2008年1月 のアーカイブ

『俳画紀行』

2008年1月30日 水曜日

磯辺勝著 『江戸俳画紀行     -蕪村の花見、一茶の正月』  中公新書 

「ににん」の創刊から書き始めた「江戸俳画紀行」はいつも注目されていた。それは一般の俳人があまり足を踏み入れない俳画であることより、その読ませる文章にあったと思う。と言ってもレトッリク的な文章ではない。

評論のような固い言葉もつかわない。きわめて普段の言語で綴る語り方が巧い。多分語り方が巧いのも、熟知に熟知をかさねた蘊蓄にもあっただろう。勿論ペン一本で生活しているプロで、NHK出版「食彩浪漫」には毎月、食の絵について語っている。

現在は一パーセントほどの可能性だけど「俳画紀行」を本にしてくれそうだ、と言っていたのは半年前くらいだったのだろか。多分そう口にするときには80パーセントくらいは進行していたに違いない。帯に蕪村の花見又兵の絵と「うまい へたより この境地」というコピーがある。

読み進むと磯辺さんの思想のようなもの、生き方のようなものがじんわりと沁み込んでくる。それは主張するというのではなく、こっちのほうが好きだなーというくらいの軽さで蕪村にたどり着くのである。聖俳と呼ばれる芭蕉とは全く反対の世俗の生活者の蕪村が好きだという件には、

ーーこういう生き方に、私はすべてこれ共感である。蕪村は死んだ人間のことをよく「あっち者」といったが、彼はとりあえず、「こっち者」でいることしか信じていなかったと思う。--

連句があれだけ「じか付け」がいけないと言われた時代に、なぜ俳画がべたつきの絵をかくのだろうかという疑問を解いていったりし、この一冊を読むと、俳画のみならず、近世の俳人図が明瞭に見えてくる。 ににん  

煥乎堂書店

2008年1月27日 日曜日

昨日は煥乎堂内の俳句教室の新年会だったので、またはるなさんの思い出話になった。
もともとこの教室ははるなさん、すなわち現在の煥乎堂書店社長の母堂が、ご自分が俳句をしたくて設立したもの。私はなぜか随分昔からはるなさんとご縁があったが、ついぞ「俳句をやりませんか」なんて言ったことが無かった。別に誘いたくないのではなく、俳句をマイナーな分野と思っていたので、他人は興味がないだろう、というくらいの気持ちしかなかった。それは今も変らない。

当時、北関東一の規模を持ち、創業百年の歴史をもつ書店のオーナーである小林家には、著名人がたくさん訪れていた。そんな環境の中で金子兜太さんに俳句を勧められたり、自宅をよく訪れていた当時の角川書店の社長だった角川春樹さんなどから、俳句を勧められて、次第にその気になったようである。或る日私に俳句をしたいから、という電話があって、前橋から東京に通い出だしたのである。そんならもっと早く進めればよかった、と思ったものである。

彼女を原裕主宰直接の句会に紹介しておいたが、その熱心さも手伝って際だって上進した。癌で亡くなったのは、2001年早春だった。「ににん」の創刊号には作品を出していた。お葬式は上州のもっとも上州らしい風の激しい日で、黄沙が舞っていた。残された私たちは、彼女の12年間ほどの作品を鹿火屋の雑誌から手分けをして拾い出した。400句以上はあったろうか。それを手造りの一集にまとめた。

    湯畑にいきなりつよき秋の雨
    母の日の母のいつもの割烹着haruna.jpg
      みことばを包んでおりぬ朴の花
       結納を収めて帰る麦の秋
    春の星あひるを土間に眠らせて
    かりんの実ひとつもなくてただの木に

ことに湯畑の句は鹿火屋主宰が、当月の一句として特別に鑑賞していた。 ににん 

 

SOS

2008年1月26日 土曜日

毎月一回通う煥乎堂書店の俳句教室は、いつも特急の水上号で行く。新幹線と特急とどちらが早いかといえば、どちらとも言えない。特急なら浦和から新前橋まで60分。新幹線なら大宮から高崎まで25分。一見新幹線のほうが早そうだが、高崎から新前橋までの乗り換えに手間取るので同じになってしまう。それよりも、今の時期は駅で数分たりとも待ちたくない。

