2006年11月 のアーカイブ

老衰

2006年11月30日 木曜日

(109)・・老衰・・
近所の家のともさん、という猫が病気だいう。
「どうなの、ともさんの具合」
「老衰だっていうのよ」
開けてあった縁側から覗くと、ともさんは、座布団の上に横になっていた。というより、腰が立たないらしい。子供のない夫婦で大事にしていた猫だった。
座布団が、猫の身丈に合っていて、タオルが掛け布団代りのようにかけられていた。横になるというのは、人間で言えば寝ることを意味していたが、猫もまさに、横になって寝ていた。
「トイレとかはどうするの」
「時間で外に、連れ出すのよ」
ほんとうに、腰が立たないのだ。
当のともさんは、と言えば、そんな私たちの会話が聞えているのか居ないのか、目だけが動いていた。
その生活が慣れてしまった、というように、起き上がろうともしないで、鷹揚に構えていた。
猫は死ぬときには、人の目に触れないところ身を隠すというけれど、これではそれも出来なだろう。
(110)・・老衰・・  
ともさんの家と我が家とは、数分の距離だったが、ルリと面識があるのかどうか分からなかった。相変わらず、ルリは我が家の前の道を己の縄張りであることを主張していたから、たとえ、ともさんが近寄ってきても、追い払っていたかもしれない。
でも、黒の斑の子猫が生れたことがあることを思い出した。ともさんだけは特別だったなんてこのも考えられないわけではない。いつだったか、一週間ほど家出をしていたことがあったが、そのときともさんはどうだったのか。
間もなく、ともさんはいなくなった。
食事もしなくなったので、夫婦で見守っていたのだが、真夜中に死んだのだという。
そんな話を、立ち話で聞いた。
「ともさんは、何年くらい居たの」
「13年くらいだったかしら」
「えー、猫ってそんなに長生きするんですか」
ルリは、我が家に棲みついてから一年ほどだから、まだ2,3歳。
111・・ともさん・・  [千夜一夜猫物語]  
飼い猫が死んだといわれたら、
「ご愁傷さま」
なんていうのだろうか。
「それは‥‥」
くらいしか、私には言えない。
幸い、もとさんの飼い主は淡々と語ってくれたので助かった。
涙なんか流されたら、なんと言っていいのか困ってしまうだろう。
人によっては、猫のお葬式をする人がいたりするけれど、なんだか、おままごとのように滑稽に思える。

「あらカッコーだわ」
そう言いながら、ともさんの飼い主は声のほうへ目を移した。
このあたりでは、五、六月の間だけ鳴くのである。
おかげで、ともさんの死んだ話はおしまいになった。

芥川賞

2006年11月30日 木曜日

(100)・・吉行淳之介・・
芥川賞作家というものを初めて意識したのは吉行淳之介だった。『驟雨』という短編で吉行淳之介が芥川賞を受賞したのが高校生のときだったからである。高校生のときたったから、というよりも、私が高校生のときに、『驟雨』が芥川賞に選ばれ、それを国語の教師が推奨したからだ。
だから、私にとって芥川賞を認識することと吉行淳之介を認識することが同時だった。
今考えたら決して高校生に推奨するような作品ではないかもしれない。しかも教師はそれを私に貸してくれた。雑誌からその分部だけを剥ぎ取って綴じてあった。
文学の最初の入り口が退廃的なものだったことが幸いなのが不幸なのか分からなかったが、とにかくそれからは、吉行淳之介の作品は大方読んでいた。
数年後、その吉行淳之介が宮城まり子を伴侶に選んだのだ。宮城まり子は歌手だった。少し舌足らずのしゃべり方とその仕草が猫のようだ。美人というほどでもなく、歌手としての人格以外に知らなかったが、どうしても淳之介と並ばせるには違和感があった。とにかく吉行淳之介は知的な美男であったからだ。
「どうして、相手が宮城まり子なのよねー」
「男の目はちがうのよ」
私はどうしても認められなかったが、友人はあっさり肯定した。
別に猫のようだから気に入らないのではない。吉行淳之介と並ばせるのが気に入らなかったのだ。

