身体意識の結晶 ーーーーーーー 小澤克己
岩淵喜代子さんには、すでに『朝の椅子』『蛍袋に灯をともす』『硝子の仲間』の三冊の句集がある。加えて『墟のやう影のやう』が四冊目の句集となる。第二句集『蛍袋に灯をともす』で第一回「俳句四季大賞」を受賞し、世に広く知られる実力俳人になった。同人誌「ににん」を創刊した翌年(平成一三年)、二十一世紀が始まったばかりのことだった。
岩淵さんの句歴はもう三十年以上。かつてのエッセイで「文体は思想」として林田紀音夫を論じていたが、第四句集への道程は将に岩淵さん自身の〈文体は思想〉探りだった。
雨だれのやうにも水魚あたたかし
眠れねば椿のやうな闇があリ
鱧食べてゐる父母の居るやうに
秋の蝉鎧のやうなものを着て
火のやうに咲く花もあリ迢空忌
直喩〈やうな〉を使った作品。句集名も、
嘘のやう影のやうなる黒揚羽
とくやうな〉を二つ使っている。この修辞表現にはみな〈文体は思想〉という意識が強く働いている。逆説的に文体を思想化〉出来ぬ作品は俳句ではないと言えようか。すると、安易に修辞表現に頼る文体も、その思想化からは遠のくことになる。難しい所だが、岩淵さんは敢えてその難点に切り込んでいる。直喩よりも暗喩(隠喩)に文体の複層化が包含されているが、作品の読み、あるいは伝達の拡散性の問題を孕んでいる。実は、句集名となった先句にもそれが内在している。
つまり、〈嘘のやう〉〈影のやう〉の畳みかけの直喩が実はすでに隠喩化していることに気づく。例えば、『般若波羅蜜多心経』の「諸法空相」、実存主義の「存在と無」、逆上ってギリシア哲学者プラトンの「イデア論」などの存在論の認識に対峙させてもよい。黒揚羽の句は十分その思想の重みに耐えている。
さらに隠喩が思想化を果たすと、〈詩の身体化〉が始まる。
白魚を遥かな白馬群るるごと
海風やエリカの花の黒眼がち
春眠のどこかに牙を置いてきし
青鷺は大和の国の瓦いろ
雫する水着絞れば小鳥ほど
本句集に高い水準の評価が集まるのは、この〈詩の身体化〉の成功であろう。西東三鬼の「穀象の群を天より見るごとく」に近い成功作の二回目、エリカに黒眼を発見した詩的洞察、自己の詩的変化を〈牙を置いて〉でシンボル化した手柄、〈青鷺〉を〈瓦いろ〉と形象・象徴化させ、五句目は、自己身体がまとっていた水着の別事物(小鳥)への身体化か図られ、成功した表現に結晶化している。見事と言う他はない。当面、現代の俳句はこの傾向を主点に展開されてゆくのであろう。翻って、岩淵さんが長く係っている現代詩の分野では、今どのような〈詩の身体化〉が図られているのだろうか。
古書店の奥へ枯野のつづくなり
老いて今冬青空の真下なり
喪心や夜空の隅の冬木立
〈現代詩の身体化〉された象徴の作品と解するにはあまりにも淋しい。現代詩は既に三句目のように葬られたのか。いや今なお青春期にあり血を滾らせていると信じたい。
さて、本句集の到達点にはさらに〈思想の融合した身体化〉が認められる。
悟リとは杉の直幹石鹸王
魂となるまで痩せて解夏の僧
十六夜の柱と共に立ち上がる
一句目、二句目には叙述性を越えた身体化への直截的な志向がある。さらに成功作は三句目ということになろうか。無上の真言という仏語は、〈思想の融合した身体化〉と同義となる。「心に罫礎なす」も意義深く協働した言葉となって掲出三句と響き合っている。 最後に、岩淵さんの永年のテーマ〈時間〉意識にて成功した句も指摘しておきたい。
瞬間のうちかさなりて滝落ちる
後藤夜半、水原秋桜子の名句を想望し、かつ永遠の〈文体の思想〉を俳句に求めつづける作者の身体意識の結晶である。本句集の文運と著者の活躍を祈念し、摺筆とさせて頂く。
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一句鑑賞 「俳句四季」
小津のやう 筑紫磐井
もうひとリ子がゐるやうな鵙日和
昨年一年間、角川書店の「俳句」で大輪靖宏、擢未知子らと毎月の俳句作品を講評する合評鼎談〉を行った。三人の内の二人は毒舌家として知られていたので、かなり容赦ない批判であったと受け取られていた(と人づてに間いている)。
それはそれとして、その最終回(一三回目に、一年間感銘を受けた句を二〇句ずつ取り上げて,「俳句年鑑」で特別座談会を行った。重なり合うことの少ない三人だが、このとき擢未知子と私がそろって激賞したのは岩淵喜代子の「雫する水着絞れば小鳥ほど」であった。膨大な対象句の中で、作家が重なり合うことはあっても、一句が重なり合うことは滅多にない、希有な例であった。
この句は、今回の句集にも収録されており、なるほどいい句である。「小鳥ほど」などなまじな作家の言える譬喩ではない。これからみても、岩淵喜代子はうるさい批評家を簡単に黙らせてしまう実力の特ち持ち主だと言うことがよく分かるだろう。
