2007年4月 のアーカイブ

天川栃尾村 その3

2007年4月26日 木曜日

雅子さんが所属している短歌結社「ヤママユ」の主宰前登志夫先生が三日目の電車に乗るまでを、一緒にお付き合いしてくださることになって、車三台に分乗した。

前先生とは以前、万葉の土地「井氷鹿の里」を案内して頂いたことがある。
以前も健脚だと思っていたが、九十歳の今日も足どりは軽い。そのあと波宝(はほう)神社へ。

ここは小高い山の上に鎮座する社で、途中の急な山道から見える真下の村々は朝もやが濃く、見えたり見えなかたりしていた。
波宝という文字を使っているのは、付近一帯が銅の鉱脈があったことに由来しているようである。延喜式神名帳にしるされた古社らしい。
参拝を先に済ませた前先生が、奉加帳に持参の筆ペンで記帳していたので、ノートを出して揮毫をお願いしたら、持っていた杖を預けて伸吟しはじめた。

私はいままでの作品のお好きな歌をさらさらっと書いて頂ければよかったのに、みんなを足止めする形になって身を小さくしていたが、やがて、見開きのページいっぱいに、歌が書かれていた。最後に樹下山人と記されていた。これは、「主宰誌やままゆ」の中でエッセイなどを連載しているときに使っている名である。

「夜中」という地域があった。「夜中地区案内図」などが山道の途中にあったが、そこに記されている名前は20軒とは無かった。
なぜ「夜中」なのかを運転手さんは「遠いから帰りは夜中になっちゃうんじゃーないの」といったが、思わず頷いてしまった。実際には、神功皇后が三韓から帰って、南紀に向かう途中、白昼であるのに、にわかに夜中のごとく暗くなった。そこで神に祈ったところ日が照りだしたという由来があるようだ。

たった二泊三日の旅なのだが、なんだか浦島太郎のように遥かな時間を使った気分に、みんな酔っていた。
近鉄下市駅で、前先生の娘さんが迎えにきていたが、先生はわたしたちの列車を見送るからと、ずーっと駅に立っていらっしゃた。  (完)

天川栃尾村 その2

2007年4月25日 水曜日
村中の畑は猪垣のなかにあった。
夏から秋にかけて猪が薯など食い荒らすらしい。

籤引きで貰ったベチュニアは民宿の花壇に並べて、祭りの夜は猪鍋だった。豚肉よりもはるかに赤い肉で脂身も厚いのだが、鍋の中は不思議とぎらぎらしなかった。一行の一人がワインとワイングラス、シャンパングラスを宅急便で宿に送りつけてあったので、夕べも今夜もワイン攻め。

ひとしきりは昼間の祭りの話になった。じゃんけんで唯ひとり景品が当ったのが、滋庵の雅子さんだが、なんとそれが農作業に使う鍬であった。それを手にしたときから、ドースルノヨと眺めていたが、彼女はしっかり持って帰ると意気込んでいた。

食事どきに、例の俊太郎さんが大きな籠を持って入ってきた。わたしたちへの、銀杏のお土産であった。御堂の横に円空銀杏と名付けた大銀杏があって、その管理人の家で村中にわけるのだという。その銀杏の実がまだあったのである。

猪肉は食べても食べても減らないで、ワインも飲んでも飲んでも減らない感じだったが、下戸組から部屋にもどった。結局五人は下戸組で自室でほとぼりを冷ましていた。

上戸組みはそれから何時間も飲んでいたような気がする。ここの民宿の女主は八十歳。片付かないから、気の毒だと、ときどき誰かが見に行くのだが、「話は佳境に入っているから、とても腰を上げそうにない」と戻ってきた。その次に見に行った人は、民宿の女主人も一緒になって騒いでる、ということで戻ってきた。

部屋にみんなが戻ったのは十一時ぐらいだったらろうか。酔っているようでも、しっかり宿の女主人の語る半生を聞いてきた。60歳まで教師をしていて、そのあと、親のやっている民宿を継いだのだそうである。
翌朝、最後の観音堂にお参りをすることになった。幹事が

「短冊が用意してあるからみんな一句づつ書いてくるのよ」

と、言うのだった。それは大変とばかりに、みんな句帳を開いて、どの句にするか物色していた。観音堂に入って、短冊はと聞いたが

「えっ、なに短冊って」

と俊太郎さんがいった。
幹事が妄想を抱いていたのだろうか。なにしろ天川は不思議なことの起こる場所だから気にしない。短冊ではなく、また来年来るようにと、住所と電話番号を書かされた。

「きっと、来年お誘いの案内が来るわよ。今度はににん御一行さまで行けばー」

なんて言われて、「そうね」と、思わず言いそうであった。
観音堂の桜は昨日よりもだいぶ開いたが、雨に濡れているので、牡丹桜の豪華さを発揮できないでいた。(つづく)

