2008年7月 のアーカイブ

評論集と句集

2008年7月31日 木曜日

池田澄子評論集『休むに似たり』  ふらんす堂刊

これまでに発表した評論を一つにしたもの。題名からして池田澄子なのである。この題名そのものが、ある種の含羞。

彼女は俳句もそうだが、文章も口語体。当りまえといえば当りまえなのだが、徹頭徹尾口語調。すなわちはなしことばなのである。納得した言語しか使わない、といってもいい。だからとても読み易い。あっというまに読んでしまう。

一集の三分の一くらいは師である三橋敏雄もついて。もう少し三橋敏雄について書けばそれだけで、一冊出来てしまうのではなかっただろうか。

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八木忠栄句集『身体論』第二句集  砂子屋書房刊

詩人だから、詩集はもちろんたくさん出しているが、その中で余技の句集も二冊発行しているのは、詩人達の中では、俳句への傾斜度が強いほうだと思う。一集は滑稽を目指しているのだが、私が選ぶとやはり抒情的な句になってしまう。

   冬の蔵から冬の骨かつぎ出す
   残菊のほうへかついで行く柩

一句目、冬の蔵は分かっても冬の骨が理解出来ない。それでもなぜか骨とはいいながら無機質な明るさがある、不思議さを醸し出す。二句目も偶発的動作が不思議になる。あえて、言えば計らいのない二句目の不思議さに、より惹かれる。

   紙風船突けども遠し日本海
   春昼や河馬一000頭の河ながれ

紙風船に配された日本海、しかも「日本」とい言葉が懐かしい。二句目の、河なのか河馬の背なのか、とにかく濁流の油絵を感じる。
       
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小原啄葉句集『而今』 角川書店刊

『而今』とは今の一瞬という意味。大正十年生まれの作者の第六句集目である。

   抱いて来てここらときめし籠枕
   雛あられゴリラの掌よりこぼれつぐ
   古暦剥がされずある避難小屋
   白魚の水の重さを量り売る
   玄関に不貞寝にも似て大冬瓜
   満月は明日かと言ひて身籠りぬ

対象物を思わぬところへ置くことで、生き生きと見えてくるのが不思議。籠枕にしても、雛あられにしても、当りまえなところなら少しも目立たない。玄関に不貞寝しているのが冬瓜というのも、その大きさが見えてくる。

正津勉詩集『嬉遊曲』  アーツアンドクラフツ刊

2008年7月28日 月曜日

syouzu.jpg 

 帯文    山の草木、鳥獣虫魚と戯れる

        草木を分け、岩土を這い登る
        視線は小さきもの、はたまた
              見晴かす稜線や雲の流れへーー
        山で出会った全てを慈しむ待望の詩集

『遊山』に続く六年目の詩集は、やはり山野の鳥や虫やらに焦点をあてた作品、というよりも、その鳥やら虫に語りかけている作品がならぶ。初期の鮮烈さとはちがう、正津勉の呼吸というよりも、吐息のようなものが、流れている。

あとがきで、著者自身が、~~ ー第一詩集「惨事」(1972年)の後書きに書いた「自嘲、ただそれだけがのこるものとしてのこったようだ」~~  とある。この含羞が、詩になっているような気がする。

いずれ、正津ゼミの仲間との作品論の場が展開されるるだろうから、そのときに、また書き加えようと思う。

『俳句四季』七月号転載

2008年7月26日 土曜日

身体意識の結晶 ーーーーーーー 小澤克己

 岩淵喜代子さんには、すでに『朝の椅子』『蛍袋に灯をともす』『硝子の仲間』の三冊の句集がある。加えて『墟のやう影のやう』が四冊目の句集となる。第二句集『蛍袋に灯をともす』で第一回「俳句四季大賞」を受賞し、世に広く知られる実力俳人になった。同人誌「ににん」を創刊した翌年(平成一三年)、二十一世紀が始まったばかりのことだった。
 岩淵さんの句歴はもう三十年以上。かつてのエッセイで「文体は思想」として林田紀音夫を論じていたが、第四句集への道程は将に岩淵さん自身の〈文体は思想〉探りだった。
  
   雨だれのやうにも水魚あたたかし
  眠れねば椿のやうな闇があリ
  鱧食べてゐる父母の居るやうに
  秋の蝉鎧のやうなものを着て
  火のやうに咲く花もあリ迢空忌

