プラナリア と 銭売り賽蔵

「プラナリア」と「銭売り賽蔵」    
 濫読とはまさに私のこと。外出に本を持って出なかったので、駅構内の書店で物色して得たのが、山本文緒著「プラナリア」。全く知らない作家、しかも表題の「プラナリア」の意味もわからなかったが、この作品で直木賞受賞者だ。何が惹かれたかといえば、最初の1ページ目の軽いタッチだったかもしれない。クリオネは海に棲むが、プラナリアは渓流にすむ2,3センチのヒルのような動物。あまり美しいすがたはしていないらしいが、再生力が強いらしい。表題のほかに、「ネイキッド」「どこかではないこと」「囚われ人のジレンマ」「あいあるあした」。どこか覚めた眼で、意欲もなく流される若者の視点で、若者のしゃべり言葉の感覚で貫かれている。その覚めた視線は、どこか諦念にも似て年齢を経たわれわれにも届くのだが、ときどき理解できなくなるのは対人感情。どの作品にも隣人、恋人、友人に冷酷とおもえる言動があるのである。1962年生れの作家だから現在43歳だ。
 今、読み終えた本のもう一つは、山本一力著「銭売り賽蔵」。明和二年とは1764年で江戸時代の銭替え商のはなしだが、この本は現在の東京の原型が極めて鮮明に描き出され、当時の三越、三井などの銀座のありようが思い描けてうれしくなる。例えば三越の場面では、「たくさんかけられている暖簾の一枚を潜っても一目では見渡せない広さ」などと、具体的である。そして佃島を描き深川を描き、当時の職業が彷彿とする。水売り、仕出屋、要約すれば銀行の原型が「そんな成り立ちだったのか」と納得する。平安時代ではまったく夢物語だが、江戸は現代から辿ることが出来るから、身近に感じ取れる。錦絵のように思い描ける魅力で読み終った。

2006-09-20 21:38  nice!(0)  トラックバック(0)

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