2007年10月 のアーカイブ

冬隣

2007年10月31日 水曜日

10月も今日で最後。11月を控えてやはり冬隣である。いつも立冬という区切りを曖昧に過ごしているのは、昨日と今日の境にそれほど大きな区切りがあるわけではないからである。今年の立冬は8日らしい。

立冬の印象で、一番濃く覚えているのは、その日に出羽三山のひとつ月山に登ったこと。橅の黄葉が山を登るたびに透けていって、紅葉とは全く違った趣で、美しかった。八合目までは車で行けるが、その先は歩くしかなく、頂上には初雪があった。

その日が立冬であることと、月山の印象は一枚になっていて、立冬という言葉とともにいつも思い出す。パソコンを打っている窓から見える木々が黄色くなって、末枯の様相となっている。この地に越してきて四十数年、ずーっとこの雑木の木々を眺めていられるのは、考えれば奇跡的である。

    月山の木の葉数えて寝んとす

月山の旅から数年経てから出来た句。月山は夏スキーが出来るような山であるから、八合目以後の山道は険しくはないのだが、その分道程が長い。いつまで歩いても頂上にたどり着かない。雪道で原裕先生の荒い呼吸が聞えた。その荒い息の合間に、芭蕉も月山に登ったのは僕と同じ歳だったよね。と、確かめるようにおっしゃった。

そう、あのときの先生は四十代半ばだった。今、俳人の四十代を見渡してみて、改めて先生が若かったことを認識するのだが、私も若かったから、その年齢差も手伝って、当時でも偉大な貫禄のある俳人という受け止め方をしていた。今、四十代半ばであの貫禄を出している俳人はいるのだろうか。

江の島

2007年10月30日 火曜日

四つの原稿の一つをやっと今夜納入。あと三つが十二日ごろまで。その一つが俳句鑑賞で、原稿用紙で約40枚ほど。この鑑賞文のほうが枚数のわりには楽である。半分くらいは書いてある。それがおわったら、「石鼎論」を25日までに書かなければ「ににん」29号に間に合わない。

「忙しい、忙しい、ああ忙しい」
誰かのブログの副題にこんな言葉が付されていた。今、その言葉を借りたいくらい、ひそかに必死になっている。ブログを書く時間も勿体ないような気分になる。一つ渡したことで、やっと一息。

だが、それはさておいて、今日は江の島まで吟行に行った。まれに出る小田急江の島行のロマンスカーに乗って10:5分くらいに到着。絶好の島日和と言うのか猫日和と言うのか、おだやかな一日だった。そのせいか思ったよりも人出が多かった。

島の裏がわへ行くのに、三通りの行き方がある。一つは観光用のお土産売り場の並ぶ参道。もう一つは、階段の一つもない鎌倉寄りの裏道。そうしてもう一つが、ヨットハーバーの見える島人の生活路地。その路地伝いに中津宮のあたりまで一気にのぼれる。

いちばん面白い道である。漁村には違いないのだが、みんなモルタル造りの近代的な住宅になっていた。途中に伊勢海老や蛤を専門に扱う店。大きな蛤が売っていたが、これから歩き回るのに買うわけにはいかない。それから、釣のエサを売る店。遠く旅をしたみたいに、変化のある島で、いつ行っても面白い。

ところで俳句の収穫はどうだったかと言えば、ムムム。どうも、私は吟行派ではないらしい。帰ってきたら、「七曜」という雑誌が届いていた。「俳句」九月号の拙作「雫する水着絞れば小鳥ほど」を鑑賞してくれていた。「俳句」十一月号の鼎談ではこれしか誉めるものが無いような雰囲気で取り上げてくれていたが、私はこれを入れようか入れまいか迷いながら、数が足りないので外せなかった句である。

同じ号で、別の鑑賞者もこの句について鑑賞文を書いてくれているので、ますます目を白黒してしまっていたが、「七曜」を開いてまたまた吃驚しているところである。「七曜」に、9月号「俳句」から抽出されているのは、黒田杏子氏の句と私の句しかないのである。

 

句集

2007年10月27日 土曜日

和知喜八遺句集『五階の満月』

  冬北斗みずからこぼるる車椅子
  茄子の馬乗るかと路地に遅れ居り
  妻が病み木槿あちこち向きて白
  目覚めいて師の梟の鳴くを待つ
  赤芽柏に立ち師が見えており

「饗焔」俳句会で発行した前主宰の遺句集。「寒雷」ことに加藤楸邨の影を強く感じる作家。掲出の師は勿論楸邨である。
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磯貝碧蹄館第十句集『未哭微笑』

