2008年8月 のアーカイブ

俳誌『木の中」 主宰・折井紀衣

2008年8月28日 木曜日

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ほんとうを言うと、この「木の中」を主宰している折井紀衣さんという俳人を殆ど知らないのである。一度だけパーテイの中で、お名前を見つけて雑誌を贈呈してくださるお礼を言っただけなのである。だから、この次に会ったときに挨拶できるのか不安なくらいの面識しかない。

この「木の中」で前号48号と今回の49号の二回にわたってわが句集「嘘のやう影のやう」を鑑賞してくださっている。座談会形式で、出席者は主宰折井紀衣さん・坂本やなゑさん・鈴木やなゑさん・鈴木ゆうこさん・竹内典子さん・高橋六都子さん。

内容はいずれブログにUPしようと思うのだが、ちょっと時間を要する。なんと言っても二号にわたる書評は17頁もあるのだから。それぞれが20句ほどに絞って、その高得点から俎上に討論している。全員が選んでいるのが、「三角は涼しき鶴の折りはじめ」「湯たんぽを儀式のごとく抱へくる」「古書店の中へ枯野のつづくなり」の三句。

雑誌を私も作っているから、物凄い動力を要する企画であることを実感して感謝の一語に尽きるのである。この座談会で、ーー何に忠実かといえば自分の感じ取ったものに対して忠実なんですねーーということばが挿入されている。これが今回の句集を作った気持ちを代弁してくれている。

最後に主宰がーー俳句をやってゆくということは成熟するということです。自分に言い聞かせるんですが。ーー と。

欅並木

2008年8月24日 日曜日

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図書館の周りの欅並木も、もうすぐ末枯れが始まるのだろうと思って携帯で撮ってきた。昨日は「俳句界」の座談会で遅い帰宅だったので、今日の句会は欠席にした。そのために、なんとなく余分にある時間のような気がして、のんびり散歩ができたのが嬉しい。

雑誌のテーマは「結社の問題点を洗い出す」というような内容で、2ヶ月にわたって掲載されるようだ。筑紫磐井・星野高士・澤好摩・栗林真知子・坂口昌弘の各氏。知っていたのは筑紫磐井氏と星野高士氏だけ。あとは初対面。澤好摩氏は何となくな名前は活字で見たことがあるが、作品も、経歴も知らなかった。

後追いで調べたら、髙柳重信の「俳句研究」の下で運命を共にしてきた人らしい。気持ちのいい舌鋒を利かせる人だった。俳人にもいろいろ居るんだなー、という感じ。現在「円錐」という雑誌を発行している。

この間の暑さが嘘のように涼しくなって、夏中啼いていた鶯の声がピタリと止んだ。何処かへ移動したのだろうか。その啼いていた藪からはみ出して、夜な夜な烏瓜の花が咲く。karasuuri19390001.JPG

句集2冊

2008年8月23日 土曜日

保坂リエ句集『七十路の果て』  東京四季出版  序文村上護 2008/7/1刊

  消えてゆく噂のやうに桜散る
  兜折る七十路の果てのもの思ひ
  西瓜買ふ一寸叩いてみたくなる
  もしかして今が極楽シャワー全開
  まつり見にゆく敢へて人は誘はず

悟りというべきか、解脱というべきか、こんなに軽やかになれたらいいなー、と思いながら読み進んだ。少なくとも、志しているように見受けられた。一

小林貴子句集『紅娘てんとむし』  本阿弥書店 帯 宮坂静生   2008/5/19

  熱帯魚どかして棺据ゑにけり
  剪定枝たがひちがひにまとめたる
  雨音のはじめは葉音藍浴衣
  己が革もてあます犀養花天
  日時計は捧一本や七竈
  梅の香にひたりて人の歩み出す
  この世から三尺浮ける牡丹かな
  台風裡マッチは箱に頭を並べ