101・・吉行淳之介・・
ついでに書けば、宮城まり子が気に入らなかったら、誰ならいいのかと問われても、即座に思いつく女性はいなかった。ただただ、宮城まり子に違和感を感じただけなのである。
だが、淳之介が亡くなってまもなく、彼に連なっていた三人の女性がつぎつぎに、淳之介とのつながりを出版した。一番早かったのが、、愛人・大塚英子の『「暗室」のなかで 吉行淳之介と私が隠れた深い穴』(河出書房新社、1995年)だった。彼の小説に出てきそうな、という意味では淳之介らしい選びかたの女性だったが、本は面白くなかった。その女性の風貌もいかにも似合いすぎてつまらなかった。
それからまもなく、同居人・宮城まり子が『淳之介さんのこと』(文芸春秋、2001年)という距離の置き方で、発表しているのが、理知的であった。一番最後に本妻・吉行文枝が『淳之介の背中』(新宿書房、2004年)を発表している。

(102)・・吉行淳之介・・
吉行淳之介の小品に猫を扱ったものが二点ある。
一つは、「犬が育てた猫」というエッセイ。この作家特有の乾いた筆致が快い。
淳之介の家に犬が飼われていたが、その犬と顔を合わせるのは一週間に一度硝子越にというのだから、私同様に、動物好きというタイプではなく、距離を置いて眺める冷静さを保っていた。
それも、淳之介らしい。このエッセイで知ったことなのだが、パトカーや救急車の音が昭和四十年ごろからウーウ−からピーポーに変わったようだ。犬はいつもそのウーウーというサイレンに反応してウーウーと声を合わせて、近所中の犬の合奏になるのだった。
ところが、四十年ごろからウーウーからピーポーに変わって犬が戸惑っていたと、導入部で笑わせる。
その飼われていた犬に捨て猫が寄り付いて、犬も子供のように慈しんで餌を分けていたので、痩せた野良猫が丸々と太ってきた。そんなところは、我が家のルリがモルモットを慈しんだのに似ている。動物にはそんな異種同士の愛情の発揮の仕方もあるのだ。
その猫が、外出から帰ると、ドアーの前に忠賢ハチ公のように、狛犬のように坐っているのだが、ドアーを開けると、そのまま中に入っていくだけで、愛想もない。それも猫の特徴だと言っている。愛想はないが、淳之助のところの猫は、決してテーブルの上の魚などを盗まない。
きっと飼い猫になると、すべての猫はどこかで節度を持つものなのだ。

(103)・・吉行淳之介・・
もう一つの作品「猫踏んじゃった」は、原稿用紙20枚ほどしかない短編小説。エッセイ「犬が育てた猫」のほのぼのさとは反対に、ホラー性を帯びていた。
主人公三上宗一は真夏の焼けるような道を運転しているとき、脇を走っていた自転車に倒れこまれた。ぶつけた感覚もなかったが、降りて「大丈夫ですか」と声をかけた。
だが、それに応えず男は自転車を起こしながら、その暑さだけとはいえない汗をびっしりと額に流しながら、逃げ去るのだった。自分がぶつけたのではないとほっとしたのだが、目を車道に移すと、猫が死んでいたのである。
この描写がまずホラー的なのである。粘液質の黒いものが一面に広がる、それが何であるかを判断できたのが、猫の顔が転がっていたからだという。その猫の顔がいかにも小さすぎるように思えるほど、その黒い粘液質は大きく影のように広がっていた。
愛猫的な人間なら別の情感を手繰り寄せるのだろうけれど、その大きな影のような猫の轢かれ方を、ーー多分ゴムの膜につつんだ羊羹があるが、そのゴムの玉を掌にくるんで、ぐっと力をこめると、中身が勢いよく弾け出る。そのように、不意に大きな力が加えられた内臓が・・・−−と、実に非情な想像力で情況判断していた。その猫の轢かれる瞬間の様子を、自転車の男は見てしまったことに気がついたのである。心がうつろで、途方にくれて、主人公の問いに応えることも忘れて逃げさったのである。
多分自転車の男が倒れなければ、主人公三上宗一も、猫の死んだことに気がつかないで通り過ぎてしまったのだろう。それ以後、巷間の酒場、女の家など、所を選ばず真夏の路上の影絵のような猫の轢死の内臓の広がりが、三上宗一に纏いつくのである。
吉行のどの作品にも通じる、ちょっとシニカルな、厭世的な、乾いた文章が読ませるのだった。