直喩〈やうな〉を使った作品。句集名も、

  嘘のやう影のやうなる黒揚羽

 とくやうな〉を二つ使っている。この修辞表現にはみな〈文体は思想〉という意識が強く働いている。逆説的に文体を思想化〉出来ぬ作品は俳句ではないと言えようか。すると、安易に修辞表現に頼る文体も、その思想化からは遠のくことになる。難しい所だが、岩淵さんは敢えてその難点に切り込んでいる。直喩よりも暗喩(隠喩)に文体の複層化が包含されているが、作品の読み、あるいは伝達の拡散性の問題を孕んでいる。実は、句集名となった先句にもそれが内在している。
 つまり、〈嘘のやう〉〈影のやう〉の畳みかけの直喩が実はすでに隠喩化していることに気づく。例えば、『般若波羅蜜多心経』の「諸法空相」、実存主義の「存在と無」、逆上ってギリシア哲学者プラトンの「イデア論」などの存在論の認識に対峙させてもよい。黒揚羽の句は十分その思想の重みに耐えている。
 さらに隠喩が思想化を果たすと、〈詩の身体化〉が始まる。

  白魚を遥かな白馬群るるごと
  海風やエリカの花の黒眼がち
  春眠のどこかに牙を置いてきし
  青鷺は大和の国の瓦いろ
  雫する水着絞れば小鳥ほど

 本句集に高い水準の評価が集まるのは、この〈詩の身体化〉の成功であろう。西東三鬼の「穀象の群を天より見るごとく」に近い成功作の二回目、エリカに黒眼を発見した詩的洞察、自己の詩的変化を〈牙を置いて〉でシンボル化した手柄、〈青鷺〉を〈瓦いろ〉と形象・象徴化させ、五句目は、自己身体がまとっていた水着の別事物(小鳥)への身体化か図られ、成功した表現に結晶化している。見事と言う他はない。当面、現代の俳句はこの傾向を主点に展開されてゆくのであろう。翻って、岩淵さんが長く係っている現代詩の分野では、今どのような〈詩の身体化〉が図られているのだろうか。

  古書店の奥へ枯野のつづくなり
  老いて今冬青空の真下なり
  喪心や夜空の隅の冬木立

 〈現代詩の身体化〉された象徴の作品と解するにはあまりにも淋しい。現代詩は既に三句目のように葬られたのか。いや今なお青春期にあり血を滾らせていると信じたい。
 さて、本句集の到達点にはさらに〈思想の融合した身体化〉が認められる。

  悟リとは杉の直幹石鹸王
  魂となるまで痩せて解夏の僧
  十六夜の柱と共に立ち上がる

 一句目、二句目には叙述性を越えた身体化への直截的な志向がある。さらに成功作は三句目ということになろうか。無上の真言という仏語は、〈思想の融合した身体化〉と同義となる。「心に罫礎なす」も意義深く協働した言葉となって掲出三句と響き合っている。 最後に、岩淵さんの永年のテーマ〈時間〉意識にて成功した句も指摘しておきたい。

  瞬間のうちかさなりて滝落ちる

 後藤夜半、水原秋桜子の名句を想望し、かつ永遠の〈文体の思想〉を俳句に求めつづける作者の身体意識の結晶である。本句集の文運と著者の活躍を祈念し、摺筆とさせて頂く。

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       一句鑑賞      「俳句四季」

小津のやう  筑紫磐井

  もうひとリ子がゐるやうな鵙日和

 昨年一年間、角川書店の「俳句」で大輪靖宏、擢未知子らと毎月の俳句作品を講評する合評鼎談〉を行った。三人の内の二人は毒舌家として知られていたので、かなり容赦ない批判であったと受け取られていた(と人づてに間いている)。
 それはそれとして、その最終回(一三回目に、一年間感銘を受けた句を二〇句ずつ取り上げて,「俳句年鑑」で特別座談会を行った。重なり合うことの少ない三人だが、このとき擢未知子と私がそろって激賞したのは岩淵喜代子の「雫する水着絞れば小鳥ほど」であった。膨大な対象句の中で、作家が重なり合うことはあっても、一句が重なり合うことは滅多にない、希有な例であった。
 この句は、今回の句集にも収録されており、なるほどいい句である。「小鳥ほど」などなまじな作家の言える譬喩ではない。これからみても、岩淵喜代子はうるさい批評家を簡単に黙らせてしまう実力の特ち持ち主だと言うことがよく分かるだろう。
 とはいえ今回取り上げたのは掲出句である。「もうひとり子がゐる」とは不思議な感覚だ。「小鳥ほど」のように、うまさがたちどころに説明できる向とはまた違った岩淵喜代子の世界が現れている。 二人の子が一人になる(例えば事故や病気や戦争で)という感覚は切実だが、もう一人子がいたら、はとても男親では実感できないし、女親でもその説明には困惑するのではないか。
 小津安二郎の映画では、しばしば鎌倉が舞台となり老父と嫁ぎ遅れている娘の淡々とした生活が描かれるが、そんな感覚かもしれないと想像する。この句で動かない季題「鵙日和」は小津映画にふさわしい題だ。「晩春」「麦秋」[秋日和」という作品と並んで小津作品にあってもおかしくない。それもこの句が小津作品に通う点だろう。
    