どの句も取り合わせの冴えが、一句の輪郭を際だたせている。

フェルメール展

2008年8月15日 金曜日

墓参りを朝早く済ませてしまったので、十分昼寝をしたら、金曜日は美術館が8時まで開催しているのを思い出して、フェルメール展へ出かけた。5時からのチケットを買うと安いらしくて、そのチケットをもった人の列ができていた。私は一般用だったので、待たずに入って、ちょうど空いている時間帯のようだった。思ったよりは、ゆっくり見ることができた。

フェルメールの絵は七点ほどで、あとは光りを描く作家たち。 フェルメールはその妻が画商役を務めていたから、註文に応じて画いたせいか、殆ど人物画。それも、有名な「青いターバンの少女」を立たせた位置で画いたと思われる絵が何点もある。

風景画は二点しかないらしい。その一点が出展されていた。「小路」と題が打ってあると、林の中のそれを想像してしまうが、街のなかの、建物の間を抜ける狭い路のことだった。その絵をみていると、ことに情緒的な画家なのだろうと思う。風景画ももっと画かせたかった。

かなり年数を経てからフェルメールの絵であることが分かった、8号くらいの、否もう少し大きいのか。とにかく中では一番小さな絵「ヴアージナルの前に座る若い女」がいい。これは個人蔵の絵だから、あちらの美術館に行っても、出会えるとは限らない。まさに光りを描くフェルメールの筆使いを発揮した作品。

帰りの夜空に月が煌々としていて、少し離れた位置に金星が、やはり月と同じように金色に見えた。ほかに星はなく、月とたった一つの金星が都会の空で鮮明だった。見たばかりの 「ヴアージナルの前に座る若い女」の衣装の色があんな感じだったなー、と思いながらしばらく博物館の前のベンチで一休みしてきた。

墓参

2008年8月15日 金曜日

車を降りたら足元に蝉が仰向けになってもがいていたので、裏返してやったが、直ぐに裏返ってしまう。何度か試みた末に、傍らの欅の幹に止まらせようとしてみたが、やはり落ちてしまって、仰向けにばたばたするだけだった。もう飛べないようだ。蝉ってそんなに苦しそうにもがきながら死ぬのかなー。

東京の墓参りは七月らしくて、小平の墓地は閑散としていた。欅並木が縦横に続いて気持ちのいい緑蔭だ。まさに

   緑蔭を大きな部屋として使ふ  (硝子の仲間)

のような気分を味わうところ。この句、来年のJT(日本たばこ産業)でカレンダーで使われることになっている。どんなふうに表示されるのだろう。

ヒートアイランド対策にも、並木をたくさん作ったほうがいいとおもうのだが、どうも、日本の並木は行政からは厄介ものらしくて、形だけは並木だが、思う存分茂らせない。それでは何にもならないのだが。帰り道で、所沢周辺の道でカリンが並木になっているところがあった。実がたくさん生っていた。

崖の上のポニョ

2008年8月14日 木曜日

結局は宮崎駿監督が手掛けたアニメを全部見て居ることになるかも知れない。アンデルセン原作の童話「人魚姫」を基にした作品「崖の上のポニョ」は、人間になりたい金魚と小さな男の子の物語。

アニメなんだから、声優が長嶋一茂・ 天海祐希・ 所ジョージ・ 吉行和子・ 奈良岡朋子・ 土井洋輝・山口智子じゃなくていいんじゃないかとおもうけど・・・。しっかり名優が並んでいる。結果として、これまでの宮崎駿監督のものでは一番つまらい映画だった。

一場面一場面は面白いのだ、人間になりたい金魚がお転婆な女の子になって、海の上が駈けてゆく姿の愛らしさ。波のような魚というか、魚のような波といえばいいのか、それが崖の上まで這い上がる嵐の場面。このあたりは、アニメの面白さを発揮して、楽しませてくれる。