(104)・・宮城まり子・・
宮城まり子を吉行淳之介と並ばせるのには気に入らなかった書いたが、まり子の業績は只者のできるものではないことは、十分に知っている。
ーー1927年東京生まれ 。ビクターレコードより「ガード下の靴みがき」で歌手としてデビュー。東宝劇場出演中スカウトされ、ミュージカル等の舞台に立つ。1958年「12月のあいつ」にて芸術祭賞受賞。1959年「まり子自叙伝」にてテアトロン賞受賞。その後、舞台、テレビと活躍を続ける。 1968年に私財を投じて肢体不自由児の養護施設「ねむの木学園」を設立活動して、数々の業績を残して今も活動中である。ーー
まり子著「淳之介さんのこと」によれば、「ねむの木学園」設立は淳之介と同居をしてからの仕事なので、設立にはついては淳之介にも相談している。
愛にはいろいろあるけれど、まり子のそれは、淳之介と同じ目線のなかに立つのではなく、仰いで暮す生き方である。淳之介の視野に適う生き方を選ぶ、というのが、彼女の人生になったように思える。

(105)・・宮城まり子・・  [千夜一夜猫物語]  
卑屈になるというのではなかったが、淳之介の視野に適う生き方を選ぶ、ということが、顕著に現れている箇所が、彼女の著書「淳之介さんのこと」にある。
「はじめての監督」と題する章である。
ねむの木学園の子供をテーマにした『ねむの木の詩』という映画を作り、文化庁の選ぶ優秀映画十編の中に選ばれ一千万円を獲得した。そのときの感想の分部に

ーー私の心は、映画を撮りながら淳之介さんを思っていた。饒舌はやめよう、甘くても、硬いコップでいよう、つまらない、同情はナシ、みんな淳之介さんの心だ。淳之介さんが見ている。ーーと

このーー淳之介さんが見ている。−−という箇所には思わず立ち止まる。正確に言えば見られている意識を持ちながら暮しているのである。淳之介ならどうするだろう、という生き方をしているのである。

(106)・・永井荷風・・   
教師が突然その年度の芥川賞作家吉行淳之介を推奨したのは、その教師そのものが、永井荷風に心酔していたからである。しかも、永井荷風の精神を継ぐのが吉行淳之介なのだという。さらに永井荷風は吉田兼好の精神を継いでいるのだという。そこまで遡るとおぼろげながら、言わんとする精神が理解できるのである。
自分の志向を臆することなく語る熱っぽさは、思い出してみれば教師の若さだったのかもしれない。吉田兼好も吉行淳之介も永井荷風も読まない生徒も、その熱気に感化されていた。
教師は自分の生き方を、自分の志向する先人を示せばいいのである。
一人が一人のあとを辿れば、人間らしい歴史は築けていけるような気がする。
宮城まり子が吉行淳之介の視線に適う生き方を選んだように。
教師が吉田兼好、永井荷風、吉行淳之介の精神を追う生方を選んだように。
残念なことに、淳之介の精神を継ぐ作家が、以後に現れたのかどうかを語り合う機会に出会わなかった。

