2007年8月 のアーカイブ

神の思し召し

2007年8月30日 木曜日

「ににん」のホームページはもう少しで、リニューアルする。
もともと、このホームページは極めて個人的なも のだったが、私が管理するようになってから、すこしずつ項目を増やして、同人誌のホームページという体裁を整えた。とは言っても、ホームページのメカニズ ムを知っているわけでもない私が手がけていくのだから、なかなか思ったようにはならないのである。

使っているパソコンがデスクトップ型、 それも大きな画面を使っているので、気が付かなかったが、小さな画面で見る と、変なところに、文字がずれていたりする。会員にも、協力して貰うつもりで、ブログも併用してきた。その構成は変えないが、トップ画面も変えたかった し、ドメインも取得したかった。

そんなおりに、友人がその道のプロに引き合わせてくれた。意見を聞くだけのつもりが、リニューアルをお願 いすること にした。彼女も、独立して最初の仕事になるのである。管理ぐらいならできるが、リニューアルとなれば、7年間の蓄積の移動も物凄い時間がかかるのである。 その上に、ドメインの更新となれば、大事業である。

ところが、これにはおまけが付いてきた。このホームページ制作のプロが、なんと英語版「奥の細道」を引き受けてくれることになり、次号から登場する。このページを以前担当していた相羽宏紀さんが途中で亡くなってしまって途方に暮れていたところだった。

神 の思し召し、という言葉があるがあるが、相羽さんが引き合わせてくれたような気がする。そう思うのは、単に英語で 読めるというのではなく、なんと中国文学専攻だったところも相羽さんと同じなのである。それに連句にも関っていたのだから、全く無縁な分野の人ではなかっ た。世の中、いろいろな出会いがあるものである.

ににんへ 

涼しい!

2007年8月19日 日曜日

17日から仙台に出かけた。曇っていたので昨日よりは過ごしやすい。仙台の駅を降りても、列車の冷房の続きのような気温だった。前日の暑さを思い出すと、自然に嬉しくなるような爽やかな空気だった。ほんとうに久し振りの気持ちよさ。どうしても仙台に出かけなければならないというわけではなかったが、その辺りしか、孫二人が家に居ないというのだ。なにしろ、家族四人が揃うなんてことは、このごろめったにないのである。今回は来年の成人式の用意をしてあげるのも目的の一つ。だから、駅まで迎えに来てもらった車で、呉服屋さんへ直行である。買うか、レンタルか、娘の振袖を利用するか迷うところだったので、何十年も前の振袖一式を呉服屋さんに持ち込んで、広げてみた。「あー結構新しいじゃないの」と内心思った。新しいと思ったのは、その柄にもあった。着物ってほんとうに流行がないものなのだ。孫も気に入っていた。帯もどうなのかとおもったが、それも、いいんじゃない、と店の人の意見でもある。「お母さんの着た着物を着てもらえるなんて嬉しいですよね」と、店の人もなかなか感じがいい。

裄はぴったり、欲を言えば御端折りがもう少し欲しい、というところだった。身長が若干、ママより高いのだ。それは目を瞑ることにした。孫は御端折りが何を指すのか分からないらしく、会話を理解していない風だった。

付属物を新しくすることにした。店の人が二人掛かりで着せてくれながら、重ね襟の色あわせをする。以前は一枚のようだったが、最近は二枚重ねる。それから帯止め、帯揚げ、と大人が四人と店の人が三人で、意見交換しながら大騒ぎ。半襟、バックと草履、そしてショール。下着とつぎつぎ殖えていく。たいしたことはないと思ったが、そんな小物も数がふえると、うん十万になることがわかった。やれやれ。

なんだかんだと二時間くらい掛ったのだろうか。すっかり正装の姿が整って、写真もとっておわりと思ったときに、着付け係りの女性が、「帯揚げの色に迷っていましたよね。」と着物を着てた本人の気持ちを読み取っていて、また、何本かの帯揚げを、また出してきて、着物に合わしていた。さすが、プロだなーと感心した。周りの大人がわいわい言いながら選んだだけでは終わらせないのだった。

