広島忌

  八月六日は広島に原爆が投下された日。広島の式典がテレビ画面に映し出されて朝八時十五分に黙祷が行なわれた。原爆投下のその時間、私はたしかにこの世に存在していた。しかし、原爆の被害を目にしたことはなく、情報も伝わらなかった。もちろん、当の広島市民だって何がなんだか分からなかったのだろう。 でも、原爆忌会場での黙祷の静寂な時間が画面に映されているうちに、涙があふれてくる。体験はないのだが、例えば井上光晴の「ツマロー(明日)」・井上ひさし原作の映画「父と暮せば」・そして井伏鱒二の「黒い雨」などで十分に、その悲惨さは想像できる。八月六日と八日、そして終戦のことも、石鼎はどう受け止めたのか。
昭和十四年ころから、石鼎はパントポンの中毒により、神経を侵され始めて、慶応病院に入院していた。退院してからも、また薬をこっそり入手して服用してしまう石鼎にコウ子は困り果てたのだろう。
騙すように連れていって、松沢病院に入院させた。そこで石鼎は病室のスリッパに書かれた松沢病院という文字を見て号泣していたというのだが、コウ子夫人もそうするしかなかったのだろう。
石鼎は己を律するということに、極めて弱かった。それは、学生の時に、二年も落第したことでも伺える。全句集でも十八年から二十三年に到るまで作品が抜けている。雑詠の選句も、高弟にまかせている。この句集を編んだのは、そうした経緯で、もう石鼎は立ち直れないだろうと判断したので、全句集編纂をしたのである。
関東大震災のときがそうだったように、戦争を怖がることにおいても並外れた恐れを抱き、昭和十六年十二月八日の宣戦布告は、ふたたび病状悪化の要因になった。俳句も作らないと言い出した。
むしろコウ子に終戦を迎へた開放感が次のような句になって第一句集「昼顔」のトップを飾っている。      飯のかほり口辺にあり鵙高音   コウ子

御飯を食べるという行為そのものが、当時は平和の象徴だった。

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