天川栃尾村 その1

2007年4月24日 火曜日

慈庵の雅子さんに誘われて桜を訊ねた。
それは、天川栃尾村である。
天川村と言えば天川弁財天が有名だ。そこへいくにも京都から近鉄特急で一時間半以上かかり、さらに村営バスで一時間奥に入る。
栃尾村は、それよりさらに奥まったところにある。
少し前までは、70軒ほどあったが、今は50軒足らずとか。そんなところにも民宿があった。
夏は鮎釣りやキャンプに来るらしいが、あとは、どんな人がくるのだろうか。想像できない。

観音堂 には円空仏が4体祀ってある。
とは言っても、少しも有名ではない。
単に都合つく日に桜のまだありそうな所を探っているうちにゆきついたのが栃尾だった。
 祭りの前日到着した私たちは観音堂を開けて貰って円空仏を間近に拝顔させて貰って、胎内仏も堪能させていただいた。円空仏に特別な執心があるわけでもなかったが、そんなに優遇されると、なんだか特別な仏さまに思えてくる。
御堂は10人全部が入るには狭かった。

御堂の隣に一本の八重桜が二分咲きになっていた。結局その一本のために、岐阜、仙台、埼玉、東京からはせ参じたのである。見渡してみても、他に桜はなかった。
祭りは1日かぎりで、予報は雨だった。
だからと言って予定を変更するわけにはいかない。村人も御堂の庇から青いビニールシートを張り巡らして雨の明日に備えていた。
管理人の谷川俊太郎そっくりのおじさんは、ひどく親切だった。

祭りの日、空は暗かったが「何とか持ちそうじやないか」と言い合った。
11時30分に近くなるとお坊さんがやってきた。それとて村人。みんな顔見知りのようである。
村人の間を通りながらあちらこちらで会釈が行き交う。
それどころか、わが仲間も会釈をして
「先ほどはどうも」
なんて言っている。寺まで散歩の足を延ばした人がいるのだ。

法要が終わると境内いっぱいに花ムシロがしきつめられた。
例の谷川俊太郎さんが私たちを手招いた。御堂の横の特等席が設けられた。雅子さんがお願いしておいたお弁当も一緒になっているのか聞いても「いいよいいよ」と言うばかり。

村長さんの挨拶がおわるとみんながいっせいに花見弁当を開いた。私たちも、ともかくは、村人と席を並べてお弁当をひらいた。
皿に盛られたおつまみが回り、婦人たちが揚げた精進揚げがまわった。食事の途中で雨がふりだした。私たちはシートの下だったが境内の真ん中に敷かれた花ムシロの人たちは傘をさしたり軒下に避難したのだろう。堂の裏手にまわった親子を呼びいれた。親子ではなく孫だということだった。今日の祭りのために近在からかけつけたのだという。そういった人も合わせても200人くらいだったろうか、250人くらいだったか。
幸い、雨はすぐにあがった。

そのあとが大変だった。また、散歩でもしようかと思って立ちあがった我等一行に、もう少しで餅撒きがあるからというのだった。
餅はともかく、そのまえに奉納した品物がジャンケンでみんなに分配された。
いくらなんでも私たちは遠慮したほうがいいんじゃないの、と思っていたが、何時の間にか私も参加していた。

そのあと餅が撒かれたが、撒かれるのはそれだけではない。奉納されたお菓子がたくさんあって、拾えば帰りの処分に困るのに拾っていた。そのうえに籤引きがあり、わたしはベチュニアの鉢を貰った。どこの場面も、そんなよそ者なんていう顔をする人は居なかったし、みんなも村人になりきっていた。  (つづく)

素粒子

2007年4月10日 火曜日

小田急腺の新宿駅についたとたんい携帯電話が鳴った。
今別れてきたばかりの友人からだ。
今家に着いたばかりなんんだけど、朝日新聞の夕刊に私の俳句が載っているって言うのだ。
彼女は「ソリュウシよ」と繰り返した。
ソリュウシっていうのは「素粒子」と書く。小さな小さなコラムだ。夕刊の朝日新聞という文字の下にある。記念のために全文記録しておこう。
これって無断転載なんていう文句がくるのだったかしら。マー そしたら消せばいいかな。

   ★★★★★★朝日新聞10日夕刊 コラム★★★★★★
       
素粒子
朝鮮半島「またか」の2題。
その1 北朝鮮の核施設封印、6者合意の期限内は無理らしい。
その2 韓国のオオカミクローン論文でデーター捏造疑惑発生。
          *           *
日本列島「またか」の2題。
その1 厚労省が20年来検討の「人の終末」の定義、先送り。
その2 選挙中の「反省」などどこえやら、石原都知事高姿勢。
       *           *
春告魚到来。(生きること死ぬことそれより鰊群来)岩淵喜代子
   ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