十年以上通っているのに、今日始めて気がついたことがある。車両の全面にトイレやら電話の所在が記されているところに、SOSと赤文字で書かれたボタンがあるのだ。これって、たぶん急病者がいたり、暴漢がいたりしたときには、押せば乗務員に繋がるのだろう。日頃、何か有ったときに運転手の居るところまで走っていかなければならないのかと思っていたから、いいものを発見した。もっと宣伝しておいてもいい。

 いつだったか、ほかに乗客がいたのに、凶器をつきつけられて、トイレに連れ込まれて強姦された女性の事件がある。聞くだに腹立たしい事件である。腹立たしいのは、犯人だけでなく周りに居た人たちもである。裁判では以前の罪も重なって17年とかの求刑が出された。あの記事を見たときも、乗務員のところまで走って知らせにいくのは手間取るなー、と思ったことがある。犯人に凄まれて40人いた乗客も動かなかったというが、ボタンくらいなら、取りあえず押せるのではないか。

上州に入ると榛名富士がすっかり雪を被っていた。帰りは新幹線だったが、さてあのSOSに代わるものは見つけられなかった。空いている列車になると、一両に数人のときがある。どこにいても怖いことは起こる世の中になった。 ににん 

霜柱

2008年1月20日 日曜日

「ににん」の仲間の句会は平日だが、その平日では出席出来ない人もいるので、思い切って土曜日の吟行句会というものを設定した。寒かったが新年からはじめたほうが勢いも付くというもの。一回目は顔合わせ、そして足慣らしということで、軽く新宿御苑を一時間くらい歩く、という設定にして、そのあとは近くのルノアールの個室を借りておいた。

辛夷の大きな芽が目立った。十月桜がひょろひょろと花をつけていた。寒桜が2,3個の赤い花を見せて、何より盛だったのは水仙だった。意外や御苑の池に水鳥を見ない。何故なのだろう。氷が午後も解けないのだから、矢張り寒い日だったのである。それでも若者はスカートで、私は上も下も重ね着ルックで身をかためていた。そういえば、数日前に仙台から孫娘が出てきたが、やはりミニスカートで颯爽とハイヒールだった。今日は寒いのよ、と言っても東京は暖かい、と言っていたっけ。

霜柱も今年はじめて見た。仙台に冬季限定のお菓子「霜柱」というのがある。落雁にする米の粉の中に、霜柱のような飴が埋めてある。2,3センチの小さな飴で口に入れたとたんに溶けてしまう。誰かが踏み荒らした土に、まさにその飴細工のように真っ白で、繊細な線の集りの霜柱がなぎ倒されていた。いや、飴がその霜柱を忠実に再現していたのだ。

俳句の収穫は、なかなか難しい。しかし、句会という時間は、一番の勉強の空間である。思い込みで作った作品が人には伝わらないことに、気がつく空間である。作品は遅遅として進まなくても、作らなければなお進まない。 ににん 

子規庵へ

2008年1月14日 月曜日

子規庵に久し振りに出かけた。寒い日だったが子規庵の中は硝子戸を通して日差しが隅々まで行き渡っていた。子規の病床に降り注ぐ日差しを思った。そこで目についたのが、「妹・律の視点から ーー子規との葛藤が意味するものーー」という冊子である。歌人阿木津英の講演記録である。これが一気に読ませる面白さだった。

「仰臥漫録」の中には律に対する不満が詰まっていたが、それが私には甘えて言いたい放題を言っているようで決して暗いものではなかった。子規の文章力が発揮されていると思った記憶がある。阿木津英の講演記録には、それと一対になる「病床六尺」との比較をしながら、当時の社会通念やら、子規が「仰臥漫録」を下敷きにしながら新聞に発表した「病床六尺」についてが語られていた。

「病床六尺」の中で、ことに目を引いたのが、看護をするものは、病人の傍らにいて心の支えになっていればいいのだという件である。多分律は家事が忙しくて、子規の相手などしていられなかったのだ。「仰臥漫録」のなかには「団子がたべたいな」というのに律は聞えないかのように無視していた不満が述べられている。そうして、「病床六尺」には、家事は女中でも雇っておけばいいのだと、何処かで聞いたような論が出てくる。

