2006年12月 のアーカイブ

時雨忌

2006年12月17日 日曜日

 連句はこのごろ年一回、上野の文化会館で行なわれる時雨忌に参加するだけになった。今回参加したグループの捌き手は早稲田の助教授宮脇真彦氏。教え子を連れてきたせいか、付け句の流れを解説しながら進行したので、、分かり易かった。なんていうと、川野蓼艸さんに何年連句をやっているんだと言われそうだが。

平成十八年十二月十七日 第三十三回俳諧時雨忌   脇起し歌仙 「時雨の宿」の巻


人々を時雨よ宿は寒くとも                    翁
ざわめく街を短日の窓                     真彦
四分音符指運びの手つたなくて                沙綺
ネクタイ二本重ね締めをり                   粗濫
湖のどこからどこへ月の舟                  喜代子
葡萄の房のいつか色づく                    由美

まづいなと思ひながらも今年酒                亞住
携帯電話(ケイタイ)閉ぢて開くためらひ          有美心
中の現場を写すヘリコプター                 俊彦
耳の真珠を舌でなぞつて                   有美
書庫匂ふ金?梅の薄埃                    沙綺
トロイメライが鳴つて聖夜ぞ                 粗濫
月光にお化け屋敷の人浮かび               俊彦
蝸牛にでもなつて角出す                    喜代子
スカウトの名刺は嘘か誠かと                  沙綺
拉致問題はまたも棚上げ                    俊彦
この道はなつかしき道花盛                  亞住
子等散らばつて野遊びの岡                   由美
ナオ
卒業証書竹刀に面を取られたり                粗濫
飛行機雲のまつすぐにのび                   喜代子
霍乱の男を乗せて救急車                    俊彦
焼いて忘れん嫌な現実                      亞住
あきらめた夢のひとつに恋の夢                 粗濫
手玉にとつたり受け流したり                  亞住
トタン屋根ころげ落ちたる猫のゐて              粗濫
放生会過ぐ池の夕暮                       俊彦
捨て置きし螺鈿細工に月の暈                 有美
秋の袷に眼鏡さがせり                      喜代子
ミツフィーとはおのがことかとナインチェ言ひ         沙綺
宇宙の果へ一瞬の旅                      俊彦
ナウ
雨上る新樹の走りだしさうに                   粗濫
海青ければ飛び込んでみる                   由美
言ふならば窃盗強盗骨董屋                  沙綺
誰染みつけしテーブルクロス                  有美
寺々に天の邪鬼ゐる花の雲                   真彦
巣箱の穴を風のそよげる                     俊彦

耕治人

2006年12月16日 土曜日

  懐かしいなー。耕治人の「そうかもしれない」が映画化され、30日から公開されるようである。
出版されたのは、20年くらいになるだろうか。「天井から降る哀しい音」の後に書かれた、この物語は、耕治人自身の夫人との実生活である。
認知症になりつつある家庭生活を描いたのが「天井から降る悲しい音」。
「哀しい音」とは、妻のために、市が取り付けてくれた煙センサーの鳴る音である。
妻の症状がさらに進んで、しかも、耕治人自身も癌に侵されて入院していく過程を描いたのが、「そうかもしれない」なのである。 

 認知症の妻を施設にあずけて入院した作家のもとに、或る日、妻が見舞いに来る。
連れてきた施設の職員が「あなたのご主人ですよ」という。
すると夫人は静に「そうかもしれません」というのだ。それが題名になっている。
哀しいのに優雅な題名だ。耕治人夫婦を演じるのが、桂春團治と雪村いづみである。
 そのせいか、NHKテレビの朝番組に雪村いづみが出演した。久し振りに見たせいか、
ずいぶん老けたなと感じたが、あたりまえなのである。70歳に近いのだから。 

 それでもやはり、同世代として、年齢を重ねてきたものにとってはショックである。自分の前に広がる風景は納得してしまうのに、向こう側から見る風景は、なかなかうべなうことが出来ないのである。