墓参

2007年8月13日 月曜日

弟の車に便乗して両親の墓参に行った。と言っても車で40分くらいの東京都管理の小平霊園。広大な墓地で、縦横に二車線の道が走っている。入り口近くには、芝生を敷いた広場がいくつもあって、墓参の家族の憩いの場所になっている。

広大な土地なので有名人も多い。文学者では、宮本百合子・伊藤整・壺井栄・徳田秋声・有吉佐和子。俳人では富沢赤黄男・富安風生などがあるらしいのだが、まだ全部の場所は把握していない。

両親の墓の近くまでを欅通りと名付けられた道を走り、大木の下に車を止めると、近くで数家族がシートを敷いて食事の団団の最中だった。墓参を済ませて、兄弟の家族同士が久し振りの懐旧の情を交している、という図だった。猛暑最中ではあったが、欅の木陰は涼しい風が流れて、家族たちが団団の場に選んだのが納得できた。

小さな墓地なのに、行くたびに木の枝を払う作業と、草むしりに汗が吹き出てくる。ひとしきりの枝落としと草むしりがおわって墓参を済ませて車に戻ると、先ほどの家族の饗宴はまだまだ終わらないような感じだった。

帰り道には、農家が庭先に野菜を並べていたので立ち寄ると、大きな冬瓜が300円。米茄子もおいしそうだった。「スイカもありますよ」というので、待っていたがなかなか現れない。きっと畑に採りにいっているのよ、話し合っていると、やっと猫車に西瓜を乗せて現れた。ほんとうに畑に採りにいっていたのだ。何と言う西瓜なのか聞き忘れたが、縞目のない西瓜。全部が暗緑色の西瓜。重かった!

大正10年作  西瓜食ふ鴉に爪と嘴とあり      石鼎
          西瓜うまし皮の緑を遠く赤                                     
(ににん)

夜の蝉

2007年8月11日 土曜日

真夜中になっても蝉の鳴声が衰えない。たぶん蝉には眠るという行動はないのだろう。それはそうだ。脱皮してから生き永らえるのは十日も無いのだから、寝てなんていられない。
パソコンをやっている背中で突然一際はっきりと鳴き声がするので振りかえると、蝉が網戸にしがみ付いていたた。硝子越しに近々と油蝉の顔があった。

正面から眺めるとつくづく蝉の目が大きい。というよりも、しっかり瞳をガードするような露雫のような円い突起が二つあるが、それ全部が目なのか、円い覆いの下に瞳があるのか。とにかく表情がみえない。ときには別の窓硝子に礫の当ったような音がする。多分、蝉が明り窓にぶつかってしまうのだろう。朝になると仰向けに死んでいる蝉を何匹も目にする。

    いつち先になく蝉涼し朝の庭   石鼎

数年前に取材で出雲に出かけたときに、出迎えてくださった板倉氏の家で出会った句。地元の小豆澤禮の画集「原石鼎句抄絵」の中である。画集の中では、柿の幹に張り付いている蝉。正面からしみじみと眺めた油蝉と同じだ。掲出句の「いつち先に」とは一番先にという意味。鹿火屋誌では大正十三年三月号が初出。関東大震災の直後での作。晩年の身体が衰弱してからは、出雲弁で、コウ子夫人の通訳なしでは、会話が成り立たなかったと語る人は多い。掲出句もまた、震災のショックで石鼎は精神不安定な時期であった。そうした時期には、出雲弁に戻るのである。同じ言葉を使った俳句が、その年の五月号にも(いつちさきの初筍の小さゝよ)があるが、どちらも『花影』には収録されていない。

だが、昭和23年の「石鼎句集」・昭和43年の「定本石鼎句集」・平成二年の「原石鼎全句集」のいずれもが

     いちさきになく蝉凉し朝の庭

となっている。大正十一年の出雲生れの画家小豆澤禮氏はあえて、「いっち先になく蝉凉し」の表記を採用しているのは、地元のことば使いだからなのだろう。この画集は平成九年刊。当然、石鼎句集を見ながら、絵にする俳句を選択したのだろう。それでもあえて「いち先に」ではなく「いっち先に」でなければ、地元のことばではないのである。

当時の病弱な石鼎がいかにまわりから管理されていたか。そして、いかに石鼎を整えることに、弟子たちが奮闘していたのかがわかるのである。    (ににん)

