(100)・・吉行淳之介・・
芥川賞作家というものを初めて意識したのは吉行淳之介だった。『驟雨』という短編で吉行淳之介が芥川賞を受賞したのが高校生のときだったからである。高校生のときたったから、というよりも、私が高校生のときに、『驟雨』が芥川賞に選ばれ、それを国語の教師が推奨したからだ。
だから、私にとって芥川賞を認識することと吉行淳之介を認識することが同時だった。
今考えたら決して高校生に推奨するような作品ではないかもしれない。しかも教師はそれを私に貸してくれた。雑誌からその分部だけを剥ぎ取って綴じてあった。
文学の最初の入り口が退廃的なものだったことが幸いなのが不幸なのか分からなかったが、とにかくそれからは、吉行淳之介の作品は大方読んでいた。
数年後、その吉行淳之介が宮城まり子を伴侶に選んだのだ。宮城まり子は歌手だった。少し舌足らずのしゃべり方とその仕草が猫のようだ。美人というほどでもなく、歌手としての人格以外に知らなかったが、どうしても淳之介と並ばせるには違和感があった。とにかく吉行淳之介は知的な美男であったからだ。
「どうして、相手が宮城まり子なのよねー」
「男の目はちがうのよ」
私はどうしても認められなかったが、友人はあっさり肯定した。
別に猫のようだから気に入らないのではない。吉行淳之介と並ばせるのが気に入らなかったのだ。
101・・吉行淳之介・・
ついでに書けば、宮城まり子が気に入らなかったら、誰ならいいのかと問われても、即座に思いつく女性はいなかった。ただただ、宮城まり子に違和感を感じただけなのである。
だが、淳之介が亡くなってまもなく、彼に連なっていた三人の女性がつぎつぎに、淳之介とのつながりを出版した。一番早かったのが、、愛人・大塚英子の『「暗室」のなかで 吉行淳之介と私が隠れた深い穴』(河出書房新社、1995年)だった。彼の小説に出てきそうな、という意味では淳之介らしい選びかたの女性だったが、本は面白くなかった。その女性の風貌もいかにも似合いすぎてつまらなかった。
それからまもなく、同居人・宮城まり子が『淳之介さんのこと』(文芸春秋、2001年)という距離の置き方で、発表しているのが、理知的であった。一番最後に本妻・吉行文枝が『淳之介の背中』(新宿書房、2004年)を発表している。
(102)・・吉行淳之介・・
吉行淳之介の小品に猫を扱ったものが二点ある。
一つは、「犬が育てた猫」というエッセイ。この作家特有の乾いた筆致が快い。
淳之介の家に犬が飼われていたが、その犬と顔を合わせるのは一週間に一度硝子越にというのだから、私同様に、動物好きというタイプではなく、距離を置いて眺める冷静さを保っていた。
それも、淳之介らしい。このエッセイで知ったことなのだが、パトカーや救急車の音が昭和四十年ごろからウーウ−からピーポーに変わったようだ。犬はいつもそのウーウーというサイレンに反応してウーウーと声を合わせて、近所中の犬の合奏になるのだった。
ところが、四十年ごろからウーウーからピーポーに変わって犬が戸惑っていたと、導入部で笑わせる。
その飼われていた犬に捨て猫が寄り付いて、犬も子供のように慈しんで餌を分けていたので、痩せた野良猫が丸々と太ってきた。そんなところは、我が家のルリがモルモットを慈しんだのに似ている。動物にはそんな異種同士の愛情の発揮の仕方もあるのだ。
その猫が、外出から帰ると、ドアーの前に忠賢ハチ公のように、狛犬のように坐っているのだが、ドアーを開けると、そのまま中に入っていくだけで、愛想もない。それも猫の特徴だと言っている。愛想はないが、淳之助のところの猫は、決してテーブルの上の魚などを盗まない。
きっと飼い猫になると、すべての猫はどこかで節度を持つものなのだ。
(103)・・吉行淳之介・・
もう一つの作品「猫踏んじゃった」は、原稿用紙20枚ほどしかない短編小説。エッセイ「犬が育てた猫」のほのぼのさとは反対に、ホラー性を帯びていた。
主人公三上宗一は真夏の焼けるような道を運転しているとき、脇を走っていた自転車に倒れこまれた。ぶつけた感覚もなかったが、降りて「大丈夫ですか」と声をかけた。