  噴水を咥えて青い馬が佇つ
  水無月の水飲む虎に塔の見ゆ
  冬眠の乳房へ低き時計音
  金色の釈迦の御手にも雛あられ
  天へ向く千枚通し鳥渡る
  百本の筆の周りに狐火立つ
  六月の空へ平均臺藏ふ

俳句を写実と唱えるだけでは、こうした句は生れない。熱量の高い言葉を積み重ねて、魅力的。

「女性の品格」

2007年10月26日 金曜日

このところ私らしくないことをやっている。パンを焼くことに凝っているのだ。とは言っても種を明かせば私らしくなる。パン焼き機が作ってくれるのだから。以前はパンを焼くなんていう事になったら、力と時間と几帳面さが必要だったが、このパン焼き機は全部の材料を入れてスイッチを押せば出来上がるのである。

娘からの母の日、父の日の合同プレゼントがパン焼き機になったのである。 娘の心積もりでは温泉一泊プレゼントのつもりのようだったが、なんだか、行く機会を見つけられないまま日が過ぎた。カタログには他にもいろいろ選ぶことのできるリストがあったのである。

そのうち目に入ったのがパン焼き機だった。弟の家で毎朝焼きあがったばかりのパンを食べているというので、それもいいかなーと興味が湧いた。しかしあくまで食パンしか出来ない。ほかのパンを作るときには、途中から手作業が入ってオープンで焼かなければいけないので、いまのところは、食パンのバリエーションのみ。

なんだか、ほんとうに便利になった。テレビで「女性の品格」という本の内容を紹介していたが、「家事を一手に引き受けるべからず」というのがある。しかし、すでに機械がつぎつぎ主婦の手の変わりをやっていてくれるではないかと思ったら、画面で作者自らが解説していたのが、時間で家事を引き受けてくれる事業があるので、部分的に家事を金銭で引き受けてもらう、というものだった。

ナーンダ、といいたくなった。それで、家事を業者に頼んで空いた時間を教養に使えというものだった。そこで、もう一度白けてしまった。ほかにもあった。嬉しいことがあっても人に直ぐには言っていけないとか・・・。この本が売れているのだそうである。多分、そのネーミングが知性派の女性にも受けたのではないかと思う。

間違っているかもしれないが、昔「女性に関する12章」とかいう本が話題になったことがあるが、それもとうとう読まずじまいだった。多分、この「女性の品格」も、読まないだろう。でも、パン焼き機をプレゼントしてくれた娘は「いいの、いいの、世間はあなたを女性に数えていないから」なんて、また憎まれ口を叩くのだろう。 ににんへ

秋のお茶会

2007年10月22日 月曜日

護国寺駅を降りるあたりから、それらしい着物姿の女性をあちらこちらに見かけて。多分護国寺のお茶会にいく人ではないかと思いながら後ろに付くと、やはり仁王門を潜っていった。

友人に、今度の日曜日は空いているのと聞かれて、空いていると言ったら「お茶会の券」をくれた。「護国寺の中は見たことがないので、この際じっくり見学するのもいいかと思って、参加することにした。護国寺の月光殿が、まもなく改修工事がはじまるのだというから、見納めであるから古い月光殿を見るのも、最初で最後になる。この月光殿は近江の三井寺から移築したもの。柱は抱えきれないような立派柱を使った本堂は紀伊国屋文左衛門が運んだ材木である。

今回の茶席はすべて淹茶席。世にお煎茶作法を教えるところがあるのは聞いていたが、体験するのは始めてだった。玉露、煎茶は普通だが、紅茶席と酒席というのもあった。作法はお抹茶作法と同じようなものだが、すべての道具が小振りで可愛かった。置炉も直径20センチもないような筒型の炉は、昔家庭で使っていたコンロと同じ仕組み。下から小さな団扇でぱたぱたと煽いでいた。

どの茶席の床の間にも、盛り物が置かれ、仏手柑や南瓜や鬼柚子、それから烏瓜など、秋一色で楽しい。護国寺の中にこんなに茶室があったことも始めての認識、艸雷菴・高卓間・月窓軒・化生庵・宗澄菴・不味軒・円成菴・羅装菴・・・・。

おしのぎを頂く前に酒席に入った。今日の秋日和に叶った「越の寒菊」、そんな名前もあったのだ。お酒の燗の温度で、味がこんなに違うものかと思うほど、はじめと二度目のお酒の味は違っていた。おとなりの人が「できたらコップで戴きたい」と囁いていた。

玉露席でお茶の産地を伺うと宇治だといった。本来、宇治のお茶は、こくのある玉露か抹茶用なのではないだろうか。それ以外の煎茶・席ではみな関東のお茶。私自身、宇治のお茶の癖のある味が好みではない。お茶人たちもそれを知っているのでないだろうか。