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太虚に回生する言葉の力   五島高貴

  日陰から影の飛び出す師走かな

 岩淵喜代子さんとは俳句関係の会合で数度お会いしただけである。だからほとんど純粋に俳句作品の印象そのままが岩淵さんその人と言って良い。今回の句集『嘘のやう影のやう』でもその作品一つ一つに立ち現れる句姿は句集全体のイメージを構成すると同時に句集全体のイージを包摂するような懐の深さを持っている。このフラクタルの美しさこそ句集名の出来となった次の一句に舞う黒揚羽のそれである。

  嘘のやう影のやうなる黒揚羽

 例えば高浜虚子の〈山国の蝶を荒しと思はずや〉における山国の蝶に通じるしなやかな強さを特つ黒揚羽である。それは俳句と共にした三〇年という光陰のはかなさであるが、しかし、上五中七の措辞によって再び陰陽を生む万物の元気たる「大言」へ立ち返ることによって取り戻した静謐なる力を秘めた美しさでもある。
 
  大巌をゆらしてゐたる花の影

 原石鼎の〈花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月〉では大巖が花影に質量を与えたが、掲句では「大虚」から溢れる気が「花の影」をして大巌をさえ動かしむる詩の力となったのである。石鼎といえば〈石鼎の貧乏ゆすり野菊晴〉という句も入集している。岩淵さんは石鼎の孫弟子に当たるので当然かもしれないが、吉野の山奥という辺境にあって却って詩神の恩沢をものにした石鼎の底力に通じるものを受け継いでいるようだ。
 〈老いて今冬青空の真下なり〉に覗われる「白き五弁の梨の花」のような美しい諦観も佳いと思うが、私としてはやはり次の句に見られるような陰を陽に転換して止まないダイナミズムの刹那からほとばしる言葉のカに勇気づけられたいものである。      一
  日陰から影の飛び出す師走かな

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夢想の彼方   上田禎子

  冬銀河潜り全席自由席

 この句集を読み進むとき、ときどきはてな? どうして? と立ち止まる。言葉の難解さにではなく、ただその組み合わせの面白さ、不思議さにである。終りには心の中が驚きと不思議な思いで満たされている。
 掲げた句は、そのように立ち止まって、しばし思いをめぐらす、多くの句の中の一つである。冬の空の銀河は、澄んだ大気の中で見るからに冷たく輝いている。そんな凍りつくようなところを潜るなんて誰が思うだろうか。だが、好奇心旺盛な作者は物事の奥の奥を考えてしまう。潜った冬の銀河の底になにがあるか、なにか特別な佳きもの、素晴らしいものがあるかもしれないと夢想する。
 思い切って潜ってしまった銀河の底は、広場が劇場か映画館か。見回せば、そこには自由な空気が無限に漂っていることを発見する。座席が並び、どこに座ってもいい。全部自由席。誰が来てどこに座ろうと。料金は無料か有料か定かではないが、あの冷たさを潜り抜けてきた人の勇気を称えやはり無料に違いない。
 そして、座席のどこかに作者、岩淵代表の涼しく座している姿があり、そのあたりには「ににん」の仲間のみならず、多くの『硝子の仲間』(第三句集)たちがリラックスして座り、歓談が始まり宴となるのである。
 この句は「ににん」の精神にも通じている。会員はみな平等な立場であり、「ににん」を基盤に自由に活躍している。「ににん」の句会にはさまざまな結社の人々が居て、それぞれ自分の思うことを言う。代表の選句は幅広く、オーソドックス、批評を述べる口調は穏やかであり、みんな静かに耳を傾ける。
 沈着冷静に見える代表だが、「梔子の匂ふ方向音痴かな」と意外な一面がある。また「雫する水着絞れば小鳥ほど」の小さなもの、「芋虫に追はるる猫の後退り」の猫など愛らしいものを詠み、親しみを感じさせられている。
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ゆうやけ