プラナリア と 銭売り賽蔵

2006年12月16日 土曜日

「プラナリア」と「銭売り賽蔵」    
 濫読とはまさに私のこと。外出に本を持って出なかったので、駅構内の書店で物色して得たのが、山本文緒著「プラナリア」。全く知らない作家、しかも表題の「プラナリア」の意味もわからなかったが、この作品で直木賞受賞者だ。何が惹かれたかといえば、最初の1ページ目の軽いタッチだったかもしれない。クリオネは海に棲むが、プラナリアは渓流にすむ2,3センチのヒルのような動物。あまり美しいすがたはしていないらしいが、再生力が強いらしい。表題のほかに、「ネイキッド」「どこかではないこと」「囚われ人のジレンマ」「あいあるあした」。どこか覚めた眼で、意欲もなく流される若者の視点で、若者のしゃべり言葉の感覚で貫かれている。その覚めた視線は、どこか諦念にも似て年齢を経たわれわれにも届くのだが、ときどき理解できなくなるのは対人感情。どの作品にも隣人、恋人、友人に冷酷とおもえる言動があるのである。1962年生れの作家だから現在43歳だ。
 今、読み終えた本のもう一つは、山本一力著「銭売り賽蔵」。明和二年とは1764年で江戸時代の銭替え商のはなしだが、この本は現在の東京の原型が極めて鮮明に描き出され、当時の三越、三井などの銀座のありようが思い描けてうれしくなる。例えば三越の場面では、「たくさんかけられている暖簾の一枚を潜っても一目では見渡せない広さ」などと、具体的である。そして佃島を描き深川を描き、当時の職業が彷彿とする。水売り、仕出屋、要約すれば銀行の原型が「そんな成り立ちだったのか」と納得する。平安時代ではまったく夢物語だが、江戸は現代から辿ることが出来るから、身近に感じ取れる。錦絵のように思い描ける魅力で読み終った。

2006-09-20 21:38  nice!(0)  トラックバック(0)

編集

2006年12月11日 月曜日

雷に怯えながら  [その他]  
 「ににん」は現在、編集済み、初校済みのデーターを印刷所に入れる。勿論、この最後の仕事にたどり着くまで何日も掛かる。さらに、その最後のデーターを紙焼きで、割付確認して、ようやく印刷所に送るのである。プリントされたページを繰っていくと、おのずと雑誌の形がはっきりする。ほっとするひと時である。 夕べは雷がひどいので、緊張しながらパソコンを開けていた。でも一方では、時を選ばないで訪れるパソコンの不調に怯えているので、出来たものはなるべく早く印刷所に送ってしまいたいと思うのである。終わったのは明け方だった。結構時間と神経を使う作業であるから、好きでなかったら手がけられないだろう。
 原石鼎が句集『花影』を作るときに、選句を活字にしたもので選びたいと駄々をこねて周りを困らせたようだ。今だったら容易にその願いを叶えて上げられるのに。たしかに、17文字はその「かな」と漢字の組み合わせによって印象が違ってくる。手書きと活字との差もまた、作品の印象の要素となるのだろう。

 

2冊の句集

2006年12月9日 土曜日

辻村麻乃句集「プールの底」角川書店刊
山口紹子句集「LaLaLa」文学の森刊

 この二冊とも、身近な人が装丁している。辻村さんは友人の絵。ブルーの表紙の真中に田園を走る電車の絵を小さく収めているのが爽やかである。この一集に子育てが詰まっているといってもいい。

しつかりとおままごとにも冬支度
この句がその面目躍如の感。

摘むうちに少女消えゆく蛇苺
いつからか叔母が嘘つく花曇り
偶数になつたら晴れる草雲雀
裸子を追ひかけ雲のタオルかな

 山口さんの句集は、一瞬絵本かとおもうような装丁で、手にのるハガキ大の句集。薄紫の地に鉛筆に跨った魔法使い。しかもこの句集は所属も略歴もない。もちろん住所も年齢もない。後書きによれば、何も書かないことが希望だったようだが、それではあまりに失礼かとも思って、という書き出しで、句集を作る経緯を語っている。それによれば遺句集にならないようにという家族の言葉に背中を押されたようだ。爽やかな覚悟と意思を持っている。

陽炎をよく噛んでゐる駱駝かな
特に掲出の句の駱駝の捉え方のうまさに感心。

おぼろ夜のおもはず白き脹らはぎ
いちまいの空干されをり野分あと
寝返りてこの世に戻る虫時雨

2006-09-16 08:52  nice!(0)  トラックバック(0)

 

一日句集を読んで

2006年12月7日 木曜日

島村正氏 句集「未来」より
    雨脚も風脚も見ゆ大青田
    神杉に立てかけ障子洗ひゐし
————————
茨木和生氏 句集『畳薦』
    一点のごとく小さな菌かな
「畳薦』(たたみこも)のことばをあらためて認識した。さらに、何気なく見ていた茨木氏の住居が豪族平群氏の拠点。やはり奈良は奥が深い。冒頭の作品、「一点」という言葉の効果に驚く。言われてしまえばそれまでの何気ないことばであるが、それ以上の表現がないリアルな措辞
ーーーーーーーーーーーーーーー
伊藤敬子氏 句集『白根葵』
俳人協会訪中団の一員として中国をご一緒してから二十年近くになるのだが、昨日のような気がするほど伊藤敬子氏は変わらない。きっと一緒に年齢を重ねているからだ。
    揉み合ふて急ぎゆくなり雪解川
    無言にて籠へと疲れ鵜を封ず
    雪渓に日の当りゐて仰ぎをり
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
須佐薫子氏 句集『聖徒』
    音立てて身ぬちの銀河流れをり 
    不知火も見世物小屋も消えにけり
    冬麗や豆腐屋いつも片付いて
何気ない言葉で、不思議さを見せる句が好きである。中でも「不知火」の句に惹かれる。