辛夷

2006年11月30日 木曜日

95)・・辛夷・・
辛夷は欅と並ぶような大木だった。ここに住むまで知らなかった花だ。
辛夷という文字にしても、突然つきつけられたら読めなかっただろう。
花が咲き始めるのは、沈丁花ガ咲いて、その匂いに馴れたころである。
ある日突然、晴天の中の白い光となって開花するのだった。
それからは、毎朝歯を磨くたびに辛夷の樹へ目をやった。一片の白い光は日毎に増えて、一樹に花を盛り上げていった。
その大木が満開の状態になるのには一週間か、それ以上の日にちがかかる。もうこれが最後かなと思うほど花を盛り上げてから、まだ咲いていない枝があったとばかりに、隅々の枝の開花を促すのだった。
東向きの我が家から見る辛夷は、太陽を背負って、油絵を思わせる重厚な色合いを見せた。その花の重なりは、飛び立つ寸前の蝶の大群のような生々しさを感じさせた。花期が特別長いのは、寒暖を繰り返す季節に戸惑いながら咲くせいかもしれない。

(96)・・辛夷・・
辛夷は散るのにも、日にちを費やす花なのである。
散りながら、芽吹いてゆくらしくて、白い花の少なくなった分、緑が一樹に纏うようになる。そのうち、大方の枝々に緑色が纏う頃には、ところどころに残った辛夷の花の白さが、余計に目だってくる。それも、次第に少なくって、一つぐらいしか残らなくなる。一つといっても、それは私のほうから見える位置の樹相だから、裏側の花の付き具合はわからない。窓から見える位置の花がひとつだけ残っているのが、妙に気になって、その頃になると、毎日一度は眺めていた。
(97)・・辛夷・・
辛夷の花に気をと取られているうちに、毎年、周りの木々も、煙のような緑を漂わせているのである。
それは、おもいおもいの衣装を纏って、今舞台に立ったかのような佇まいであった。
雑木林の一番美しい時期である。
その中で一際濃い緑色が、辛夷の木である。
その煙のような淡い緑色に見とれているうちに、最後の辛夷も消えていた。
そのときになって、その数日が、実に穏やかな日和であったことに思い至るのである。

(98)・・辛夷・・
2,3分でゆけるバス停まで二通りの行きかたがある。
その一つが、神社のような農家の私道を使わせてもらって、雑木林の下を潜っていく道である。
どちらが近いというのでもなかったが、私は、或る日その農家の私道を抜けてバス停へ向った。
バス道路へゆく曲がり角に、冬の夜になると灯りを見せる家があって、その裏手に、何時もみている辛夷の大木がある。
辛夷が散りつくした或る日、ふと其処を見るとも目がいった。白いはずの辛夷の花びらは、赤みを帯て地面いっぱいに散っていた。
咲いているときには見えない花びらの付け根の赤さが、木から離れて現れるのである。
その赤さがなんだか異様な痛々しさに見えた。

(99)・・辛夷・・
散っている辛夷の花びらの赤さに気がついてみると、急に林の中の小路に一人で居ることが心細くなった。あたりの黒土の暗さにのせた花びらだけが、浮き上がるように白く赤く、周りの暗さを押し広げていた。
そのとき、その花びらの敷き詰められた空間に、のそりと動くものがあった。猫が入ってきたのである。痛々しい辛夷の花びらの敷き詰めれられている空間には犬では似合わない。そのことを、天地をつかさどる神が知っていたかのようである。
猫は、自分のために敷き詰められているかのように、ゆったりとその場所に留まっていた。
縞柄がよく見るとルリに似ていた。いや、そこにいるのはルリだった。
なんのために居るのか分からなかった。「ルリ!」と呼んでみたが、聞えない振りをした。
私たちには聞えない車の音を、遥かなところから聞き取る猫に聞えないはずはないのである。
二度ほど呼んでみたが、私の方を一瞥もしなかった。
まるで、辛夷の下がこの世の外側であるかのように。
「なによ!」と私は呟きながらバス停へ走った。

