2008年4月 のアーカイブ

世界俳句協会日本総会

2008年4月29日 火曜日

夏石番矢代表の第3回世界俳句協会日本総会に出席。議事終了後に全員の自作10句の朗読。そのあと近くの新宿の江戸一で懇親会。

知っているのは、夏石夫妻のほかは清水国治さん、秋尾敏さん、それに正津ゼミでご一緒の二川さんだけだったが、俳句と言う共通の場があるので、誰とも、話題はおのずとそこに落着く。

他者の作品を批判するのは容易いが、自分が一番の価値ある方向に進んでいることを説得させる論を展開する人はなかなかいない。俳句観は多方面に伸びているが、価値観が一つしかない、というよりはましである。

俳句が面白くない

2008年4月25日 金曜日

★俳句をはじめて その2 
或る日主宰に当月の鹿火屋の雑詠巻頭句を差し出して、これがいい作品というなら、私は俳句は面白くないかも知れないと呟いた。ほんとに、巻頭も次巻頭もその次の作品も面白いと感じなかった。お茶も飲めないような緊張感で、句会に臨んでいた私の豹変ぶりとでも言おうか入会して3,4年目だった。

今思えば、随分大胆な発言なのかも知れなかったが、真実、そこに並んでる俳句が面白くなかった。丁度新人賞なども貰ったし、主宰にしたら、ますます俳句の世界に熱中するだろうと期待した時期だ。たしかに、そうした賞を弾みに、結社に一段と深入りしていくのが、大方の新人のコースなのである。

当時の原裕主宰にしても、戸惑ったに違いない。「全部が面白くなくても、いいんだよ。その中で一句でも、感銘する句があれば。」と主宰がおっしゃたが、実際には一句も面白い句がなかったのである。だが、さすがにわたしも、それ以上のことは言えなかった。

急にわけもない絶望感が私を襲った。何に、といったらそれは俳句に、俳句の世界に、俳句の師へも。とにかく突然、自分を制御することが出来ないような泥沼、寝ていれば、そのまま深い谷底に落ち込んでいくような恐ろしさで、何度も身を起した。その後の四十代は、精神不安症のような明け暮れで漂泊していた。

友岡子郷著 『天真のことば(わたしの実感的俳句論)』 本阿弥書店

2008年4月23日 水曜日

  跳箱の突き手一瞬冬が来る 
   
友岡子郷といえば上記の句を思い出す。事実、作者自身も気に入っているようである。この句の出来たときの実感は今も鮮明だという。そうして、ハイデッガーは「存在の明るみ」と表現しているが、それは「物の見えたる光り」と同義ではないかと言うのも、実作者の実感である。

作者を随分古い人だと思ったが、そうでもない。昭和九年生まれであるから、多分若いときから俳句に関っていたのだろう。この著書は、これまで各誌に発表したエッセイを一集にしたもの。長い年月にわたるもので、いづれも俳句という現場に足をつけたことば。俳句の方向、実作の方法などなど、副題のとおりの実感的俳句論であるから、説得力がある。

たとえば、俳句結社についての言及は、岡田日郎の俳句結社の連衆とは類想集団の代名詞であり、主宰者とはその類想集団のもつ一切の発想をしぼりとって存在する第一人者ーーそして、そこが物足りなくて外へ出たものも同じ類想集団をつくるというような箇所を引用しながら、結社は主宰者を先頭にして、俳句を追求する場を築くもの。そして、つらい修業の道の向うに、これが真実なのかと感じるものが見えたときに個性が生まれる、と述べていることばがすんなりうべなえる。

実際、初心者は脚光を浴びると、自分は周りのものを飛び越えた才能があると思いこんでしまう。それが、友岡氏のように、「つらい修業の道の向うに、これが真実なのかと感じるものが見えたときに個性が生まれる」よいう道を踏んだ俳人は、決してそんなことを思うことがない。どんなに賞賛されるときがあっても、明日も食べられるのだろうか、という飢餓感に似た思いで俳句を作り続けるのである。 なぜかといえば、昨日の作品を追っても仕方が無いからである。