十七号線

2006年12月1日 金曜日

118・・雪国・・
五日に帰るつもりでいたが、四日に変更した。
 「近所に迷惑をかけられないよ」
という連れ合いのことばに、この場合は従うしかない。
 帰省ラッシュの最中であるが、余り早立ちは出来ない。三国山脈の山道は朝は凍っているからだ。どうかすると、日陰の道は、真昼になっても凍っている。道の溶け出した昼頃出発して、山を越えてしまうまでは、用心が必要だ。
 「昔は歩いて越えたんだね」
と娘は言う。
「そうよ、車なんてなかったんだから」
「野麦峠って何処にあるの」
「なんで」
「だって、昔は野麦峠を越えて、ハタオリに行ったんでしょう」
娘は、最近「ああ 野麦峠」を読んだばかり。物語の中の女工が自分と同じくらいの年齢であることに、女工哀史の実感を深めているようだ。
昔の人は、本当に我慢強い。
今、同じことはできないな、とふと思った。
野麦峠ならぬ、三国峠では、あちらこちらで、スキー場が見えて、スキーヤーが斜面を流れるように動いているのが見えた。雪景色の中だから、色とりどりのスキーウエアーがことによく見えるのだった。

119・・雪国・・    
『お父さん、野麦峠も通りたいな」
突然娘はとんでもないことを言い出した。
方向音痴の私はときどき全く正反対の場所に「ついでに寄って行って」などと言う。
本当に地理が頭に入っていないのだ。大体日が昇るから東、そして、夕日が落ちていくから西の空なのだろう、と判断するだけで、東西南北などつかめない。
娘もまた、野麦峠が、どこか寄り道すれば行けるのかかと思っているのである。さすが、わが娘である。
「何言ってるんだ。野麦峠なんて一山も二山も越えなくてはいけないんだ。それより、冬なんてきっと通行止めになっているよ」
真冬はたしかに、交通止めになっている道は多い。
その上、当時はナビゲーターを使っている人もいなかった。

120・・雪国・・
十七号線が貫いている三国峠は、山肌をぐるぐる回りながら県境を越える。日面の道は乾いてたが、日陰の道は、凍っているところもあった。
そんな道でも、平地並の速度で追い越していく車がある。カーブばかりの道だから、追い越していった車は直ぐに見えなくなった。
「アブナイナー、そんなに忙なくったっていいのになー」
と呟いているうちに、なんと今追い越したはずの車が眼の前に真正面から現れた。いったいどうなっているのか。
よほどの技術がなければ、この山道で向きを変えるのは難しい。第一、向きを変える時間などないような、とっさの出来事だった。
山肌の道はカーブの連続だから、対向車は突然姿をあらわす。対向車とはあやうく正面衝突しそうになっていた。
車は、辛うじて我が家の車を避けて谷側のフエンスにぶつかって止まった。フエンスの外側は千尋の谷底。
スピードを出しすぎて、制御できないまま、向きが変わったようである。
わたしたち一家は何事もなかったかのように家路を辿った。
衝突しそうになった車にしても、やはり何ごともなかったように目的地に向ったことだろう。
凄い惨事になったかもしれない現象であったが、時間にすれな30秒ほどの出来事だった。

雪国から

2006年12月1日 金曜日

116・・雪国・・
留守番をしているルリの餌係りを頼んでおいた家から電話があった。
ルリが餌を食べないと言うのであった。
「上げた餌が全く減ってないのよー」
きっと、電話の向こうで二宮さんは体をくの字に曲げて、傾いた顔に受話器を乗せるようにしながらしゃべっているのだろう。困ったときの何時もの癖なのだ。
「でも、まだ風呂場にたくさんあるのかもしれないわ」
「それでも、こっちはキャットフードじゃないのよ。マグロの刺身よ」
「えー、なんでそんな贅沢をさせるのよー」
「だってー、食べないから、だんだんエスカレ−トしちゃったのよ」
「三日分くらいは置いてあるはずだから、あとは帰るまで食べなくっても死なないわよー」
「でも、表にも出てこないのよ。あれから1度もルリちゃん見ていないのよ」
「大丈夫よ、奥さんが知らないときに出入りするのよ」
とは言ったものの、なんだか不安になってきた。