とはいえ今回取り上げたのは掲出句である。「もうひとり子がゐる」とは不思議な感覚だ。「小鳥ほど」のように、うまさがたちどころに説明できる向とはまた違った岩淵喜代子の世界が現れている。 二人の子が一人になる(例えば事故や病気や戦争で)という感覚は切実だが、もう一人子がいたら、はとても男親では実感できないし、女親でもその説明には困惑するのではないか。
小津安二郎の映画では、しばしば鎌倉が舞台となり老父と嫁ぎ遅れている娘の淡々とした生活が描かれるが、そんな感覚かもしれないと想像する。この句で動かない季題「鵙日和」は小津映画にふさわしい題だ。「晩春」「麦秋」[秋日和」という作品と並んで小津作品にあってもおかしくない。それもこの句が小津作品に通う点だろう。
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太虚に回生する言葉の力 五島高貴
日陰から影の飛び出す師走かな
岩淵喜代子さんとは俳句関係の会合で数度お会いしただけである。だからほとんど純粋に俳句作品の印象そのままが岩淵さんその人と言って良い。今回の句集『嘘のやう影のやう』でもその作品一つ一つに立ち現れる句姿は句集全体のイメージを構成すると同時に句集全体のイージを包摂するような懐の深さを持っている。このフラクタルの美しさこそ句集名の出来となった次の一句に舞う黒揚羽のそれである。
嘘のやう影のやうなる黒揚羽
例えば高浜虚子の〈山国の蝶を荒しと思はずや〉における山国の蝶に通じるしなやかな強さを特つ黒揚羽である。それは俳句と共にした三〇年という光陰のはかなさであるが、しかし、上五中七の措辞によって再び陰陽を生む万物の元気たる「大言」へ立ち返ることによって取り戻した静謐なる力を秘めた美しさでもある。
大巌をゆらしてゐたる花の影
原石鼎の〈花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月〉では大巖が花影に質量を与えたが、掲句では「大虚」から溢れる気が「花の影」をして大巌をさえ動かしむる詩の力となったのである。石鼎といえば〈石鼎の貧乏ゆすり野菊晴〉という句も入集している。岩淵さんは石鼎の孫弟子に当たるので当然かもしれないが、吉野の山奥という辺境にあって却って詩神の恩沢をものにした石鼎の底力に通じるものを受け継いでいるようだ。
〈老いて今冬青空の真下なり〉に覗われる「白き五弁の梨の花」のような美しい諦観も佳いと思うが、私としてはやはり次の句に見られるような陰を陽に転換して止まないダイナミズムの刹那からほとばしる言葉のカに勇気づけられたいものである。 一
日陰から影の飛び出す師走かな
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夢想の彼方 上田禎子
冬銀河潜り全席自由席
この句集を読み進むとき、ときどきはてな? どうして? と立ち止まる。言葉の難解さにではなく、ただその組み合わせの面白さ、不思議さにである。終りには心の中が驚きと不思議な思いで満たされている。
掲げた句は、そのように立ち止まって、しばし思いをめぐらす、多くの句の中の一つである。冬の空の銀河は、澄んだ大気の中で見るからに冷たく輝いている。そんな凍りつくようなところを潜るなんて誰が思うだろうか。だが、好奇心旺盛な作者は物事の奥の奥を考えてしまう。潜った冬の銀河の底になにがあるか、なにか特別な佳きもの、素晴らしいものがあるかもしれないと夢想する。
思い切って潜ってしまった銀河の底は、広場が劇場か映画館か。見回せば、そこには自由な空気が無限に漂っていることを発見する。座席が並び、どこに座ってもいい。全部自由席。誰が来てどこに座ろうと。料金は無料か有料か定かではないが、あの冷たさを潜り抜けてきた人の勇気を称えやはり無料に違いない。
そして、座席のどこかに作者、岩淵代表の涼しく座している姿があり、そのあたりには「ににん」の仲間のみならず、多くの『硝子の仲間』(第三句集)たちがリラックスして座り、歓談が始まり宴となるのである。
この句は「ににん」の精神にも通じている。会員はみな平等な立場であり、「ににん」を基盤に自由に活躍している。「ににん」の句会にはさまざまな結社の人々が居て、それぞれ自分の思うことを言う。代表の選句は幅広く、オーソドックス、批評を述べる口調は穏やかであり、みんな静かに耳を傾ける。
沈着冷静に見える代表だが、「梔子の匂ふ方向音痴かな」と意外な一面がある。また「雫する水着絞れば小鳥ほど」の小さなもの、「芋虫に追はるる猫の後退り」の猫など愛らしいものを詠み、親しみを感じさせられている。
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