2008年7月23日 水曜日

yuuyake.jpg   

 今日の夕焼色は、なんとも優しい色合。消える寸前の空にあわててシャッターを押した。 
毎日新聞夕刊の文化欄で詩集を紹介しているのは、松浦寿輝。ひさしぶりにほっとするような文章だった。

—美しいことばを書きつけようとする人ー-本来、それこそ「詩人」だったはずではないか。刺激的なものばかりが持って囃されるこの埃っぽいご時世に、そんな古臭い「詩人」の、「詩」の定義を信じている人々など、どうや少数派になってしまったような気配ではある。—

そう、あまりに意味を思想を追うために、俳句もなんだか韻律も失いかけている。頭で考える俳論が増えたせいかもしれない。 わたしにも、物凄く持て囃されている俳句に、なんだか、危機感を感じるときがある。それでいいの?という思いがある。

北京ダック

2008年7月20日 日曜日

「北京ダックを食べる吟行会」 なるものを企画するのは、慈庵さんしかいない。集ったのは12人。12時に国立新美術館を覗いて、それから、北京ダックの店まで、乃木神社・昔の龍土町の石鼎の住んでいたところに寄るという遠回りをしながら、六本木の中国茶房へ。

 はじめてたべた北京ダックはもう20年以上前の中国である。北京飯店という店だったと思う。そこで食べた北京ダックという思いがあったので、東京、しかも有名な中国料理の店で出てきた北京ダックには失望してしまった。その時は、

隣に中国を同行した鈴木栄子さんが居て、ふたりで、「これは東京の北京ダックだわね」と言い合った。からからの皮が2,3枚出てくるだけで、あまりにあっけない。

いくら北京ダックが皮を食べる料理だったとしても、全く皮だけじゃ美味しくない。その後も気になって、何度か北京ダックを註文してみたが、「これじゃーない」という印象しかなかった。

連れていってくれた飯店は北京ダックを1羽、2羽と註文する。そこで今回は本物だ、と期待した。皿に丸焼きの鳥を載せてきたボーイはそれを我々の目で確認させてから、皮を切って皿に並べてきた。その店にいく道々にも、中国料理の店を幾つも通り過ぎた。どの店にも「北京ダック」を特別目立つように表示してあった。

案外、そこには、中国料理の店がかたまっているのかもしれない。とにかくやっと出会えた北京ダック! 美味しかった。

奇跡のシンフオニー

2008年7月19日 土曜日

ぶっらと立ち寄って観た映画だが、泣かせる映画だった。

施設で育った少年は顔も知らない両親がいつかは迎えに来てくれると信じながら暮らしている。少年は稀な音感の持ち主。自身も楽器を奏でると両親に届くような気がしている。

チエロ奏者のライラは、自分の生んだ子が実は生きいたことを父親に告白されたことから、子供探しが始まる。一方、少年の父親であるルイスは子供の存在は知らなかったが、一夜限りのライラへの想いに、人生をさ迷っていた。

三人それぞれの想いがストーリーを展開させていくのだが、最後は少年がセントラルパークの野外劇場で自分の作った曲「オーガストの狂詩曲」の指揮をする。図らずも、その前のステージで久し振りにライラが演奏していた。そうして、知らずにその野外コンサートに、ルイスが引き寄せられていく。

アメリカ映画の特徴は、最後はハーッピーエンドに終るところ。この映画もまさにそうなのだが、イメージぴったりの役者が揃うところも、楽しめる。一人の人へ届けようとするひたすらな想いに繰り広げられるストーリーはお伽噺的なのだが、納得してしまう映画。

記念号「澤」・句集「一陽来復」

2008年7月18日 金曜日

『澤』七月号創刊八周年記念号   主宰・小澤 實

『澤』は毎年記念号の大冊(426ページ)を発行しているが、その都度テーマを持っている。前回は俳壇の若手特集だったが、今回は田中裕明特集。写真・書簡・に続き第一句集『山信』の複刻版。しかもこの句集は限定10部しか制作されなかったものだから、複刻版は貴重な資料となる。はじめてその句集が手書きの句集だったことも知った。