家に着くと朝日新聞論説委員河谷史夫氏のフアックスが入っていた。
もちろん、素粒子の筆者である。
鰊があらためて、ほかのどの魚よりも、春告魚だったことを認識した。鰊御殿などという言葉が地元にはあるくらいなので、その押し寄せ方の勢いは、どの魚よりも豪勢なのではないかと、想像している。
この句は、そんな情報から想像して出来た作品なのである。

      生きること死ぬことそれより鰊群来 

 

『奥会津歳時記』黒田杏子・榎本好宏編

2007年4月9日 月曜日

表題のとおり会津、それも奥会津途方の歳時記である。
巻頭に只見川電源流域振興協議会の会長・小沼昇氏のことばがあるところを、見ると、地域活性化と地域保全を願う地元民の応援もあったように見受けられる。

一書は奥会津の行事は勿論だが、奥会津ならではの内容が、読み物としても面白い。たとえば、「雪祭り」といえば、一般の歳時記なら、どの歳時記も北海道や新潟のそれを紹介するが、ここではあくまで奥会津の雪祭りである。
「熊」の項目では、毎年熊狩が行なわれていること知ることが出来る。

ほかに、この地方ならでは季語も満載されている。
「桐供養」などははじめて目にした季語である。そういえば会津地方を旅したときに「桐の木」が多い印象を持ち帰った記憶がある。
粽もこの地方では「菱巻」と呼ばれ、笹団子は「角巻」と呼ばれている。

どんな歳時記にも「漆掻き」は収録されているが、この歳時記にある「漆掻き」も確かに、会津塗りのための漆掻きなのである。

地方ならではの季語として「太良布おっきり」というのがある。解説によれば、「沼沢火口原である太良布高原に雪解期に起きる現象で、太良布の集落付近と高原一帯が堅くしまった雪に覆われているが、その上を「上の原」「惣山」方面からの雪解水が押し出してきて雪の表面を流れることをいう。高原地帯の特異な現象である。」と、奥会津という土地柄を感じさせてくれる季語が随所にあって、奥会津に行ってみたくなる一書である。

『描かれた食卓』と『無灯艦隊』

2007年4月5日 木曜日

『描かれた食卓』磯辺勝著 NHK出版

この本は、1996年からはじまったNHK出版「男の食彩」から7年間66回にわたって連載したものから37編を一書に成したものである。
磯辺さんは一年ほどまえまで、「ににん」にも江戸俳画紀行を連載していた方で、絵を語ることが自然に身についたモチーフになっているのかもしれない。最近の大きな仕事では『NHK世界美術館紀行』がある。
この一書はすべて、食事風景の絵を鑑賞している。
磯辺さんの語り口は、絵の世界の中から語っているような臨場感があふれているので思わずも引きこまれてしまう。
たとえば、ヨルダースン「酒を飲む王」にしても、‥‥‥パッと見ただけでも騒がしい絵だが、よく見るといよいよ騒々しい。王さまの後ろでは、頬をふくらませ、戸外で聞いてもやかましいバタパイプを室内で思い切り吹き鳴らしている。‥‥‥おそらく、画中のその他の人物にも、それぞれモデルがいて、絵ができあがったとき、「えっ、これ俺かい? これはないよ」などと言い合って大笑いしているに違いない‥‥」、とこんな具合に絵を楽しませてくれるのである。
日本の絵では安田靫彦の「憶良の家」では、われわれの知っている貧窮問答歌の憶良のイメージを払拭させてくれる解説がなされているので、まさに蘊蓄を傾けるとはこうしたことなのだと、感銘を受けた。

 


 

句集『無灯艦隊』西川徹郎著 沖積舎

   
不眠症に落葉が魚になっている

作品集の冒頭の一句である。
いつだったか、この俳句に衝撃を受けて、しっかり心にとめた日のことを思い出した。
たぶん俳句をはじめてからそんなに日を経ていない時期だった。作者まではインプットしないまま、月日を過ごしていたが、あらためて、この作品の作者が西川徹郎という作家だったのだと確認した一書である。
今回の句集は作者の十代作品集の再刊なのである。
わたしなどは、西川徹郎と対極にいるので、この作家に縁のないまま今日になっていた。従って、頂いたこの句集によってはじめて名前を意識しながら、作品を読みすすんだ。

  耳裏の枯田にぐんぐん縮む馬
  父の耳裏海峡が見えている
  炎昼の船倉しんしん針が降る
  冬の街どこかで鈴が鳴りて消ゆ
  死んではならず金星耳の裏に生え

などと拾ってゆきなががら、やはり冒頭の「不眠症に落葉が魚になっている」を越える共鳴句はなかった。

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