のころから白や薄紫の胞子を入れた胞子嚢が花と呼びたいような美しさになるのである。
「大正七年秋に石鼎と結婚、麻布龍土町に一軒を借り受ける。大家は植木職のこととで、庭は見事な苔むす石組であった。その苔の花を見て。」という作者の自註がある。
夕暮れの打水に色を深くした苔から浮き上がるように、苔の花もあざやかに甦った。(浮き出て暮れぬ)はそうした花のありようであると同時に、一日の暮れようとしている瞬間の感慨でもある。
とは言っても、いつものような一日であるに過ぎない。特別な事柄があったわけでもなく、ことさら振り返ろうと思ったわけでもない。ただ、打水に浮き上がった苔の花の鮮やかさが、一日の終るという意識を浮き上がらせて「暮れぬ」のことばを引き出したのである。

石鼎は妻であるコウ子を俳人にするつもりは全くなかったようなので、大正十年に創刊された「鹿火屋」に俳句を出してはいない。この作品は、創刊一年後の「鹿火屋」にはじめて発表した句である。ここから俳人原コウ子としての歩みが本格的にはじまったようである。                                                                          

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