最近流行った「女性の品格」の中に似た論理があった。家事は現在は専門の業者がいるのだから、それを利用して女性は教養に励むべし、とあった。その答えが、噴飯ものであったが、子規は社会の先をゆく論理性を持っていたことは確かだ。

ところで、子規庵の日差しの中で知ったのだが、この子規の家族を保護してきた寒川鼠骨もまた、子規が亡くなった同じ六畳間で八十歳の寿命をまっとうしたようである。子規の家計を助けた人物の一人であり、今日の子規庵の保存貢献者である。しかし、最近、子規の孫、という肩書きで活躍している人がいる。

子規に子供がいないのに、と思ったら律が養子をとったようである。加藤恒忠の3男忠三郎を養子とした。
梅室道寒禅定門─良久─将重─常寅─常一─常武─常尚─常規─律─忠三郎─明
その最後の明が現在子規の孫を名乗っているようだ。そういうのも、孫というのかなー。でも律の孫というよりは、子規の孫と名乗るほうが社会的重みになるだろう。

司馬遼太郎は、かつて阪急電鉄株式会社に車掌としてつとめていた忠三郎のことを「人々の跫音」に書いているらしいから、読んでみよう。 ににん  

時間が動き出した

2008年1月8日 火曜日

4

昨日は七種。この写真を載せようとしたのだが、何故かうまくUPできなかった。同じやり方なのに、今日は成功している。何が何だかわからないが、とにかくこの籠の七種は食べないで育てることにした。

  七草の箸をおとして泣きにけり    川崎展宏

今日は俳人協会の賀詞交換会。やっと時間が動きだしたような気分。明日は「ににん」の定例句会。昨年末に誰からともなく、カラオケに行こうということになっている。どんな顛末になるのやら。 ににん  

コメント欄

2008年1月6日 日曜日

ねこ

気が付かなかったのですが、私のブログのコメント欄にはパスワードが必要になってしまったみたいです。このブログ自体が、外国製で私の理解を越えておりまして、思うようにならないので、コメントもトラックバックも削除しようとおもいます。遠い国からのとんでもない大量のトラックバックに悩まされています。それで、文章の最後に、「ににん」の リンクを貼り付けておきます。そこにアドレスが入っております。と断らなくても、読んでくださる殆どの方が、アドレスをご存知だとおもいます。

今年は子の年。私の干支です。というわけではありませんが、いつもおしゃれな猫に守られて暮らしております。子歳の年は変革の年とか、今日の新聞にも書いてありました。そういえば、まだ生まれてはいませんでしたが、2・26事件は子歳のとき。阿部定事件も同じ昭和11年だったようです。ことしは何が起きるのか、取り敢えずは、句集「嘘のやう影のやう」が2月に出ます。

同じ2月に角川の「鑑賞 女性俳句の世界」2巻目が発刊。石鼎の夫人、原コウ子を受け持ちました。順調に発行されでば、六月ごろにその 「鑑賞 女性俳句の世界」の最後の6巻目が出るはずです。ー華やかな群像ーという副題がついて昭和10年生まれ以下の俳人27人のひとりとして収録されてます。その他に、NHK深夜便で放送された俳句が単行本に。そして光文社で数年前に発行されたペンクラブ編の「わたし猫語がわかるのよ」「犬は日本語がどこまでわかるか」の二冊が文庫本になるようです。こんなに、集中するのは珍しい。やはり子年は変革の年なのでしょうか。 本年もよろしくお願いいたします。 ににん

3冊の句集

2008年1月4日 金曜日

松村多美著句集『紅葩』  本阿弥書店刊

いのちあるものの苦さよ鮎の腸
欠伸する河馬にも着せむ花衣
夜祭の果てて雑魚寝に加はりぬ
もみくちやも尊し四万六千日
ひつぱりて尾の柔らかし虎尾草

一句目の生への意識と鮎の腸の苦さの取り合わせ。しかし、作者は苦さとはいいながら、人生のありようを失望しているわけではない。二句目の滑稽・三句目の風土性、秩父の風土を現している。四句目の自然悟道・五句目の本意への迫り方のそれぞれに、作者の生き様が見えてくる。
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
菊田一平著句集『百物語』  角川書店刊
  *
ひとつひとつの
句があつまって
私なりの俳句空間を作りだせたらという
願いを込めて
「百物語」という
タイトルにしました。
  *
という作者の意思が帯に書き記されている。もう一つの意思は百物語を夏の季語に位置付けていることである。「百物語十一段は母のこと」「にぎり飯出でて百物語果つ」の二つが、夏の部に挿入されている。