冬日和

2006年11月30日 木曜日

93・・冬日和・・
朝は窓から見える欅の影が、家の中に倒れこんだ。その枝影の中に動きまわるのは、小鳥たちの影だ。外は枯れ枯れの風景だが、部屋の中に敷かれた欅の影は賑やかだった。
ルリはその欅の網目模様の真中に座り込んで、時々、動く鳥影を前足で押さえようとしていた。
そんなルリに留守番をまかせて外出した。
カモメちゃんが古墳見学に付き合えというのだ。お弁当は作ってあげるから、という。
なんだか不思議な人だ。結婚は悔いているのに、家事は手を抜かない。

94(94)・・春・・
去年の春は、あれほど家を雄猫が取り巻いて異様な声をあげたのに、今年は、いくら季節が過ぎても雄猫が寄ってこない。寄ってこないから、ルリも外に出たがらない。あの騒ぎはなんだったのか。子宮を取ってしまったことが、雄猫に分かったとしか思えない。
家の内外で、雌と雄の気配が分かり合うとすれば、嗅覚なのだろう。間違って、一匹くらい寄ってくる雄猫はいないものだろうか。猫、いや動物の世界にはプラトニックラブなどという感情はないようだ。
ルリもまた、子宮がないことで、発情期が訪れない。極めて平穏な春がやってきた。
この季節の私をわくわくさせるのは、欅より遠いところにある辛夷の大木が花をつけ始めることだった。

平林寺

2006年11月30日 木曜日

(89)・・平林寺・・    
巡らすに蝌蚪の水あり平林寺  作者失念

真冬の寒林が好きである。近くの平林寺の裏手には、武蔵野の雑木林が保護されていた。
越してきたのが、1964年ごろ。その平林寺の裏手の雑木林の真冬は、全く木の葉を落しつくして、向こうが見通せるのである。遥かを猫が歩いているのさえ見落とさない。その透明感が好きだった。
冒頭の句は私が俳句というものに、少し関わったときにはじめて覚えた句である。平林寺を知った頃でもある。なんだかすんなり入ってしまってわすれられない。好きな平林寺を詠んでいるからでもある。
こんな俳句を覚えたのは、やはりここに移り住んだ頃、友人が俳句でもやろうよ、と言って『馬酔木』という雑誌を見せてくれたからである。
当時(1967年ごろ)はその雑誌が我が家の町の書店にも売っていた。
冒頭の句は、その本で見たような気がしたが、作者は失念してしまった。だが、平林寺へ行くたびに思い出す。「蝌蚪の水」の水とは、多摩川から引かれてきている野火止用水の流れである。

90・・悪筆・・
馬酔木に投句していた、月日のあいだに、そこの通信制の添削指導を何度かうけたことがある。
中堅どころの今もまだ健在の俳人である。その俳人が、私の添削原稿に
ーーこんな乱暴な字で投句をしないようにーー
と添え書きがついてきた。
俳句を辞めてしまったのは、その添え書きのせいではない。乱暴に書いているつもりはないのであるが、あまりな度を越した悪筆だからなのだろう。
これに似たことが、高校生のころにもあった。答案用紙なんて、悪筆の上にも悪筆になったしまう。
ーーもっと丁寧に書かないと、大学受験のさいには不利ですよーー
という親切な添え書き付きで戻ってきた。
怠け者の私は、そんなに言われても、一念発起して、字がきれいになるようになどという努力もしなかった。

(91)・・入門書・・

季節を選ばずよく娘を連れて平林寺に出かけた。
別に俳句のために訪れていたわけでもない。
俳句を本気でやろうと思ったことはなかったから、投句に間に合う五句を作るのがやっとだった。当然、何時も1,2句欄だが気にもしなかった。
だが或る日、秋桜子の俳句入門を読んでみたら、毎月30句ぐらいは作らなくては勉強にならないというくだりが目に入った。それじゃ、ぜんぜん及ばないわ、と思ったら、さらに俳句から遠ざかった。あるときの締め切りになっても三句しかなかった。
当然そんなのが選ばれるわけもない。
俳句は直ぐに止めてしまったが、平林寺は飽きなかった。