117・・雪国・・    
部屋へ戻って電話の経緯を伝えると、なんだか、娘も連れ合いも落ち着かなくなった。
でもなー明日は、スキーの予約もしてあるし、と思い巡らしていた。
姑は、にこにこと連れ合いをみながら、
「やっぱし飼っているんだね。ショウちゃんは猫が好きだもんね」
というのだった。きっと猫は子供の頃から飼いなれているのだ。
「夜になると、隣の猫がショウちゃんの布団に寝るのよ」
「へー」
みんなは初めて聞く話に目を見開いた。
私は、この雪の中を、どうやって猫は通ってくるのかと思った。
「だから、その猫が死んだときは、半日泣いていたわ」
「へー」
と、みんなは、さらにまた目を見開いた。
動物好きというのは生まれつきなんだなー、とあらためて感心もした。

雪国

2006年12月1日 金曜日

112・・雪国・・  
「ルリに餌!」
「はいはい!」
連れ合いは元旦も忙しい。
実家の六日町へ行かなくてはならないから、ルリのための居場所と餌を用意しなければならない。
わたしたちは、毎年元旦に連れ合いの実家である六日町まで行かなくてはならないのである。
そのときのルリの処遇が悩みだった。車に乗せればいいのだが、近所の家で千葉まで車で運んだら死んでしまったのである。
以前犬を飼っていたときも、車に乗っているあいだじゅう涎を垂らしていて、苦しそうだったので、体の小さな猫なら尚更影響があるだろう。
仕方がないので、飼い始めてか毎年、餌を風呂場において行くことにした。と言っても、いくらもの分かりがよいるりでも、その餌を五日も持たせる智恵はないだろうと思って近所の人に頼んで置くのだった。
近所の人に2日位したら、風呂場のでは入り口の窓の下に置いてもらうのである。風呂場の中に、電気アンカを入れた箱を用意した。部屋には入れないような工夫もしなければならなかった。
「お留守番ですよ」
ルリは、いつも留守になることには慣れていた。犬のように鳴き続けることもないらしい。

113・・雪国・・  
当時は関越道がまだなかった。だから十七号線をただひたすら走るしかない。三国山脈はもう雪で真っ白、大概途中でチエーンを巻く作業がある。苗場までくると一休みするのは、そこだけ都会風な喫茶店などもあるからだ。
たまには、実家から足を伸ばしてスキーにもやってくる場所で、そこまで来ればもう実家についたようなもの、ほっとするひとときでもある。
苗場までくれば、もう下り道。下りきったところが越後湯沢。
川端康成の『雪国』のトンネルを抜けると雪国で書かれている場所である。
その辺りからは、どこもかしこも雪で真っ白である。きれいであると同時に、都会育ちの私に取っては寒さが堪えるのだった。そんなに寒いのだから、家中を暖房すればいいようなものだが、そうはなっていない。トイレに行くたび、風呂場へ行くたび、寝室に移動するたびに寒い。

114・・雪国・・   
温泉地だから、銭湯も温泉である。
実家から五分くらいのところに、その銭湯はある。何処にでもある銭湯の構えで、朝の5時から入れる。雪国の寒さは、ことに夜に発揮される。
誰かが、濡れた手拭いを振り回せば凍ってしまう、と言ったが、それは本当なのである。
一番喜んだのが娘である。
なにしろ、手ぬぐいが棒のように硬くなるのだから、不思議におもえるだろう。
5分の夜道が、風呂上りには限度である。それ以上戸外にいたら、折角の体が冷えてしまう。
兄弟のそれぞれの家族が一塊になって家に着く頃は、振り回さない手ぬぐいも硬くなって、一本の棒になっていた。

(115)・・雪国・・  
家の中に入ったら暖かい、というものではない。廊下を足早に通ってストーブと炬燵の或る部屋に入って、やっとほっとする。
だが、女性群はそこに落ちつけるとは限らない。
お燗をつけるために、お料理を運ぶために、台所を往き来する。
居間のとなりが台所なのだが、いちいち障子をあけて廊下に出てから台所の戸をあける。
お皿を運ぶたび、料理を運ぶために、居間の障子と台所のガラス戸を、何度開け閉めすることか。
都会なら、絶対居間と台所は続いているのに。
それを不便に感じないで暮らすのである。
その台所にしても、大きなテーブルが真中にあって、そこで、十分に食事が出来ると思うのに、ただただ、盛り付けた料理のための台でしかない。
台所は料理を作るところという、概念に揺るぎがない。
「喜代子さんには住めないわねー」
と、もうひとりの兄嫁が言う。
「いやー、住めないことはないと思うけど」
「無理だとおもうわー」
と義姉がいう。
「ダメヨー、カルチャ−センターがないもの」
何と、その発言は娘だった。それまで、居ることも忘れるほど、黙って私たちの会話をきいていた娘が、突然ことばを挟んだ。
私は、普段、何を習っているとか、どんな所に通っているとか、ことさらには、家族に言っていない。なのに、娘はなんだか母親がカルチャーセンターなんていうものに行って、いきいきしているなー、と感じていたのだ。

(さらに…)

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