なやらひの鬼の寝てゐる控への間
花すでに散りて大きな桜の木
伯爵の墓のまはりの芝桜
お祭の今日が始まる鶏の声
仏蘭西へ行きたし鳥の巣を仰ぎ
十月や象が鎖を引き戻し
手の届くあたりにありし恋歌留多

さりげない表現ではあるが、人生というものが、心の奥に沁み込んでくるような作品ばかりである。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
武田肇著 句集『海軟風』銅林社 200部限定

手にしたとき短冊が送られてきたのかと思った。縦が40センチで横が10センチ弱。これもA4の変形というのだろうが。とにかく細長い句集である。1ページの幅が10センチほどなのに、ページごとに2句が収められている。詩人であり編集者であり、そして俳句にも手を染めている、という感じに見受けられる。『星祭』から15年目の第二句集である。

をんな二人湯を掛けあふや朧月
見返れば来し方もなき棉の花
少年の鐵気ほのかに西瓜食ふ
ボート屋の娘銀河の戸を閉める
天の川ここは螢の焦げる川
冬蝶の燃えるが如くうせにけり

ひとことで言えば感覚的ということになるが、俳句という分野が物で語るということを意識しているのか、どのように見えるかという切り口から作品化している。そうした中で、最後に抽出した「冬蝶」の句などは生まれたのではないだろうか。

とにかく力まないと読めない句集だ。力まないと、というのは作品の内容ではない。本の形である。丁度、高窓から部屋を覗く為に爪先立ちの力みが必要なように、この本は、読むページを両手に力を入れて開いておかなければならない。少しでも手を緩めると、即座に音を立てんばかりにしっかり閉じてしまう。   ににん  

謹賀新年

2008年1月3日 木曜日

明けましておめでとうございます。といっても、もう三日も過ぎようとしている。ようやくわれにかえる時間が出来たのである。年末から訪れていた娘一家が滞在の間は、まるで嵐というよりも強力なサイクロンの襲来のような慌しさなのである。

今年も年末にやってきた一家は、それぞれが手分けをして車から荷物を降ろす。次女の七海が犬の係を引き受けたのか、居間の隅にベンの柵を組み立てる。長女が野菜やらお土産やらを運びこむ。娘夫婦は寝室に次々と荷物を運び込む。この荷物が半端ではない。シャンプーから歯ブラシまで。しかもドライヤーまで。

昨年は、そのドライヤーを忘れてきてしまった。我が家にだってドライヤーはあるといえば、「だって壊れかけているじゃーないの」と、買いに出かけた。いつも使っているのと同じだったら置いて行こうなどと、話し合っていたが、持って帰った。今年はそのドライヤーを持ってきたのだろうか。

浴室には私の普段使っているシャンプーの隣に娘一家のシャンプー類が並ぶ。二日や三日なら我が家のシャンプーを使えばいいじゃないかと内心思うのだが、何だか毎年忘れずに持ってくる。それで、私のほうがそのシャンプーを使ってみるのだが、別に特別なシャンプーにも思えない。

私は、一家が来る前から、給湯の設定を連続に切り替えておく。深夜電気で沸かしている湯だけでは、到底間に合わないだろうと思うからである。案の状、一家が居る間はモニターの表示が日中も稼動中になっていた。夜ともなれば、たまに訪れる娘一家に会うために、親戚やら友人が訪れて、私は皿を洗うことに必死になる。

正月らしさを感じるのは、大晦日の除夜の鐘がなる頃に出かける初詣である。食べるだけ食べて、呑むだけ呑んで、丁度よい頃に12時になる。今年も新年の空は星が綺麗だった。   ににん  

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