荷風

2006年11月30日 木曜日

(107)・・永井荷風・・  
迂闊にも、吉田兼好から、永井荷風へ、そして吉行淳之介へと受け継がれた精神の、その後の作家を、高校の先生から聞きそびれた。
しかし、一度だけ手紙を出したことがある。
何処にも荷風ファンがいるものなのである。知人が、昭和二十年の終戦直前の戦火を逃れて、岡山に暮した荷風の足跡を辿ったのである。その取材記事を年賀状も滞っていた先生に送った。
何時ごろの生徒だったかも思い出したのかどうか‥。

ーー(もうそんな、作家に興味はないよ)なんて言わないでください。今だに先生の影響で荷風も淳之介も読んでいるのですから。−−

と言うような内容だったかと思う。先生からは、丁度、横浜の文学館で荷風展を見てきたところです、という返事とともに、住んでいた家の見取り図が手書きで描き込んだ、長い手紙を頂いた。
その手紙を出すときにしても、淳之介に連なる作家を見つけたのかどうかを聞くのを思いつかなかった。かえすがえすも残念なことであった。

(108)・・永井荷風・・  
最近ペンクラブの会場で、会長の井上ひさし氏に出会うたびに、似ているなー、としみじみ眺めてしまう。間近く見れば見るほど、その教師に似ているのである。当時はまだ30歳にもなっていなかったのではないかと思うのだが、10代の高校生には今の井上ひさしくらいの年輩者に見えたのである。
私に、荷風と淳之介を教えてくれた教師も小柄だったからである。
井上ひさし会長と並んで撮らせて貰いたいなーと思っているところである。そうしたら、同級生に見せてあげたいのだ。憧れるような風貌でもなかったが、何故か教師は、男生徒も女生徒も好感を持っていたような気がする。

モルモット

2006年11月29日 水曜日

(86)・・モルモット・・  
連れ合いが、兎のようなものを抱いてきた。夜道で目の前に飛び出してきたのだと言う。
「うさぎ?」
「耳の短い兎なんていないよ、モルモットだよ」
そう言われてみれば、兎ほどの大きさだが、顔は鼠に似ていた。
「どこかで飼っていたんでしょうね。ほっとけば帰るんじゃないの」
以前、文鳥を逃がしてしまったときに、鳥籠を軒下に吊っておいたら帰ってきたことがあるからである。
「どうかなー」
連れ合いばかりがよく小動物を拾ってくる。
ルリが覗きに来た。このくらい大きければ、ルリが襲うこともないだろうと思ったが、念のために、「ダメヨ、を繰り返した。
ーーわかっているよ、それよりまだ夕飯食べていないよーーとばかりにいつもの、いつも食器を置く位置に座っていた。
ひとまずは、笊でも被せておけばいい。明日は、「モルモットを預かっています」と書いて、屏に貼り付けておくことにした。

(86)・・母性・・    
何時もの場所、何時もの食器に夕食を入れた。
魚のフレークをご飯にまぶしたものなので、モルモットも食べるのかな、と思いながら、食器に近づけてみた。
空腹だったのか、「頂きます」の儀式もなしに、わき目も振らずに食べ始めるのだった。
ルリはと言えば、それを、後に控えて見守っているような、順番を待っているような、控えかただった。食欲が今日はないのよ、というわけでもないのだと思うが‥‥静かだった。
まさか子猫だと思っているわけではないだろう。
たまには意地悪をして、食べている最中のお皿を取り上げてみたことがあるけれど、
そんなときは、こんな風におとなしくはしていなかった。唸り声をあげて怒ることもある。
モルモットも他人の家、それも先住者を差し置いて、遠慮することもなく食べていた。動物同士の秩序も不思議である。

