2007年7月 のアーカイブ

内田百軒

2007年7月31日 火曜日

30日は正津勉さんの開いている「読書会」の日だった。
今回は内田百?の随筆から「琥珀」「遠洋漁業」「風の神」を取り上げた。改めて気がついたのだが、百軒の文章は、描写力ですすむ。

読み終えてなにか強烈なものを残すというのでもない。しかし、その映像の克明な残像が自分に沁み込んでいくのは、淡々と自分の体温の伝わるあたりの風景の描写にある。
正津さんが「俳文」という分野になるのではないかと言った。もともと、百軒とは俳号なのである。たしかに、一篇ずつの終結のなんともあっけないような、滑稽なような、物悲しさは俳味である。

この淡々と描写に終止しながら、真髄をつたえられる文章は、わたしの書きたい方向でもある。というより、そういう方向しか書けないというべきかもしれない。

この会を完結する役者が揃っていて、正津さんの話がひとしきりあると、その作品の背景やら時代やらの裏打ち的な資料をきちんと用意してきてくれる人がいる。医者であり、山の雑誌の編集者である。こんかいも、「遠洋漁業」冒頭にある「−−郡司大尉が講演にきたーー」という箇所の話題をいろいろな側面から調べてきていた。
最後に、今日のまとめをする人も、いつも同じ青年である。

なんだか、得体のしれない人達ばかりって、いう感じねー」
参加している人の感想を洩らすと、傍らの人がうんうんと頷きながらも、男性も「なんだか分からない女性陣と思っているかもしれないわね」と応えるのだった。
ほんとうに正津さんの周りには生活感の薄い若者が群がっている。もしかしたら、正津さんの周りにいると、生活感が消えてしまうのかもしれない。

ところで最後に傍らの人から大量の俳句作品を読んでくれませんか、と手渡された。
ケ月で1000句作ろうと決めていているのだという。

雷とごうや

2007年7月29日 日曜日

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今日は雷が激しくてパソコンはひらけないし、買い物にもいけないので、今朝、連れ合いが畑から採ってきた白色と言うよりも象牙色のごうやを写真におさめた。
青いほうが栄養がありそうにおもうのだが、栄養は同じだとテレビで言っていたとか。

ごうやっていう漢字はあるのだろうか。まだ歳時記にもないようだが、かなり生活の中では定着している。

 

烏瓜の花

2007年7月27日 金曜日

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今年も烏瓜の花が咲き始めた。
夜間に妙ないでたちで、写真を撮っているのも気が引けるので、咲きそうな蕾を採ってきて暗いところにおくと咲く始める。まるで、暗さに触覚をのばしていくように、広がっていく。

外では、風が吹いて、こんなに完全には網目を映せない。
石鼎は烏瓜の句は数句あるが、花の句は全くない。

    秋風をわづかに染めぬ烏瓜     石鼎

    三つさがりてまた三つさがり烏瓜   石鼎

 けさ一句・季のうた 

2007年7月25日 水曜日

  噴水の虹は手に取る近さなる      岩淵喜代子   

  雨上がりなどに、太陽と反対方向の空に現れる色のついた光の輪を虹とよぶ。空中の水滴粒子にあたった光の屈折と分光によって生じる。とすれば公園のなどの池の中に設けた、水が吹き出る装置にも虹は出来る。これは初歩の科学だが、俳句で詠んできた虹ではない。伝承俳句では噴水の虹を認めるかどうか分からないが、素材を広げるのは現代的俳句の方向。俗を詠むのは俳諧の精神でもある。(鑑賞 村上譲)

    信濃毎日新聞  愛媛新聞・2007/6/29 

 

 

   新潟地震

2007年7月22日 日曜日

また新潟地震で、地元の人はお気の毒だ。
連れ合いの実家は六日町。今回も前回の中越地震にも少し離れている。まー、もし地震地域だったとしても無人の家だから、誰かの安否を気使うという問題は起きない。
ほんとうはもう処分してしまってはという声も上がっているのだが、やはり、その決断が出来ないでいるようだ。 季節の折々、と言ってもことに春の雪解けのころは、雪囲いを取らなくてならないので、兄弟が集まるのである。ついでに山菜採りをする。というよりも、雪囲いを取る日を山菜採りにあわせている。 雪の間に顔を見せた蕗の薹、河原一面のこごみ、それから土筆。それだが取り放題なのである。

その上に、スキー場のリフトの下には片栗の花が一面に咲く。その花だけを摘んできて酢の物にしておく。紫色の花を湯にいれると濃い青色に変化する。その色が甘酢に漬けておいても変わらない。これは、私のオリジナルである。新潟に育った兄弟たちが、そんなの食べられるの?と驚いていた。

この片栗の花料理を発見したのは、デパートの山菜売り場で花が沢山混じっている片栗の葉を買ったことにある。食べるというより、そんなに沢山の花があるなら、水を吸わせれば花として花瓶に飾れるのではないかと考えたからである。山菜売り場で片栗のパックを手にすると売る場のおじさんが言うのだった。 「奥さん食べたことあるの」「無いけど」「食べたことの無いもの食べようなんてエライ」 そう言って一つの値段で二つのパックをくれた。