   新聞紙破れ鬼灯赤くなる
   我知らぬ人より母が柿もらひ
   日のあたる机に石榴割れてあり

それと小澤實選の裕明作品二百句。裕明俳句の鑑賞・評論で239ページを使う保存版である。結社誌というと内部に向けての発信が多い中、稀な見識を発揮した記念号。

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中戸川朝人 第四句集『一陽来復』

    風邪の衣をつまみ運びに末子たり
    去りし背のいつまでもある黄沙かな
    桃つつむ気泡しろがね瀬音殖ゆ
    ひれ酒やうしろ戸に服噛まれゐて
    花茨川底は地の傾きに
    手をまはす幹より木霊土用波
    虫売の縄張ることをはじめけり

文学の描写力を発揮した一集。

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荻窪俳句教室

2008年7月16日 水曜日

俳句教室の夜をやってくれないかと声を掛けられたのは、一年ほどまえ。「結社を持ってないから人が集らないわよー」と尻込みしたが、結局五人という最低の人数で出発した。それが、すこしずつ増えて、荻窪の駅続きのビルの中の読売文化センター内で受講者は12人。

半数以上が男性というのも、夜の教室の特徴である。「ににん」購読をしていてくれた人が、広告を見て入会した例もある。前月に集めておいた句稿を無記名で選句用紙に書きこんでおいたのが、当日の教材になる。

俳句は長年かかわったから巧くなるというものではないようだ。毎回とても新鮮でしかも純粋。先月の句会の中で良かった作品を、もういちど次の句会で、著名な人の作品と並べて、鑑賞してもらう。

 先月の教室の作品一句と歳時記からの作品。

       手のひらに重さのありぬ落し文   上河内岳夫(教室の作品)

       落し文夕日の中にひろげけり     原石鼎

       落し文ほどけば長き葉なりけり    原石鼎

       音たてて落ちしみどりや落し文    原石鼎

       落し文遠くて近きものに妻      原田青児

       中堂に道は下りや落し文       高浜虚子

今回の一句「手のひらに重さのありぬ落し文」が先月の秀逸に選んだ句。みんなで飲み屋でわいわいしているときに、この中では虚子のが一番下手だよね、という結果になった。なぜかというと、取り合わせの句は他の季語でも成り立つから、という結論になった。

体重計

2008年7月16日 水曜日

このところ、毎日体重計に乗るのは、ほんの少し、体重を減らしたいからである。或るときまで学生時代の45kをずーっとキープしていたのに、徐々に増えて50kにあと少し、というところまできた。

「そのくらいは普通じゃない」とも言われるが、身長150センチのわたしは、45kを越えるとやはりメタボのような体型になる。現在やっと46k台に落ちたので、これを戻してはいけないのだが、運動しないので、食べる分だけ正直に増えている。

夕べは荻窪俳句教室のあとに、いつものように飲み食いで終って、やっはり遅い時間の飲食は翌日の測りに現れる。減量のもう一つの目的は「ににん」にやく一人、どうしても体重を減らして貰いたい人がいるからである。足に肩にその肥満が影響しているからである。

だからいつも「私はAさんのために減量努力をしているのよ」と句会で宣言している。

「なんにもならない!!」   という声が他から上がるのだが、

「そんなことはない。念ずれば通じるという言葉を信じているから、いつまでも効果が現れなければ、私の体が消えちゃうからね」

とプレーシャーを掛けておく。

鑑賞

2008年7月11日 金曜日

「嘘のやう影のやう」を読んだ友人の一言ですと、ににんの仲間が鑑賞を転送してくれた。

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今日、知人の庭の薔薇を見ました。「薔薇園を去れと音楽鳴りわたる」の句が不意に頭に浮かびました。素晴らしいバラを見飽きることなく、まだ永遠にこの園に居たいのに、不意に閉園の音楽(ナンの曲か?)が鳴り響く。人生もこのように終わるのと言っているようにも思えました。

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 この、「人生もこのように終わるのと言っているようにも思えました。」という最後にドキンとさせられた。この句は、神代寺植物園での句。みんなで、ベンチで句会をしたときに、閉園を知らせる音楽を聴いた。出句時間ぎりぎりで出来た一句。出してから、誰かが「すごいわね。これ本当に今作ったばかりの句ね」といった。俳句はほんとうに、どんなときに出来るのかわからない。

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