三人ほどでたしなむような小さな茶席をいつまでも居たいような気持ちで見回した。そういえば石鼎の家の茶室もこのくらい小さかったことを思い出した。私が訪れた頃は、正面の壁を掘り込んだ棚にお位牌を祀ってあったが・・・・。

句集のための整理

2007年10月17日 水曜日

出版社に返事をしてから随分月日が経つ。途中「まだですか」と何回も催促されながら、一向に捗らないのは、自分の句が見えなくなっているのかもしれない。句集を作るということが今回ほど躊躇われたことはない。集めてみても消したい句ばかり。消してばかりいたのでは句集にならない。

その混濁を振り切るために、それほど面識があるわけでもないS氏に帯を書いて戴きたいとお願いした。断られたらやはりコツコツひとりでまとめるしかないと思っていたら、「いいですよ」というお返事を頂いた。それを弾みにして、一気に纏めようと思ったが、その後もやはり句集のまとめ作業は遅々としていた。

祝賀会で出会ったS氏が「あのお話は継続しているんですか」といわれてしまうくらい、日が経っているのだ。それからもまた遅々作業を続けてきたが、今日やっとまとまってきた。それに比べると、第三句集「硝子の仲間」はなんと安産だったことか。それも、三年分の句しかなかった。少ないほうがいいのだろうか。

句集の整理は遅々としていたが、ただ、何故かいつも句集名だけは、迷うことなく決っていたので、自分の覚悟のために発表しておこう。

    嘘のやう影のやうなる黒揚羽蝶

この句から句集名は「嘘のやう 影のやう」にした。句会でも、ににんの人達の「秀句よりどり」の場でも、誰も通り過ぎていた句である。同じ号で誰もが選んだのは、「鬼灯の中は空っぽ耳鳴りす」だった。しかし、鬼灯の句は最終的には、句集から落としている。

パソコン 2

2007年10月15日 月曜日

総合誌からの原稿依頼もメールが活用されてきた。こちらも、締め切りぎりぎりのところで送れる利点もある。お互いに手間が省けるようになったのではないだろうか。原稿依頼のときには、どんな形式で入稿するのか聞いてくるようになった。

最初の頃は、開いた箇所だけが送られるのかと思っていたら、後ろに書いておいた覚書のようなものまで、送られてしまった。

ところで、先日総合誌からの原稿依頼がメールできた。勿論、最近開設された「週刊俳句」というウェブ上のサイトからなら、それはメールも当然だと受け取っているが、紙の本を出しているところからのメール依頼は、はじめてである。

今日は書きはじめなければと思い立ってメールをもう一度開いてみた。そこで何と締め切りの11月1日というのは10月31日の次の日であるという、ごく当たり前のことに驚かされた。11月という文字だけで、感覚的には遠い日のことのように受け取ってしまっていたのである。

かように粗忽な私を熟知しているかのように、「いわゆる総花的なものではなく、岩淵さん個人の関心のあったものでいいですよ」というやさいいコメントが付されていた。でも、遅筆なわたしが、8枚の原稿用紙を埋めるには日にちがたくさん必要なのである。

パソコン

2007年10月12日 金曜日

以前にも書いたが、このところ、不安がらせるPCと付き合い続けている。というのは、画面が瞬きするように真っ暗になることが、しばしばある。それが極めて頻繁に起こるかと思えば、翌日は忘れたように快調なので、何が原因で画面が真っ暗になるのか掴めない。ただし分かったことは、原因はあくまでモニターにあるのだ。真っ暗になったパソコンに向かって打ち続けていても、作業は確実に進むからである。

しかし、そのうち買え替えるしかないなーと覚悟しているのだが、新しいパソコンに慣れるまでが辛いので、使えるだけ使っていたい。そこで、前から欲しかった超小型の持ち運びもできるノートパソコンを買うことにした。というのは、今では一日もパソコン無しでは暮らせない状況にあるからである。体調不良もあったので、入院なんて事態にも対応しておかなければ、というのも理由だったし、図書館にも持ち込みたいのである。小さいとは言っても機械だからそこそそこの重さはあるのだが、持ち運べるモバイルパソコンはお友だちという感覚で気に入った。

だから、このところ画面が消えても驚かない。昨日はその作業中に頻繁に消えて、これはもう限界かなーと、モニターだけ買い替えようかと、散歩がてらに行きつけのお店まで出掛けてみた。モニターだけと言っても、現在のPCと合わないといけないという事で、機種などを確認してから、ということで帰ってきた。

