評者 ・ 黒川俊郎丸亀丸
子子のびつしり水面にぶらさがり 岩淵喜代子
俳句で「潜る」という言葉が出てきそうなのが、水鳥とか海女とかである。潜水艦や潜水夫もある。要は水面から下方に入る込むこと、行為をするものに関する俳句である。そう見当を付けるのは「潜る」に関わる俳句について、何か書けといわれた場合の常套的な判断であろう。私もその線で何か書きたくなるような句はないかと探した。
水鳥はけっこう潜っていて『よく潜ぐ水鳥のゐて沼ぬるむ 能村登四郎』『水鳥は水にもぐつて日暮れけり 鈴木郁』『水鳥の潜りだきとき皆もぐる 根岸善行』といったように並ぶのだが、あんがい海女が潜らないのである。ようやく『大き息ひとつ抱へて海女潜る 岡西剛』を見つけた。『葉桜の透き間原子力潜水艦 石井直子』『青蚊帳に父の潜水艦がいる 菊地京子』という潜水艦の俳句もあった。
だがどうも、どの句も意表を突いた「潜る」という感じではない。つまり最初の探すところから間違えているのである。こんな時は気分を変えたほうがいい。面倒でも気が向いた句集を開いていくうち何かに出会うだろうと、開いた句集が『嘘のやう影のやう』(岩淵喜代子)であった。私は岩淵喜代子さんというと『逢いたくて蛍袋に灯をともす』の句を思い出す。
彼女の句はどの句も言葉が平易でしかも自由である。『嘘のやう影のやうなる黒拗羽』がこの句集の題名のもととなった句。日常にある不確実性を深刻ぶることなくお洒落に描いた一句だが、視点の確かさや発想の豊かさに瞠目する。
そんな岩淵喜代子さんの一句。『子子のびつしり水面にぶらさがり』はまさに探していた句である。水面という境で水のなかは潜つていることになるが、それは人間の視点に過ぎない。
ぼうふらにすれば、ぶら下がっているのである。今どきぼうふらのびっしいる光景など、都会では見かけることがなくなったが、きっとどこかでぼうふらはびっしりとぶら下かって、今も水面越しに覗き込む人間を見ていることだろう。