麻布と龍土町

2008年4月21日 月曜日

以前ブログにも書いたことだが、麻布本村町の石鼎の住んでいた場所を、突き止められないでいるときに、古書店で麻布本村町という大きな背文字を見つけて、それだけで買ってきた本。それが、麻布に住んでいた人の思い出のようなエッセイ集だった。

ツエッペリン伯号が昭和4年8月19日に東京の上空を通ったのも五歳のときに見ていた。第二次大戦のときには、青年団としていろいろなことに狩り出された話もあった。その著者は荒潤三さんという大正14年生まれ。健在なら、80歳は越しているのだが、もしお元気ならお目に掛りたいと思って手紙を差し上げたら、お元気で、麻布も案内できるということだった。

だが、私のほうがぐずぐずしていて、その時期を逸してしまっていた。今年に入って時候がよくなったので、よろしかったら案内しますというお手紙を頂いた。もうこのチャンスを逃すわけにはいかない。早速の連絡で今日、案内していただけることになった。

待ち合わせの場所は、しっかりハガキに地図が書きこんであった。南部坂入口というか、有栖川広尾口。ケイタイのアドレスも書きこんであったので、早速メールを入れてみたら、「了解、天気晴朗であるように」というお返事がきた。最後にお日様マークも入って。地図もそうだが、さすが早稲田理工学部出身のこなし方だ。

時間ぴったりにお見えになった荒さんは、信号の向うで私を見て手を振った。私が白いバッグとサングラスで行きましょう、といったのですぐわかったようだ。南部坂を上って、フィンランド大使館を過ぎたところに、目的の住宅街があった。わたしも、そこまでは一人で来ていたが、同じ番地の中に3本の路地が通っていて、広大な土地が116番地だったのである。

荒さんもその後、石鼎も読み、須賀敦子のエッセイも読んだようで、崖上になる住宅街の一番端が石鼎と須賀敦子の住んでいた家の筈だとおっしゃった。そこだとコウ子のいうとおりに谷底のように渋谷川があって、その向うの遥かに聖心女学院の塔が見えるのである。
同じ116番地でも、そこだけが、少し大きな邸宅だったようである。それ以外の116番地にある住宅は、昭和19年に類焼防止のために、疎開を強いられて、青年だった荒さん等が家を壊しに行ったそうである。

ついでなので、龍土町も歩いて頂いた。場所は地図では分かっていても、実際には分かりにくかったが、やっと確信をもてるまでに、突き止めた。土地が均されて高台は無くなっていたが、道がわずかにクリーニング屋さんのほうへ傾れていた。

最後に六本木でお茶をしていたときに伺ったのだが、その「麻布本村町」・「横綱の墓を訪ねて」「落語歌留多」の著書はみんな広告の裏紙を綴じておいたものに書いたのだという。印刷屋もそれでいいって言ったのでそのまま渡したのだそうである。やっぱし昔の人は違う。

山内尚 著 『やさしい魔法ホ・オポノポノ』  新日本文芸協会刊

2008年4月19日 土曜日

 昨日、丸ビル精養軒で姫路の山内尚さんから頂いた著書『やさしい魔法 ホ・オポノポノ』はちょっと変わった癒しの本である。もともと彼女は、小さな朗読会を関西、東京まで遠征して、行なってきている。

「ホ・オポノポノ」とはハワイの辞書では「幸福になる」「本来の姿になる」「繁栄」「といった、プラス思考の意味だそうである。ハワイのヒュー・レン博士というセラピストは、この「ホ・オポノポノ」の方法で行ったことも無い病院の人達を癒したという。

その方法は、相手に「ありがとう」「愛しています」「ごめんなさい」を繰り返すだけというシンプルなもの。それが、相手に届くことで、自分が癒されるのだという。すぐには、受け入れ難いものだが、それを直感的に受け入れたのが山内尚さんなのである。

「ありがとう」「愛しています」は彼女が天国にいる夫に繰り返している言葉だったからのようだ。ある意味で、彼女の生きる思想を確立した、というふうにも受け取れる。それがきっかけで、歩んできた軌道を書いているのが、「やさしい魔法ホ・オポノポノ」なのである。