ところが、昨日あんなに頻繁に途切れた画面が今日は暗くならない。機械の方で、少し真面目にならなければと、反省したのかもしれない。そう機械も案外無機質ばかりとはいえないかもしれない。初期に買ったPCは98年型で、ときどき「不正な行為をしたから強制終了します」と宣言するのであった。そのときも、あまりに頻繁なので、こっちの方が怒りたくなった。そこで、PCに言い放った。「いいわ、壊れたらもっといいパソコンを買うから」と。

ところが不思議にも、それから、その表示は出なくなった。今回も、モニターを買いに出かけたこともきっと察知したのだろう。 家具にも魂がやどっているのだと言うようなことを書いたのは梅原猛だったが、その本の題名は思出だせない。

大菩薩峠

2007年10月9日 火曜日

先日の検査の結果は、異常は発見されなかった。強いて言えばコレステロールが高めだったが、これは急に高くなったわけではなくずーっとそうなのだから、私自身は心配していなかった。医師はケーキなんてやたら食べては駄目だとか、運動もしなければなんっていうことを、何時もの無表情な無機質な声でいうのだった。

その声を喩えるなら、冬枯れの小枝の直線的イメージになる。血圧を測る看護士に片腕を預けながら、「食べなくても体重って減らないんですよねー」というと、また、さっきの同じトーンでそんなことはありません。食べなければ殖えませんよ、というのだった。確かにそれ以上の論理はない。

この医師の無表情な声を聞いていて、ふと「大菩薩峠」の中の机竜之助を思い出した。無表情に発する医師の言葉が、決して不快で冷淡ではない。むしろ、そのクールさは好きな部類にはいる。なのに、何故大菩薩峠の机竜乃助なのだろう。

実をいうと、つい最近、偶然古書店で文庫本になった「大菩薩峠」全巻が見つけたのである。いまさら中里介山でもないのだが、若い頃に四巻ほどで頓挫していたのである。それでも、頓挫していたから全巻の「大菩薩峠」を買ったのではない。気になる場面があったのである。

冷酷非道な人物として書かれているのだが、以前読んだ中で、極めて印象的に刻まれている場面があった。四巻ほど読んだ中のその一場面だけが妙に気になっていたのである。私の覚えている印象では、竜乃助へ何かの用事で訪れた女性に、竜乃助の発することばが、無表情で無機質でありながら、人間味を匂わせていたように思えたのである。普通の人なら、当たり前のことなのに、竜乃助だから目立ったのである。この医師の会話は、このときの竜乃助と重なったのである。

だが、読み直してみてどうだったかと言えば、その箇所が見当たらない。登場人物ではお浜かお豊しかいないのだが、例えばあだ討ちに負けてくれないかと懇願するお浜との会話の中でも、結構普通ではないかと思えて、結局分からずしまいで先へ読み進んだ。

驚いたのは、この物語に日本のいたるところが登場し、新撰組の近藤、土方、斎藤が登場して、石鼎が医師の手伝いをしていた深吉野の鷲家(わしか)が舞台になったりする。その上にグッピーなどという怪獣も出てきて、エンターテイメントの最高峰であるのだが、気になっていた箇所は探し出せず、未完の小説は謎ばかりだった。

句集 

2007年10月7日 日曜日

山本洋子句集『桜』  角川書店刊

きわめてさり気ない日常なのだが、それに静寂という言葉を被せたいような空気を感じる句集。

  掃いてあるところに椿よく落ちる
  雨来ては去る一軒家竹の秋
  一つ家にひとりで咲いて散る桜
  落椿入り日の前につづけざま
  裏戸より出でて椿の下を掃く

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
中原道夫句集『巴芹』  ふらんす堂刊

  と言つて初日の菊も気の迅し

何気なく開いたページで、一句に語らせるという事を、ことさら意識しながら作句するのではないかと思った。そう思いついてからページを繰っていくと、やはりそうした作品が並んでいるように思えた。

 どうにでもなる陽炎の中のこと
 にはたづみ覗かば虹の控へ室
 月見草とぢて雄蕊の片付かぬ
 兵児帯の男は金魚陋港の
 諸手挙げさくら歩いて来るやうな
 春深しどの家も閒引く子のをらず
 かげぐちに蒲公英の根の深さあり

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
井越芳子句集『鳥の重さ』     栞 西村和子  ふらんす堂刊

 改めて、この作家のやわらかな感性に触れたおもいがする。それはまた、西村和子氏のいう心象風景の展開にあるのかもしれない。

 びしよ濡れになり海鵜の浮いてきし
 風は日を通り抜けゆく野梅かな
 遠花火つめたき色を繰り返す
 暖房に息ととのへてゆきにけり
 春昼の体の中に羽の音
 春陰や鳥の重さの砂袋

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