暫くルリにモルモットを預けておいた。というよりも、ルリがまるで吾子のように嘗め尽くすので、引き離すわけにはいかないのである。娘も抱きたいようだったが、あまりにルリが慈しむので、抱き取る隙がなかった。
ところが、モルモットのほうは、あっさりしたものである。そんなルリの体温が鬱陶しいとばかりに、ルリの下から這い出して、長椅子の間に潜り込んだり、反対から出てきたりして動き回った。もしかしたら、自分の居場所を探しているのか、見慣れぬ家の雰囲気を探っているのか、落ち着かなかった。
ルリはといえば、部屋の隅で、それを見守る母親役を演じていた。
今夜は何に入れておけばいいのか、探してみたが、モルモットを入れておく籠などあるわけがない。文鳥を籠から出すわけにもいかないし。
連れ合いが、籠を伏せた中に入れて、上から本を載せておいた。

92・・飼い主・・
夜になって家族が揃うとひとしきりは、籠から放してあげた。飼う気がないから、未だにモルモットの籠はない。餌もない。ルリに上げるために用意した食器から相変わらず、モルモットが先に食事を済ませるのである。
その間、ルリは必ず後に控えているのだ。あきらかに、子供の食事を見守っている母親の姿だ。三日経っても持ち主は現れなかったので、
「困ったわー、文鳥がいて、モルモットも飼わなければならないなんて大変じゃない」
そうは言ってみたが、実際の餌係りは連れ合いである。
人並みに心配するのは、なんだか可笑しいような気もしてきた。
それでも、家の中にそんなごちゃごちゃ居るのは鬱陶しいではないか。
寒さは厳しくなるばかりだったから、おき場所も考えなくてはならない。
我が家に懐きはじめて、食事の場所に誰かが立つと、餌を呉れるのかと思うらしくて、喉の奥のほうからクークーというような声を出す。
飼い主が現れたのは四日目だった。寒林の向こうの家よりもっと遠いところから逃げ出してきたのだ。
我が家にモルモットの居ることが分かったのは、張り紙を見た友人が教えてくれたからだとのこと。大きな菓子折りを置いていった。
モルモットが仮のものだったことを、娘もルリもわきまえているようだった。
やれやれ

いじめ

2006年11月29日 水曜日

(87)・・いじめ・・    
小学校の娘が学校から浮かない顔で帰ってきた。気をつけていたら三日ほど続いた。帰ってくるとカバンを置いて、机から離れないので、なんだか真面目になったのか、あるいは宿題がたくさんあるのかな、と思いめぐらしてみた。
だが気がついてから何日目だったか。
「ルリもひとりぼっちなのよね」
と、言っている娘の言葉が耳に届いた。
仲間はずれになったみたいだ。耳に入った言葉を確かめると、ワー、とばかりに堪えていたものを吐き出すように泣き出した。
どうしてそうなったかも聞かなかった。仲間はずれは何にもまして忌忌しき問題だからである。
私は、近所の娘の遊び仲間の家に出かけた。
子供の靴がいっぱいだった。
そこの主婦に訳を話すと、遊びに来ていた子供達を、奥から呼び寄せて事の次第を問いただしてくれた。
わが娘がカバンに落葉を入れたのが、最初の原因のようだった。
一緒に連れてきた娘もそれは認めていた。
「上がって一緒にあそびなさい」
と、主婦が言ってくれて、とりあえずは一件落着。
「よく言い聞かせるから、一緒に遊んでね」
と言い残して家に帰った。
シンデレラの継母はこんなとはしてくれないわよ、と娘に言ってやりたかた。
ルリもたまには役に立っていたのだ。