講演しながら、朗読会をしながら、結構売れているらしい。簡単に言ってしまえば、「念じれば通じる」ということを真理と受け取れるか、そうでは無いかで、生きてゆく選択が始まっているのである

丸ビル 精養軒

2008年4月18日 金曜日

姫路に住むなおさんに、会う場所をきめて貰ったほうがいいと思って、場所の指定をお任せしておいた。そうしたら、丸ビルの中の東京駅のまん前が見下ろせる精養軒を選んでくださった。席も窓際が空いていて、向かい合った二人共に、しっかり真正面のレンガの東京駅が見えた。右手に、これも変わらない建物、郵便局本局が見える。

たぶん昔の丸ビルのときから、精養軒はあったのではなかったかと思うのだが、入ったのは今回初めてである。間口は狭いのだが、奥に4、50席のテーブルがあって、のんびりお茶するには、気持ちのいい場所である。

いつか、小冊子風の句集をどのくらいで出来るのか見積もりをお願いしたこともあったので、そのお返事がてら、ご自分の編集の仕事としても、積極的に受け入れたい旨を語っていた。おかげで、印刷事情や印刷の仕組みやら、いろいろ聞かせていただいて、参考になった。

「ににん」を依頼している印刷屋さんが、四の倍数ページよりも八の倍数ページのほうが価格が安くなるという話をすると、「それは良心的ですね」とおっしゃった。もともと紙は8ページ用になっているのだそうである。だから4の倍数になる冊子は最後の二頁を印刷機から、一冊ごとに引き抜く作業が加わるらしい。そうか、そこで無駄も出るんだ。

「ににん」はワードのデーターを印刷所に送っているが、テキストで送ったほうが、印刷屋さんは改行などが明確になることも、はっきりわかった。そういえば、マックを使っている「ににん」の木佐梨乃さんはしっかり版下状態で原稿を送ってくる。このほうが印刷屋さんが助かるはずです、言っていた。

現在の結社誌の費用は、それぞれが、ほんとうにまちまちな値段を支払っている。どこが本当の値段が分からないのが、実情である。なおさんがこれから仕事をしていくなら、その同人誌のような小さな部数の適確で明瞭な価格を打ち出したら、仕事に繋がるのではないかというアドバイスをしておいた。30代の子連れキャリヤウーマン。カッコイイ。

今朝の一句 村上譲

2008年4月17日 木曜日

桜咲くところは風の吹くところ    句集 「嘘のやう影のやう] より

月に叢雲、花に風。好事にはとかくさしさわりが多いたとえだが、実際にも花見の
ときはよく強風が吹く。すぐに思い出すのは、井伏鱒二の漢詩訳詩

    はなにあらしの

    たとへもあるぞ

    さよならだけが

   人生だ

の一節。坂口安吾は小説『桜の森の満開の下』において、満開の桜の森は風もないの
にごうごうと風が吹いている、と書き出している。卓抜な逆説だが、掲出句もこれに通じる。

四月四日  「愛媛新聞」「信濃毎日新聞」 

山田弘子著エッセイ集『草摘』     角川SSC刊

2008年4月16日 水曜日

山田弘子氏のお名前をはっきり意識したのは、ふらんす堂の現代俳句12人集の中の1人だったからである。私は句集「蛍袋に灯をともす」で同じシリーズに入集させて貰っていた。

次に山田氏に出会ったのは何のときだったか。坐った席の隣にいらっしゃった。何でそうなったのか、何んでその話をしたのだったか。私は孫を話題にしていた。山田氏が「賢いわねー」とおっしゃったのだけを鮮明に覚えていた。その言葉で美しくちょっと近寄り難いような印象だった山田氏を、身近かにしたひと時だった。

今回エッセイを繰っていくと、東京冒険旅行という項目があった。二人のお孫さんへの東京案内の誘いの手紙から始まって、少女の喜びそうな六本木や渋谷への行程が細かに書かれていた。急にいつかの「賢いわねー」という言葉が思い出され、さらに身近に感じられた。

『円虹』主宰のエッセイ集の内容は、出会った俳人、家族・雑誌発行・幼い頃の思い出などなど多岐にわたる。神戸新聞・円虹・ホトトギスなどに書いてきたものを一集にしたものだが、淡々とした構えのない叙述が、人柄を感じさせてくれた。