だが、それに応えず男は自転車を起こしながら、その暑さだけとはいえない汗をびっしりと額に流しながら、逃げ去るのだった。自分がぶつけたのではないとほっとしたのだが、目を車道に移すと、猫が死んでいたのである。
この描写がまずホラー的なのである。粘液質の黒いものが一面に広がる、それが何であるかを判断できたのが、猫の顔が転がっていたからだという。その猫の顔がいかにも小さすぎるように思えるほど、その黒い粘液質は大きく影のように広がっていた。
愛猫的な人間なら別の情感を手繰り寄せるのだろうけれど、その大きな影のような猫の轢かれ方を、ーー多分ゴムの膜につつんだ羊羹があるが、そのゴムの玉を掌にくるんで、ぐっと力をこめると、中身が勢いよく弾け出る。そのように、不意に大きな力が加えられた内臓が・・・−−と、実に非情な想像力で情況判断していた。その猫の轢かれる瞬間の様子を、自転車の男は見てしまったことに気がついたのである。心がうつろで、途方にくれて、主人公の問いに応えることも忘れて逃げさったのである。
多分自転車の男が倒れなければ、主人公三上宗一も、猫の死んだことに気がつかないで通り過ぎてしまったのだろう。それ以後、巷間の酒場、女の家など、所を選ばず真夏の路上の影絵のような猫の轢死の内臓の広がりが、三上宗一に纏いつくのである。
吉行のどの作品にも通じる、ちょっとシニカルな、厭世的な、乾いた文章が読ませるのだった。
(104)・・宮城まり子・・
宮城まり子を吉行淳之介と並ばせるのには気に入らなかった書いたが、まり子の業績は只者のできるものではないことは、十分に知っている。
ーー1927年東京生まれ 。ビクターレコードより「ガード下の靴みがき」で歌手としてデビュー。東宝劇場出演中スカウトされ、ミュージカル等の舞台に立つ。1958年「12月のあいつ」にて芸術祭賞受賞。1959年「まり子自叙伝」にてテアトロン賞受賞。その後、舞台、テレビと活躍を続ける。 1968年に私財を投じて肢体不自由児の養護施設「ねむの木学園」を設立活動して、数々の業績を残して今も活動中である。ーー
まり子著「淳之介さんのこと」によれば、「ねむの木学園」設立は淳之介と同居をしてからの仕事なので、設立にはついては淳之介にも相談している。
愛にはいろいろあるけれど、まり子のそれは、淳之介と同じ目線のなかに立つのではなく、仰いで暮す生き方である。淳之介の視野に適う生き方を選ぶ、というのが、彼女の人生になったように思える。
(105)・・宮城まり子・・ [千夜一夜猫物語]
卑屈になるというのではなかったが、淳之介の視野に適う生き方を選ぶ、ということが、顕著に現れている箇所が、彼女の著書「淳之介さんのこと」にある。
「はじめての監督」と題する章である。
ねむの木学園の子供をテーマにした『ねむの木の詩』という映画を作り、文化庁の選ぶ優秀映画十編の中に選ばれ一千万円を獲得した。そのときの感想の分部に
ーー私の心は、映画を撮りながら淳之介さんを思っていた。饒舌はやめよう、甘くても、硬いコップでいよう、つまらない、同情はナシ、みんな淳之介さんの心だ。淳之介さんが見ている。ーーと
このーー淳之介さんが見ている。−−という箇所には思わず立ち止まる。正確に言えば見られている意識を持ちながら暮しているのである。淳之介ならどうするだろう、という生き方をしているのである。
(106)・・永井荷風・・
教師が突然その年度の芥川賞作家吉行淳之介を推奨したのは、その教師そのものが、永井荷風に心酔していたからである。しかも、永井荷風の精神を継ぐのが吉行淳之介なのだという。さらに永井荷風は吉田兼好の精神を継いでいるのだという。そこまで遡るとおぼろげながら、言わんとする精神が理解できるのである。
自分の志向を臆することなく語る熱っぽさは、思い出してみれば教師の若さだったのかもしれない。吉田兼好も吉行淳之介も永井荷風も読まない生徒も、その熱気に感化されていた。
教師は自分の生き方を、自分の志向する先人を示せばいいのである。
一人が一人のあとを辿れば、人間らしい歴史は築けていけるような気がする。
宮城まり子が吉行淳之介の視線に適う生き方を選んだように。
教師が吉田兼好、永井荷風、吉行淳之介の精神を追う生方を選んだように。
残念なことに、淳之介の精神を継ぐ作家が、以後に現れたのかどうかを語り合う機会に出会わなかった。