楤の芽や蕗の薹には手をだしても片栗を買う客は居なかったのかもしれない。 私は、六日町にいくと採りたての蕗の薹の天婦羅と蕎麦を作る係り、と自認している。とにかく摘みたての蕗の薹で作る天婦羅は美味しい。それから、みんなで町立の温泉にいく。 そんな楽しみがなければ、訪れる人も無くて家は壊滅してしまうのではないだろうか。雪国に家を持っているということは、維持費が大変なのである。特に六日町は豪雪地帯だから、雪下ろし費用は住んでいなくても、冬の大きな出費である。

いつも思うのだが、飛騨地方の合掌造りは豪雪対策でもあるのだろう。それなのに、この六日町では、あの方式が採用されないのはなぜなのだろう。少しちがうのは、土台を高くして雪に埋もれない対策を施しているくらいなものである。 この週末に法要のために、また兄弟で六日町に集まる。

 句集 

2007年7月19日 木曜日

 鷹羽狩行句集『十五峯』   ふらんす堂

帯に著者自身のことばで、昭和二十一年から俳句をはじめていたことが書き記されていることは私に取っての新しい認識。二十一年といえば、中学生である。そんなに若いときから始めたのだと、改めて感嘆した。句集名『十五峯』とは、十五句集目であることも意味している。

    遠景ににはとり一羽ころもがへ
   北窓を塞ぐや書架に赤き浮子
   寒灯のかたまるところ門司といふ
   はじまりは煙くさくて花篝
   目も鼻も化粧のなかや祭稚児

ゆるがない表現方法を得た作家なのだろう。五句を抽出してみて感じたのは、どこかに滋味をうかがわせるものが、私の好みだということだ。
ちなみに、鷹羽狩行自選のものとは一句も重ならなかった。

           ★★★★★★★★★★★★

吉田汀史句集『海市』   航標叢書

   節分ののちのおもひに海の音
   はじまりの終りの野菊ひとにぎり
   空蝉のこはれゆく日に立会ひし

以前読んだ作品から思い出して並べてみた。ことばを自在に編み上げる作家という印象があった。

    一舜や鶴のまなこに血をみたり
   雪に咲く椿を寝物語かな
   野遊びの歩幅をもて杜甫草堂へ
   火がひとつ雪ふる山を下りてくる
   真桑瓜抱くみなし子を抱くやうに

今回もう一つ発見したのは、物語の重層性。例えば「鶴と血」の組み合わせによって、鶴の白さの奥深さが見える。ことに面白かったのが、「真桑瓜とみなし子」の組み合わせ。その二物から真桑瓜の感触が大きく見えて、またみなし子の体温がやさしく伝わってきておもしろい。

          ★★★★★★★★★★★★

対馬康子句集『天之』   富士見書房

   白鳥の地下より柩運び出す
   ひきちぎるように着替えて虹に立つ
   春風の広場に集うだけの役
   からだごとぶつかる愛と人参と
   胎の子の火事をみつめていた記憶          

虚無ともちがう、放下ともちがう。しかし、その両方の匂いをかすかにひきずりながら、魅力的な表現法方を得た作家と言えるだろう。それは、ことにリズムに現れている。唐突な二物のぶつけ方に現れている。「天為」編集長。

            ★★★★★★★★★★★★

鞠絵由布子句集『銀兎』   富士見書 

昭和36年生。俳句は現在の「ランブル」主宰上田日差子氏の父君五千石から学びはじめて、現在は「ランブル」の編集長。

   日だまりの落ちてゐさうな噴井かな
   夏木立いつしか声をひそめあひ
   山霧といへど破船のあるごとし
   さびしさも旅荷のひとつ火恋し
   枝先に紙のはためく涅槃かな

 
発想の面白さがある。昭和36年生

 

 記念号と句集

2007年7月3日 火曜日

『澤』創刊7周年記念号

「澤」は毎年、記念号では特集企画、それも400ぺーじもある大冊を作る。今回は20代、30代に焦点をあてている。結社内の20代、30代なのかと思いながら詠んでいたのだが、そうではない。俳壇全体を見渡しての特集なのである。
はじめに小澤實主宰と宇多喜代子氏の「がんばれがんばれ、20代、30代作家展望の対談」からはじまる。
読みごたえのある一書であると同時に、こうした特集のできる力のある結社を感じた。

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第九句集『椣原』 茨木和生著

椣原とは、茨木氏の住むあたりの地名らしい。
この作者の風土を詠むという影響は、若い人にも影響を与えているように思える、同じ時期に上梓した谷口智行氏の『媚薬』なども、風土を強烈に感じさせる一書だった。こうして、詠む方向性を持たない私などは、詠み方を意識して、方言方法を探る意識で進むしかない。そのどちらも感じないで、作り続けているひとは、本当に詩人的な俳人なのではないかと思う。

山椒魚大きな頭回しけり
日の昇る前の青空初氷
東寺出て少し歩けば葱畑
椣原は旧の名初景色
空色の鱗もありぬ桜鯛

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馬酔木1000号記念

水原春郎著 『紫陽花雑記?』
水原春郎編 『秋櫻子の一句』

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