山桜吟行

2008年4月13日 日曜日

sakura100.jpg
滋庵さん計画の恒例お花見旅行、昨年は吉野天川の奥の栃尾村の一本の八重桜のために二泊した。その旅の行程はブログに書いた。今年は成田の印旛沼の吉高の山桜見物を計画して頂いた。天川村の桜にしても、今回の山桜にしても、名の知れた桜ではない。それなのに、どうして、こんな桜を見つけたものだと感心してしまう。

集合は京成成田駅に11時。それから昼食に行くというのだったが、成田の参道は開山1070年とかでお祭騒ぎ。宿に荷物を預けてから鰻屋へ。一番先に到着した私が暖簾を潜ると「満員です」という声がした。滋庵さんのことだからきっと予約をしていると思ったら、案の定名前を言うと二階へ案内してくれた。

メンバーは昨年共にした顔ぶれが半分、それに新たな人も加わって、まずは夕桜を見るために宿の車で送って貰った。宿は成田山の参道に近いところ。桜はそこから20分くらい車で入った山の中。道中に印旛沼が右に左に現れた。車を下ろされて15分ほど山道を登ったところでまわりに人家は数軒。

桜は個人の所有の土地にある。見事に樹相の整った桜は300年ほど経たものだという。山中を平に開墾した畑の真中にそれはどっしりと枝を伸ばしていて、少し離れて眺めると、まるで花笠を地上に置いたような形になっていた。

翌朝は6時にまた車で朝桜を見物。宿にとっては少々手間のかかる客だったかもしれないが、親切に案内をしてくれた。帰ってきてからの朝食も、桜をみた興奮が覚めやらない。しん八さんの食欲が高校生並。御飯が運ばれてくると、「味噌汁は」とすかさず声を上げたのもしん八さんだったかもしれない。そう、昨日の昼食の鰻屋では鰻を食べ終わってから、肝吸いが運ばれてきたのだ。とにかく贅沢な旅だった。

sakura32.jpg

 

お茶が飲めなかった。

2008年4月11日 金曜日

★俳句をはじめて その1 
 
なにかの話の延長だったか、句会でお茶が飲めなかった話になった。生まれて初めて参加したのは鹿火屋の句会。その席で、目の前に配られたお茶を手に取って口まで運ぼうとするのに、口まで茶碗が届かないのだ。茶碗が口まで運べない、と言ったほうが分かりやすいかもしれない。

仕方がないから茶碗をひそかに、テーブルに置き直した。それからまた暫くしてお茶碗を口の高さまで運ぶのだが、口に届かない。そうしたら、Sさんが「そうそう、なんだか首が硬直して飲めないことがあるのよね」と言った。そうか、首が硬直してしまうのか、と思ったが、最後には茶碗は空になっていたと思う。

なにせ、緊張していた。机に向かい合わせに坐った人達は鹿火屋誌上で上位で活躍している大先輩ばっかりである。腕がそれ以上に引き寄せられないのか、首が前に曲らないのか。まさに呪縛のようなものだった。そんなことが半年くらい続いたかもしれない。誰も回りの人は気が付かなかったが・・・。

目の前に坐った人で一番印象的だったのは、現在の『山暦』主宰夫人である。牡丹のような印象がある。ふくよかなどというのはあまりに控えめ、豊満な方だった。もう亡くなってしまった。『にいばり』主宰の夫人は十代から、鹿火屋に参加していた人だとか。とにかく天真爛漫に家のこと、子供のことなどを、前後左右の人にしゃべっているのを、私はそこに存在しないごとく坐っていた。

それから数年のち、もうお茶の呪縛からも逃れて、ぼつぼつ見知った人も増えてきたが、相変わらず、往きも返りも1人だった。会場は東京タワーの直ぐ隣、機械振興会館とか言う名称のビルの中だった。浜松町の駅から増上寺の山門を潜って、本堂の脇から東京タワーの真下に出るのだが、寺の端に並んでいるお地蔵さんの風車がいつも賑やかだった。

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