池田澄子評論集『休むに似たり』 ふらんす堂刊
これまでに発表した評論を一つにしたもの。題名からして池田澄子なのである。この題名そのものが、ある種の含羞。
彼女は俳句もそうだが、文章も口語体。当りまえといえば当りまえなのだが、徹頭徹尾口語調。すなわちはなしことばなのである。納得した言語しか使わない、といってもいい。だからとても読み易い。あっというまに読んでしまう。
一集の三分の一くらいは師である三橋敏雄もついて。もう少し三橋敏雄について書けばそれだけで、一冊出来てしまうのではなかっただろうか。
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八木忠栄句集『身体論』第二句集 砂子屋書房刊
詩人だから、詩集はもちろんたくさん出しているが、その中で余技の句集も二冊発行しているのは、詩人達の中では、俳句への傾斜度が強いほうだと思う。一集は滑稽を目指しているのだが、私が選ぶとやはり抒情的な句になってしまう。
冬の蔵から冬の骨かつぎ出す
残菊のほうへかついで行く柩
一句目、冬の蔵は分かっても冬の骨が理解出来ない。それでもなぜか骨とはいいながら無機質な明るさがある、不思議さを醸し出す。二句目も偶発的動作が不思議になる。あえて、言えば計らいのない二句目の不思議さに、より惹かれる。
紙風船突けども遠し日本海
春昼や河馬一000頭の河ながれ
紙風船に配された日本海、しかも「日本」とい言葉が懐かしい。二句目の、河なのか河馬の背なのか、とにかく濁流の油絵を感じる。
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小原啄葉句集『而今』 角川書店刊
『而今』とは今の一瞬という意味。大正十年生まれの作者の第六句集目である。
抱いて来てここらときめし籠枕
雛あられゴリラの掌よりこぼれつぐ
古暦剥がされずある避難小屋
白魚の水の重さを量り売る
玄関に不貞寝にも似て大冬瓜
満月は明日かと言ひて身籠りぬ
対象物を思わぬところへ置くことで、生き生きと見えてくるのが不思議。籠枕にしても、雛あられにしても、当りまえなところなら少しも目立たない。玄関に不貞寝しているのが冬瓜というのも、その大きさが見えてくる。