芸亭の桜

2007年8月9日 木曜日

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彩夏祭

2007年8月8日 水曜日

8月の第一日曜日の前後は、我が朝霞の市民祭り。土曜日の夜は花火大会のために町中の家が空っぽになっているのでないだろうか。
要するに市が祭りを作りあげたのである。だから、長年積み上げれば伝統行事ということになる。

彩夏祭としていろいろな催しがある。野球だかソフトボールだかの試合をしていた年もあったし、尾崎豊のフイルムライブを行なったこともある。和太鼓の競演は毎年やっているようだ。街の中のどこで何をやっているのか、全部を把握していない。

一番人気というより、目に触れやすいのが鳴子踊りである。これが凄まじい音楽で凄まじい踊りを競い合う。団体毎の競演だから、銀行だったり、建設会社だったり、宗教団体だったり、その他にもちろん地域単位の会があったり、規模も財力も多彩である。
しかし、その踊りは、わたしはどうも馴染み難い。情緒がないなどと言ったら、古いといわれそうだ。
グループごとに音楽も踊りも違うのだが、喩えれば手裏剣を投げる一瞬の動作を想像してみよう。あの一瞬の直線的、かつ先鋭的な動作が、連続するのである。
そのいでたちもまた、祭半纏の長いのを、羽織って暴走族の集団かと思うようでもある。

それを、時には方肌を見せ、ときには両肩を脱いで腰に捲き付け、鉢巻をして踊っている。それでも、そんな中に小さな子供混じって、同じ衣装を纏っていると、ミニチアを見ているようで何んだか可愛い。音楽もグループ毎に選曲、編曲したものを使ってかない勇ましい。

いつか行った郡上八幡踊りを思い出す。一晩中、それも一ヶ月つづく盆踊りは他に無いだろう。この行事のために近在から泊りがけで若者が集まる。郡上八幡の踊唄は一つではなくて、変化がある。

その上にも、若者は変化を求めて、突然輪から抜け出して小さな輪を作る。どうするのかと思ったら、ツービート的というかフオービート風にスピードをつけて踊りだすのである。そうなっても踊りに乱れが無い。長い伝統の中で培われたたしかな所作ともいえるので、見物人の目を釘付けにする。

広島忌

2007年8月6日 月曜日

  八月六日は広島に原爆が投下された日。広島の式典がテレビ画面に映し出されて朝八時十五分に黙祷が行なわれた。原爆投下のその時間、私はたしかにこの世に存在していた。しかし、原爆の被害を目にしたことはなく、情報も伝わらなかった。もちろん、当の広島市民だって何がなんだか分からなかったのだろう。 でも、原爆忌会場での黙祷の静寂な時間が画面に映されているうちに、涙があふれてくる。体験はないのだが、例えば井上光晴の「ツマロー(明日)」・井上ひさし原作の映画「父と暮せば」・そして井伏鱒二の「黒い雨」などで十分に、その悲惨さは想像できる。八月六日と八日、そして終戦のことも、石鼎はどう受け止めたのか。
昭和十四年ころから、石鼎はパントポンの中毒により、神経を侵され始めて、慶応病院に入院していた。退院してからも、また薬をこっそり入手して服用してしまう石鼎にコウ子は困り果てたのだろう。
騙すように連れていって、松沢病院に入院させた。そこで石鼎は病室のスリッパに書かれた松沢病院という文字を見て号泣していたというのだが、コウ子夫人もそうするしかなかったのだろう。
石鼎は己を律するということに、極めて弱かった。それは、学生の時に、二年も落第したことでも伺える。全句集でも十八年から二十三年に到るまで作品が抜けている。雑詠の選句も、高弟にまかせている。この句集を編んだのは、そうした経緯で、もう石鼎は立ち直れないだろうと判断したので、全句集編纂をしたのである。
関東大震災のときがそうだったように、戦争を怖がることにおいても並外れた恐れを抱き、昭和十六年十二月八日の宣戦布告は、ふたたび病状悪化の要因になった。俳句も作らないと言い出した。
むしろコウ子に終戦を迎へた開放感が次のような句になって第一句集「昼顔」のトップを飾っている。      飯のかほり口辺にあり鵙高音   コウ子