文鳥も猫も娘も・

2006年11月29日 水曜日

(81)・・文鳥も猫も娘も・・   
文鳥も猫も子供も、一度脳裏に植え付けた印象を消すことが無い。
文鳥が連れ合いのあとを追いかけるように、娘も連れ合いのあとをついて廻った。近所の人は、「お宅のパパとちなちゃんはほんとうに仲がいいわねー」というのだった。
わたしだって仲がわるいわけではないと思ったが、なんでも世の中は、目に見えることが真実として認められるのである。
でも決してめげているわけではない。母親というのは、子と繋がっていることに対しては絶対的な自信があるものである。生んだという実感は強いのである。

(82)・・継母・・   
思い出してみれば、娘が3歳ごろ、歯医者に出かけた。娘を一人には出来ないから、連れていって、言い聞かせて待合室に待たせておいて診察室に入った。だが、やはり一人では耐え切れないらしくて、ドアーの外で私を呼び始めた。そのうち、待合室と診察室の間を区切るドアーの下のわずかな隙間に手を入れて、泣き叫んでいるのだ。私の居る空気のなかに手を伸ばしている、という感じだった。といっても、治療の最中なのだから、応えるわけにもいかない。そのうち泣き止んだのだ。諦めのたのだと思った。治療を終わって待合室に戻ると、見知らぬ年配の婦人が抱いていてくれた。
なんだかわけもなく嬉しい出来事で、抱いていてくれた婦人に感謝した。
なのに、それから間もなくだった。私のことを、娘は「シンレレラの継母」のようだと言ったのは。
ドアーの下から手を差し入れて泣いたことなど無かったみたいに。
あの日も欅がどんどん裸木になっていくときだった。
日曜日もお構いなしに早起きの娘に付き合うのは連れ合いのほうだ。ホットケーキを作るのを娘も手伝ったのだろう。勿論、一人前に手伝いをやらせてもらえて、嬉々と手を貸したのだろう。だが実際の手伝いは楽しいのだが、継母に言いつけられて、家事をやるシンデレラの立場に身を置きかえたのだ。まったく!

猫を投げ落とす・

2006年11月29日 水曜日

(78)・・猫を投げ落とす・・   
 「ルリ! フワちゃんに近づくな」
 と、連れ合いはルリを引き寄せた。
 そう言ったので、この飲み友達は猫嫌いなのかと思った。
 「フワちゃんは残酷なんだ。迷うい込んだ猫を事務所の二階から抓み出したんだ」
 「どうしたの、猫は」
 「死んじゃったよ」
 猫嫌いの上に残酷なんだ。
 「いくら何でもあれはないよなー」
 連れ合いは、まだその時のショックが残っているようだった。
 「だって、死ぬとは思わなかったよ」
 「まだ子猫なんだよー」
 淡々と凄いことをやる人もいるものなのだ。

(79)・・虚構・・   
 ごく私は最近になって村松友視の「あぶさん物語」を読んだ。その中に少年の頃、可愛がっていた猫を何回も屋根から落して遊んだ思い出の場がある。三回目には、猫のほうが必死の拒否反応を見せて、少年だった村松友視の手を逃れていったのである。
 猫は本来は、反射神経が優れていて、床から数十センチのところから落としても、完全に起き上がって、足から着地するのだ。
 しかし、やはり、今飲み友達の話を思い出すと、村松友視の小説のあの場面は虚構かなー、とも思ったりした。

(80)・・O型同士・・   
しかし、フワちゃんと私は波長があうのである。
 連れ合いが、うちのは白菜漬けを作ってくれないから自分で漬けるんだ、と言わなくていいことを、口にするのだ。
 「奥さん、漬物きらいなの」
 「食べるのは好きよ。でも漬けるのは嫌いなの」
 この説明がスーと通じるからである。
 こんな簡単な言葉が大方の人を混乱させるのだ。
ーー食べるのがすきなら作るーー 
 たいがいは、この方程式以外には理解しないのである。
 フワちゃんもわたしも、連れ合いもO型。

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