寒月光放つ良寛書の余白 遊 起
江戸後期の禅僧・歌人である良寛は、諸国行脚の後に帰郷して、国上山に五合庵を結び村の童を友として脱俗生活をおくるが「大愚」の号を持ち、「書の命は『余白』にあり」と多くの書を残す。揚句「良寛の書」の余白には寒月光を放つのに充分な情趣があり。「良寛の海に下り立つ素足かな・・原裕」の句の『素足』と遊起の句の『余白』が、互いに響きあうだろう。(竹野子)
いろはにほ書き続けてる春の宵 acacia
陽気漂う明るい春のいちにちが暮れなずんでいく。昼間の程よい疲れをいといながら、一風呂浴びて湯殿を出て鏡の前でおめかしを・・。風呂上りの洗面所の鏡は身熱りの温度差のせいか、すぐに曇ってしまう。曇った鏡に「いろはにほ」と書いてみる。少しおくと文字がぼやけ、拭いてもまた曇る。また、いろは・・いつまでも書き続けていたいような・・・。こころの移ろい易い春の宵ならではの描写である。よく「へのへのもへの」などと書き連ねた幼少の頃を思い出す。 (竹野子)
雪中花画と書が弾み息を吹く 万香
池大雅や与謝蕪村の南画には、中国の詩をもとに風景や人々が描かれ、見ていて楽しくなってくる。水墨に彩色の濃淡のつけられた画にちゃんと詩も書かれ、詩を理解すると、風景の味わいも深くなる。まさに「画と書が弾み息を吹く」である。雪中花の季語が絵画的で凛として美しい。(千晶)
万巻の書を読みても愚茗荷汁 倉本 勉
茗荷は物忘れを促すということを聞いたことがあるが本当なのだろうか。一所懸命に勉強して、本を読んでも右から左へ忘れてしまうのは、悲しいかぎりである。しかし、ソクラテスの言葉「無知の知」ではないが、おのれの愚を認識すること、すなわち叡知であろう。(千晶)
羽子板のうらに長女の名前書く 橋本幹夫
初めて生まれた女の子、長女へ羽子板を買ってあげたので、その裏にその名前を書いた。羽子板を買うときはたくさんの中から、選ぶのに随分と迷ったに違いない。ようやくこれというのを選び買って帰った。その裏にただ名前を書くとしか言っていない、初めての女の子を持った喜びが見える句である(禎子)
告知書をながめては七度目の春 匙太
告知書とはよく分からないが、七度目の春になったということを自祝して詠っているので、おそらくがんか、重病の告知をされた診断書なのかもしれない。作者はあれから七度目の春を迎えることができて、よくぞ生きてこられたことよと感慨にふけっている。経験しなくては詠まないし、このように境涯を俳句に詠むことも大事なことと思う。(禎子)
冬ざれや我が名を書きて狼狽える 三千夫
わが名を書いて狼狽する場面とはどういうときだろうかと想像してみる。とりあえずはひとりの場面なら手紙。あるいは、記帳の場面など。あるいは手持無沙汰を埋めるための無意識な筆の走りだったのか。どちらにしても、その名前を書いて、その己の名前に向き合ったときの内面を語るのが冬ざれなのである。季語は思想を表すためにもある。(喜代子)