御飯を食べるという行為そのものが、当時は平和の象徴だった。

齋藤空華

2007年8月5日 日曜日

ついでに、わたしのお宝を紹介しておこう。
生涯のただ一冊の句集、結社誌くらいの厚さで、収録句は約300句。

    十薬のけふ詠はねば悔残す 

この句がとくに有名だが、夭折した俳人とは思っていなかった。
「曲水」で曲水賞を得て、昭和25年に亡くなっている。
序文を大谷碧雲居・石田波郷、、後記として菊池麻風が書いている。

20070805112635.jpg作者は斎藤空華(さいとう・くうげ)〈1918−1950〉

戦後帰還してすぐに肺結核で療養生活していた。渡辺水巴に師事し、石田波郷の療養俳句に深く共鳴していた。
句集は、没後に発行されたものなのだ。書籍というよりも冊子という装丁で、表紙はもちろん、中まで茶色に日焼けしている。古書店のでもかなりな値段がついている。頂いたときには、その価値等全く分からなかったが、最近になってネットの検索で確認した。
昭和25年刊というから、句集など出すというのの容易ではなかった時代なのだろう。迂闊に開いたらこなごなになりそうで、コピーを傍に置いてある。

   炎天やいくたび人の死に逢ひし
   春昼やたまたま笑ひ涙出づ
   啓蟄や生きとし居きるものに影
   秋の風かざす十指に吹きわかる
   一切の先づ笹鳴きにあひにけり

古書売場

2007年8月3日 金曜日

池袋西武デパートのリブロの奥のほうに細いエスカレーターを3階まで昇ると、詩歌書籍専門のコーナーがある。否あったというべきだった。
そこがいつの間にか古書売り場になっていた。
折角だから一巡することにした。足を運んでいる視野の端に北園克衛の薄い冊子が目に入った。

書簡もあって、芥川の手紙が何十万円だったか。
初版本のようで高価な本ばかりであったが、途中で正津勉さんの詩集が二冊並んでいるのに出会った。
出遭った以上、さらに手にとった以上は買わねばならない。
以前の書籍の装丁は風格がある。

「帰去来散稿」昭和49年 紫陽社発行。これは29歳頃のもだ。tesuto.jpg

「死ノ歌」昭和60年 思潮社発行 20070803215745.jpg
表題だけ見ても、正津勉の詩はいつも重いテーマである。

 正津さんの二冊をカウンターにおきながら、そのあたりにあった北園克衛の本を手にとってみようと思ったが見つからなかった。
「このへんに北園克衛の本があったんだけど」
そういうと、店員は「ガラスケースの中にたくさんあります」
というのだった。
ケースの中を覗くと、みんな、さっきの一般の書棚にあった一万円の数倍した。

北園克衛は学生の頃、龍土町の石鼎の家に下宿していて、「鹿火屋」に詩を載せていた。

 本村町の地図

2007年8月1日 水曜日

やらなければ、やらなければと思いながら、すぐに数ヶ月が過ぎてしまう。以前古書店で「麻布本村町」というタイトルの本が目に入って、中身は確かめずと買ったのは、石鼎の住んでいた地名だったからである。大正14年生まれの著者荒潤三さんは健在だった。本村町も案内できるというので、お願いしようと思っていたが、私のほうがぐずぐずしてしまって、この暑い最中になってしまった
どうしようかとおもったが、やはり連絡をとってみた。本村町のあたりは坂がおおくて、この暑さではちょっときついから、と手書きの地図、それも、現代と当時の地図を送ってくれた案内するときに、私に渡そうと思っていたとのこと。

buroguyou2.jpg

著書の略歴で著者紹介 昭和25年早稲田大学理工学部土木工学科卒。55年東京都水道局退職。 さすが理工学部の人の書いた地図だと納得する緻密なもの。
ほかに調べたら「横綱の墓を訪ねて」「落語歌留多」、などがあって、お目に掛ったらいろいろなお話が聞けそうである。本村町を歩いてから、実行しよう。この本村町は現在消えてしまった町名である。
昭和37年、法律第119号により新しい住居表示が実施されることにより、本村町は、元麻布1・2丁目、並びに、南麻布2・3丁目の四つに分断された。

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