なんと言っても、女の子になった金魚の子が、実際の女の子の愛らしさを全部備えていて、たぶん映画を見た者達の心に棲みつくだろう。この女の子の妹達、すなわち人間にはならない無数の金魚が、女の子を応援して味方になるのも、なかなか可愛い場面だ。

だが、この両親が人なのだ。それも人間よりも数倍大きな人として現れる。そこに物語の不調和がある。親達が現れると、海の半分を隠してしまい、、突然世界が変わるのだ。   

今までの中で一番よかった物語はやはり「隣のトトロ」だ。このフューマニズムが自然に宜える。しかも、楽しませてくれた。あのネコバスは忘れられない発想だった。

実は映画が終ったあとに期待していたものがあった。スーパーの近くの駐車場の金網の中にたくさんの烏瓜の花が咲くのだ。映画のあとそれが見られると思ったのだが、外へ出たときにはまだ日が残っていて、烏瓜の花は来たときのままだった。それにしても、今年の夏は暑い。

俳句誌『さくら』から  代表・いさ桜子

2008年8月6日 水曜日

『嘘のやう影のやう』
  岩淵喜代子句集を読む
                     梅 田 うらら

 岩淵喜代子氏は俳誌『ににん』の代表で、この句集が第四句集です。第二句集『蛍袋に灯をともす』で第一回俳句四季賞受賞、恋の句愛の句『かたはらに』で第二回・文学の森優良貨を受賞されています。 この句集の先ず『嘘のやう影のやう』この表題にとても心惹かれました。
  
  嘘のやう影のやうなる黒揚羽
 やけつくような暑い真夏の日、黒い揚羽蝶がひらひらと舞っている。一瞬、影のようにもみえ、いや、誰かの魂だったのでは………。はっとして確かめようとすると、もう何処にもいない。非常に幻想的な、あれは夢か幻だったのかしら。
  
  薔薇園を去れと音楽鳴りわたる
 薔薇のあまい香りと美しさに時の過ぎるのもうっとりと忘れる。そこへ不意に閉園を知らせる音楽が響く。「去れと鳴りわたる」に作者の怒りが感じられ、はっと意表をつく面白さです。
  
  針槐キリストいまも恍惚と
 十字架の刑にされたイエス・キリストの絵画か像か、その恍惚の表情には、私も密かにそのように惑じていました。
 針槐の辣と甘き香りが響き合い、素敵な一句です。
  
  三角は涼しき鶴の折りはじめ
 三角に、三角にと鋭角に折り進む折り紙の鶴。しなやかな指先、折っている人のほっそりとした涼しげな様子まで想像されます。室内か、公園のベンチか、静かな時間の中で。 頸や脚の長い鶴の姿形に、涼しいという季語の取り合わせ。鶴を折りはじめるのは、きちっと三角をまず折るのです。この感覚が素敵です。

  星月夜転居通知を出しにけり   
 やっと落ちついて、転居通知を出しにポストまでいった。なんということもない景ですが、ふと見上げれば、満天の星空に気づきます。 この地球から、あの満天の星の一つに引越しをするような不思議な感覚をも感じさせます。

  春眠のどこかに牙を置いてきし
  春深し真昼はみんな裏通り
  きれぎれの鎌倉街道蝌蚪生まる
  魚は氷に上る芭蕉に曾良のゐて

雨女

2008年8月5日 火曜日

「雨女」を再認識しなければならなかった。東京駅で新幹線の駅に立ったら、もう土砂降りに雨。これでは花火も出来ないのではないかと思った。横浜あたりでは、その雨の勢いがさらに激しくなって、稲妻が縦に走っているではないか。

ところが、熱海に近くなったら、雨どころか道も濡れていない。何処まで花火を見に行くのといわれて、お宮の松のまん前あたりの別荘だ、といったときに、あのあたりはホテルばかりだよ、言われてそれもそうだなー、きっとそのホテルの裏あたりなのだと思う、と答えたらやっと納得してくれた。

駅で仲間とも落ち合ってとりあえずお宮の松の前で車を止めた。その辺りを見回すと高層のビルばかり。昔からそうだった。だから、その裏へまわる路を探したのだが・・。案内状をみると、目の前の一番大きなビルが、別荘ということになるのだ。ホテルが倒産して分譲マンションに建て替えたのだという。イヤー凄い、このうえない絶好の場所から花火見物をすることになるのだ。

マンションの持ち主は、わたしたち三人のために、わざわざ東京からやてきて昨日から準備をしていてくれたらしい。最上階の部屋に落着くと空しか見えないロケーションで、ひとしきりおしゃべりしているうちに、工事人が増水のマンホールに流されて行方不明というニュースが流れた。

雨女なのだが、その雨がなんだかその日の弾みになるような、一寸不安にさせながら、結局は雨の災いを受けないまま過ぎることがよくある。今回もこんなに都内で騒いでいるのに、雨に会わないなんて不思議だ。きっと、雨女は雨も司るのだ。

いつだったか、鞍馬の火祭りに出かけたときも雨だった。傘を差さなくてはいられない雨の中で火祭りは出来ないと思ったが、案外松明の火は雨に強い。鞍馬の人々は30年ぶりの雨だと言募った。まさか、その30年ぶりの雨をもたらした当人が目の前にいるとも知らずに。

家々の前の篝火は濡れた地面に映って、火が培になったような賑やかな火祭りになった。だから私は、その後の好天の火祭りを見たら、きっと物足りなさを覚えるのではないだろうか。

熱海の花火もかなりな雨でも実行するのだという。幸い雨は、花火の最初から最後まで一粒も降らなかった。それどころか、花火は入江の端を使って打ち上げるので、発射する位置まですべて見えるのだった。いつもだったら、音がして真上で開く花火を待つ時間というものがあるのだが、今日の花火は、発射の直後の小さな火の飛沫が噴出するのまで目にすることが出来た。

寂聴伝  齋藤慎爾著 白水社刊

2008年8月4日 月曜日

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名は体を現すという言葉があるが、まさにこの齋藤慎爾という名前の複雑さは人間性にも及んでいるかもしれない。人間性は文章にも及んでいる。この人の頭の中は、文章が詰まって脳を成しているのではないかと思うくらい、エネルギーをもった言葉が並ぶ。

文章を書くときには、語彙の持ち合わせのないわたしなどは、大いに参考になる。この「寂聴伝」は6月近くまでの3ヶ月くるらいで書いたそうである。毎日10枚くらいを書いただけ出版社に送りながら完成させたようだ。しかも、手書きで。「いやー、それはやはりパソコンを使ったほうがいいのでは」と思わず言ってしまった。本人も、それを感じて
いるようだから、いずれは、購入しそうである。

瀬戸内寂聴はなんだか、名前は強烈に入ってきているのだが、食わず嫌いの感じで読んでいない。それでも、その主だった著書は知っているのだから、とても浸透力のある作家である。書き下ろし800枚の「寂聴伝」は読み応えがあった。

おおかたの人がそうだと思うが、学校での読書から入るから、純文学系に留まってしまう。それだって、私などはそんなにたくさん読んでいるわけではない。まして、瀬戸内晴海はほとんど読んでないといってもいい。読んでいなくても面白いのは齋藤慎爾氏の豊富な文学史背景が語られるからである。

寂聴の小説を軸にしながら、その初期からの作品にそって語られる小説の背景は、私がやりすごしてきた分野が多いことが、かえって魅力的だった。例えば、あるところからは、野溝七生子の伝記だったり、あるところは小田仁二郎、あるところへ行くと井上光晴が語られる。

そうやって、どのくらいの作家が登場するか、数えられらない。後追いながら、それらの小説を読んでみようという気持ちにもなる。

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